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月下恋歌  作者: 梨千子
第二章「兄と、弟」
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第四話「浸蝕」

「久しいな、桂宮かつらのみや


 曼殊沙華まんじゅしゃげ

 その男と初めて対面したとき、思い浮かんだのは藤でも芍薬しゃくやくでもなく――その花の名前だった。


 宮中に入った時親と咲夜は、落ち着いた頃に、皇太子と会うことになった。


 非公式な面会である。

 最低限の人数しか置かず、記録も取らぬ形のため、あまり大げさに考えず参加するように。と、特別な言伝ことづてがあったのだが、そこから面会までの数日間の間に、咲夜は紗乃によって、どこに出てもおかしくないほどには磨き上げられていた。肌や髪の手入れはもちろん、着物の色合わせ、最高級の香の焚きしめまで。紗乃は鬼気迫る勢いで、それらすべてを整えていた。


 相手は時親の血縁とはいえ、皇太子である。

 相応の礼儀が必要なのだろうと、咲夜はあっさり考えていたのだが――。


 ああ。

 咲夜は、その男を見た瞬間、腑に落ちてしまった。


 なぜ、紗乃が一片の瑕疵もないように咲夜を仕上げようとしていたのか。

 なぜ、時親が面会を打診されてしばらく、いつにも増して静かだったのか――。


「ああ、今は桂宮ではなかったな。さて……なんと呼ぶのだった?」


 閉じた扇を口元にそっと当て、あでやかに笑う――その人。

 男性でありながら、所作の隅々から感じる気品や、衣から小物の細部に至るまで配慮されたその「粋」は、あまりに完成されすぎていた。


 顔の造作は、どこか時親と似ている。武人である時親よりも線は細かったが、血のつながりを感じる。

 しかし、二人を見比べてみれば、圧倒的に異なる気配と圧力があった。

 ――同じ血とは思えぬほどに。

 

 皇太子の御所。その渡殿。

 几帳や御簾で仕切られたその一区画で、咲夜はこのとき初めて、時の皇太子と会った。


「時親、と。今は名乗っております。殿下」


 時親が、完璧な礼と共に告げる。


「ああ、思い出した。そうであったな」


 ぽん、と軽く扇を打って、にこやかに笑う皇太子を、咲夜は時親の背中越しに見つめる。


「おまえが都を出て、もう十二年か。季節が過ぎるのは早いものだ。おまえの赴いた地は遠く、もはや会うことはないかと思っていたが――また会えて、嬉しいよ」

 

 咲夜は膝の上に合わせた袖の中で、指先を擦った。

 なぜか、ここは寒い。

 風を遮るための几帳は置かれていたし、体を温めるための白湯も出されていたが、背筋を駆けのぼるぞくりとした震えがあった。


 しばらくは、穏やかな話題が続いた。

 辺境での時親の暮らしぶりや、都近辺で起こった出来事、宮中の行事の話など、当たり障りのない話題が通り過ぎていった。

 皇太子は終始笑っていて、時親が返す一言一言に、朗らかな相槌を打っていた。


 渡殿に見える人影は少なく配置されていた。

 皇太子と時親は互いが手を伸ばせば触れ合えるほどの距離で、私的な面会というのがよくわかる。

 だからこそ、咲夜には不思議だった。


 どうしてこの人は、こんなにも……。

 

 ――こんなにも、蒼く冷たい気配をまとっているのだろうか。


 時親の半歩後ろには咲夜がいるというのに、皇太子は一瞥すらしない。

 まるでいないものとして扱っている。時親だけを見ている。

 それが不気味でならなかった。


「時に、桂宮・・


 ひとしきり話題が過ぎたところで、皇太子は白湯で口を湿らせてから、言った。


「妻を、娶ったそうだな」


 何気なく尋ねるその様子に、変化は見られない。

 しかし咲夜は、彼がその話題を選んでなお自分のことを見ないという理解しがたい状況に、ぎゅっと指をつかんだ。

 衣を重ねた胸元が息苦しい。

 

「――はい」

「ずいぶん長くかかったものだ。辺境では、おまえの目に敵う女子はそんなにも少なかったか」


 皇太子は、掌の中で扇を軽く鳴らす。

 

「――それとも、釣り合う女子が現れるのを待っていたか」


 時親は、是とも否とも返さなかった。


「私には過ぎたる妻ですゆえ、釣り合わぬというのであれば、私が至らぬだけのことかと」

「ほう。おまえがそのように評するとは――大変に興味深い」


 皇太子は、目元を緩めた。

 その笑い方は、旅立つ前、咲夜の前でふと表情をほころばせた時親のものととてもよく似ていた。

 白い冬が明け、萌黄の芽吹かせを感じさせたあの笑い方と。


 なのにどうして。

 咲夜は、雪煙が世界を閉ざしていくような錯覚を覚える。

 白銀の美しい世界。しかし足元では、踏み抜けば二度と戻れぬ深雪が、静かに口を開けていた。


「ああ、忘れるところであった」


 ふと思い出したように、皇太子が声を上げた。

 彼の視線が、時親からゆるりと巡って、自らの後ろに流される。


「私としたことが、妃を紹介していなかったな。――綾子(あやこ)

 

 咲夜はそこに一人の女性が座っていたことに、今になって、ようやく気がついた。


 皇太子より半歩後ろに、その女性は静かに座っていた。


 たおやかな肩に、淡い卯の花の衣が滑っている。その下からわずかに覗く蘇芳が、彼女の滑らかな肌をほのかに匂い立たせていた。

 細い指先が、胸の前で開く扇を支えている。淡く散る桜が流水に乗せられた檜扇だ。

 顔は扇でほとんど隠されて、わからない。けれども、綾子と呼ばれたその女性は、静かに目礼したように見えた。


 咲夜はその儚い美しさに息を呑んで、ただ見惚れた。

 

 そんな咲夜の心の内がわかったのかはいざ知らず、皇太子はふふ、と息を漏らす。

 

「おまえも会うのは久しぶりであろう? 最後にまみえたのは、我らの婚儀の席だったものな」

「……はい。妃殿下もお変わりなく、何よりに存じます」

「懐かしいな。私と、おまえと、綾子と。三人で過ごした幼き日々が、戻ってきたかのようだ。なあ」

「は……」

 

 時親は、わずかに言葉を切った。


「……今はもう、遠い昔にございます」

 

 間があった。

 

 咲夜はまた、一段と呼吸が苦しくなったような気がした。

 今すぐにでも、この場から逃げ出したかった。重苦しい衣を、すべて脱ぎ捨ててしまいたい――。


 沈黙を割ったのは、皇太子の持つ扇だった。

 彼は、板張りの床を、扇でとんと叩いて告げた。

 

「おまえの妻について、話を聞きたいな」


 皇太子の視線が、静かに地を這った。

 ゆるりと音を立てず、それは時親から咲夜の足元にたどり着き、膝先から指、肩から喉へと近づいてくる。


「遠い地で伴侶も迎えず、一人戦っていたおまえを、私はずっと案じていたよ。そのおまえがようやく迎えた妻がどのような者なのか。とても興味深い」


 咲夜の首の呼吸が通るところを、優しく撫で上げられたような。

 あとほんの少し力を入れられたらどうにかなってしまう、という強烈な錯覚。

 彼は一歩も動いていなければ、いまだに咲夜と目も合わせていないというのに。


「殿下。我が妻は」


 息ができなくなっていた咲夜を救ったのは、時親のまっすぐ通る声だった。


「妻は大変気位が高く、それをもってなお美しく――この世に二人といない、私の光でございます」


 その一言は、咲夜が感じていた重く冷たい空気を、払うように散らしていった。

 途端に息ができるようになって、咲夜は細く、けれども着実に、深く呼吸を繰り返した。

 固く冷たかった指先へ湯が流されていくような感覚に、体がほどける。

 それどころか、咲夜はどんどん体の中心が熱くなっていく気がした。


 この男は一体、なにを言っているのだ。

 こんな公共の場で、肉親相手とはいえ、あんな恥ずかしい言葉を――。

 

 時親が伝えた言葉は、もちろんこの場を乗り切るための言葉なのだろうけれど、それでも少し、大げさすぎるのではないか。

 この世に二人といない、私の光。だなんて。


 一体どんな顔で言っているのか。

 咲夜はじとりと、時親の背中を見た。

 

「……ふ、ふふふ」


 正面の皇太子が、閉じたままの扇で口元を隠しつつも、笑いを漏らした。

 それは今までで一番、生きた表情だった。

 蒼く冷たい気配は少しだけ息をひそめた。代わりに漂うのは、愉悦の色と――。


 昏く匂い立つ、名を持たぬ気配。


「いいな。()()おまえがそこまで言う女に、とても、興味がわいた」


 そして、目が合った。 

 咲夜は言葉なく、皇太子の瞳を見つめ返した。

 

 時親と同じ暗い瞳の色。時親と似た目元。


 初めて時親の目を見たとき、咲夜はそれを、静謐な湖の水底にも似た、深く昏い瞳だと思った。

 紗乃かぞくを苦しませたくないと吐き出したあのときすらも、彼は痛いまでに静かで、ただ強い覚悟だけがそこにあった。

 一見冷たく感じるその水は、咲夜の足を濡らしはしても、凍えさせはしなかった。


 ああ、でもこの瞳は違う。

 

 火だ。と、咲夜は思った。

 冷たく蒼い薄氷の下に、黒い火が燃えている。妖しくちらちらと揺れる火は、まだ小さい。しかしそれが巨大なものになったとき、その熱は、すべてを飲み込んで燃やし尽くすだろう。

 咲夜はそんな幻視を見て、くらりと視界が揺れた。


「桂宮。いや、時親」


 皇太子は、咲夜と目を合わせたまま、微笑んだ。


「その娘、私の側に置いてみたい」


 え?

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。


 ただ、時親の肩がその言葉を聞いて、わずかに動いたのを見た。

 咲夜はそれで、何かとんでもないことを言われたのだ、と遅れて理解した。


「隣国への牽制だったか。ならば私の側に置く方が、理に適うはずだ」

 

 皇太子はこの面会で初めて、扇を広げた。淡い金地に黒い胡蝶が一羽。

 彼は口元を完全に隠してしまった。


「ああ。でもそれでは、けいの伴侶がいなくなってしまうな。それは心苦しい」


 そして彼は投げた。

 平然と、まるで何でもないことのように。


「代わりに綾子をやろう」


 咲夜はようやく、この男と対峙してからずっと感じていた感情の正体に思い当たった。

 理解できない存在に触れたときの恐れ。ただそこにある、存在の暴力そのものへの恐れ。

 

 そして同時に、この男から向けられていた違和感の正体にも思い至った。


 それは静かで強い、殺意だ。


 向けられているのは、今も彼が視線を留める咲夜ではなく……。

 彼の目の前の、弟――時親であった。


 咲夜の鼓動は、どくりと速くなっていった。

 これはなんだ。咲夜は思った。

 ここは、大饗に招待した皇太子と、招待された辺境の領主と、その領主が迎えた天女の面会の場だったはずなのに。

 主役の一人のはずだった自分は、まったく一言も、言葉を発していないのに。

 ただどんどん、状況だけが動いていく。咲夜の意思を無視して。

 それがこの上なく、いやでいやでたまらないのに。

 なのに咲夜は、何もできずに、ただ縮み上がっている。このわけのわからない恐怖に縛り付けられている。


 なんだか笑ってしまいそうだ。


 咲夜は、目の端にある時親の肩に、意識をぶつけた。

 あんなに子ども扱いするなと啖呵を切ったにもかかわらず、今だけはその背にすがってしまいたいという気持ちが生まれていた。

 卑怯なことだとわかっているのに、初めて知った人のおぞましさというものを目の前にして、咲夜は何かをできる気がしなかった。

 否、自らが少しでも動いた瞬間、この男は嬉々として咲夜を捉え、燃やし尽くすという予感があった。彼は罠を張って待っているのかもしれない。咲夜が動くのを。


 わずかに、息を吐く音がした。

 時親の肩がゆっくりと上下して。

 

「――殿下」


 彼は明瞭な言葉を吐く。


「一介の領主たる私に、妃殿下を下賜いただけるのは、大変光栄なお話ではありますが」


 そして彼は手を伸ばす。


「私はこれを守り抜くことを誓いました。天女か否かは、どうでもよいのです。辺境の民たちも、彼女に心開いております」

 

 顔は皇太子に。

 しかしその手は、咲夜の膝上にある、小さな手を包み込むように置かれた。


「共に在ると決めたのです。どうかご容赦を」


 今度こそ、咲夜は息を止めた。

 ずっと、止まりそうになる呼吸をなんとか元に戻そうとしてきたのに、最後の最後で息を止めたのは、時親の言葉で。


 咲夜は触れられた手に視線を落とした。

 いつの間にか、皇太子の目によってかけられていた金縛りが解けている。

 触れ合った肌が熱い。


 胸の奥がざわついている。

 とっさに、その手を引こうとした。

 けれど、腕を引こうとした瞬間、時親の手にぐっと力が入って、そのまま咲夜の手を縫いとめた。


 逃がさぬ、という意思は感じられなかった。

 時親は振り返らない。ただ目の前の、皇太子の一挙手一投足を見逃さまいとしている。

 

 その、扇で口元を隠した男の昏い瞳が、いつの間にか時親と咲夜の触れ合った手に落とされていた。


 咲夜は細長い息を吐きだして、唇を引き結ぶと、小さく手を動かした。

 掌をひっくり返して、触れ合っていただけの手をそっと結ぶ。

 指で触れたその手の皮は厚い。

 時親の手から力が抜けた。


 ふいに、強い風が吹いた。

 几帳のとばりが巻き上がって、冷たい風が吹き込む。

 髪や袖が舞い上がり、咲夜はとっさに目を閉じた。

 

 風がおさまったとき、渡殿からは、あの蒼く冷たい気配が消えていた。


 目を開ければ、皇太子はもはや咲夜の方を見ていなかった。

 彼は、思わぬ突風に上体を(かし)がせた皇太子妃の、その白い手を支えていた。

 こぼれ落ちた扇を拾い上げ、彼女の手へと戻し、その裾の乱れまでも優しく流してやっている。


「風が出てきたようだ」

 

 そう言うと、ぱち、と自らの扇を鳴らして閉じた。

 さわさわと、控えていた者たちの人影が現れて、場の気配がほどけていく。


「桂宮。今日は久しぶりにおまえと話せて楽しかった。また、な」

「……はい。また、ぜひ」


 時親は挨拶をすると、咲夜を促して退出した。


 咲夜は最後、渡殿をちらりと振り返った。

 皇太子は妃に、何か話しかけて笑っているようだった。

 その横顔には、先ほどあったような強い感情は見えない。もはや時親や咲夜のことは、どうでもよいみたいだ。


 咲夜は、皇太子の御所を改めて眺めた。

 細部まで整えられた屋敷。規律ただしく見目も美しい使用人たち。

 下げられた御簾も、立てられた几帳も、どれも美しく統一されている。

 優雅で、甘く深い香りが、屋敷全体から立っている。


 咲夜は、ぎゅっと眉をしかめた。

 

「……きもちわるい」


 それがこの御所に入ってから、彼女が初めて発した言葉であった。

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