第五話「籠鳥」
朝、一通の文が届けられた。
一輪の白椿が添えられた文。それは、皇太子妃からのものだった。
まだ字が読めない咲夜の代わりに、紗乃に代読してもらったところ、咲夜をぜひ私的にもてなしたいという。
咲夜ははじめ、絶対に行きたくないと思った。
あの皇太子との非公式の対面は、つい二日前のことだ。まだ咲夜の喉元には、あの時の気持ち悪さが残っているのだ。
皇太子妃がどんな人物かはわからないが、あの男の妃というだけで、会う気持ちが失せてしまう。
しかし、仮にも相手は時の皇太子の妃である。
お断りすることは難しいでございましょう、と紗乃は言った。
咲夜は不承不承、諾の返事を送るしかなかった。
紗乃は、念のため時親に相談することを勧めてきたが、咲夜はそうしなかった。
時親と咲夜は、同じ一棟を専用の滞在場所として与えられていたが、部屋は別々だ。
辺境でも領主として忙殺されていた彼は、ここでは元皇子の立場ゆえに忙しいようで、朝早くから夜遅くまでいないことが普通にあった。
咲夜が相談したいと言えば、時親のことだ、きっと時間を取って会ってくれるだろうが――。
皇太子とは別の意味で、咲夜は今、時親とも顔を合わせたくないのだ。
触れ合った手の感触が、やけに鮮明に思い出される。
剣や弓を握る彼の、硬くて厚い手のひら。小さな咲夜の手は、すっぽりと覆われてしまった。
手を取られたことなんて、今まで何度かあったのに。
なぜか今回は、何でもないふうには考えられない。
逡巡しているうちに、すぐに皇太子妃と会う日になった。
当日は、朝から雪が降っていた。
宮中は元から静かな空間だったが、その日は特に、降り積もる白が静けさを増している。
まるで、世界に自分たちしかいないような……。
もしも招待を受けていなければ、雪で遊ぶこともできたのだが。と、咲夜は少し残念に思った。
皇太子妃つきの侍女に案内されて階を上がり、上げられた御簾の中に入る。
すでに、皇太子妃の姿があった。
以前のように扇に隠されることもなく、その目鼻立ちがはっきりと見えた。
白い花のような女性だ。
咲夜は皇太子妃を見て、そう思った。
整えられた髪は長く、濡羽色に艶めいている。
長い睫毛に覆われた瞳は、常に泣いているかのようにきらめいている。
丸い頬はほのかに色づき、唇に差した紅が印象を引き立たせていた。
先日は着ているものしか見えずわからなかったが、やはり貴き美しい女性であった。
「ようこそおいでくださいました、咲夜様。お会いできて、うれしく思います」
声すらも可憐であった。
咲夜は、紗乃から念入りに教え込まれた挨拶を返すと、慎重に用意された席に座った。
私的なもてなしということで、場には皇太子妃と咲夜の二人しかいなかった。
御簾の外側には、ここまで案内に当たった皇太子妃側の侍女や、咲夜に随行した紗乃の気配があったが、室内は完全に二人だけのものだ。
円座の近くに白い敷物が置かれ、そこには淡い橙の実が置かれている。
それは爽やかな香りを放ち、咲夜の緊張を少しだけ解いたけれど、警戒心は余計に強くなった。
さて、何を語られるのかと身構えていると――。
皇太子妃は、咲夜の姿をじっと、隅々まで眺めて、
「初めてお目見えしたときも思ったのですけれど、咲夜様は本当に、とても美しい方でいらっしゃいますね」
と、感嘆の息を吐きながら告げた。
「えっ、と……」
咲夜は戸惑う。
彼女の言葉からは、一切の棘を感じなかった。嫌みではなく、真実そう思ったから言っているのだろう。
だからこそよくわからなかった。
「先日は、大変申し訳ございません。咲夜様にご無理をさせました。殿下は少し、やりすぎてしまうきらいがあるものですから」
咲夜は面食らった。
「どうしてあなたが謝るの?」
あんなに紗乃から口酸っぱく言われていたのに、敬語すら忘れて問いかけてしまった。
咲夜から見れば、この皇太子妃は何も悪くない。
ただ場にいて、巻き込まれただけだろう。
それだけではない。あの皇太子は、自分の妻を差し出すとまで言ったのだ。
夫にそんなふうに扱われて、怒らない妻がいるだろうか。咲夜なら業腹ものだ。きっとその場で殴り飛ばして、別れを選択したに違いない。
皇太子妃は、そんな咲夜の様子を見て、数度瞬く。
そして、ふわりと笑った。儚さを感じる笑みだった。
「あの方のおっしゃった通りのお方ですのね。とても気高い魂。美しく――この世に二人といない光」
「え……」
予想だにしていなかった言葉に、咲夜の背がぴんと伸びる。
「いや、あれは、たぶん、あの場を乗り切るための言葉っていうか、大それた意味では、きっと、なくて……」
言葉を重ねるうちにどんどん早口になって、しかし最後は尻すぼみになってしまった。
なぜだかすごく恥ずかしい。咲夜は整理がつかないまま、そっと手を隠した。
「咲夜様。お願いがあるのです」
「お、お願い……?」
「はい。この都におられる間だけでも、よろしいのです。お友達になっていただけませんか」
皇太子妃は胸に手を当てた。
「ぜひ、綾子と。そうお呼びいただければ、嬉しく思います」
「……」
咲夜は困った。
目の前のこの女性には、咲夜に対する悪意など微塵もないように見えた。
儚い美しさは、決して外側だけではないようだった。ただ純粋に、咲夜と友誼を結びたいのだと感じられた。
本当に、なぜこんな素敵な女性が、あの皇太子の妃なのだろう。
そういえばあのとき……。
皇太子は、自身と時親と皇太子妃が、幼い頃からの仲であると言っていた。
咲夜はそっと、皇太子妃・綾子を見た。
「……あの、私もお願いがあるんだけど、いいかしら」
「まあ。ええ、ぜひお聞かせください」
「その。……昔の、あの人について、聞いてもいい?」
「……あら」
綾子は袖で口元を隠して、ふふふと笑った。
咲夜は「やっぱりいい、今のなしで!」と叫びそうになった。
ほんの少し、幼い頃の彼に興味がわいただけなのだ。今でこそまったく理解不能ではあるが、幼い頃はそれなりに子供だったのではないかと思ったから。
「もちろんですわ。わたくしの語れる分だけ、桂宮様のことを語りましょう」
咲夜が前言撤回するよりも、綾子の言葉の方が早かった。
それで、咲夜は叫び出しかけた中断の言葉を飲み込むしかなかった。
二人は、長い間語り合った。
時に白湯で喉を潤し、時に橙の実で小腹を満たしながら。
自然に円座の距離が近づいて、最後はいつ触れてもおかしくない距離で。
たくさんの話題があった。
「幼い頃の桂宮様は、よく猫と遊んでいらっしゃいましたわ」
「ね、ねこ……!?」
「ええ。桂宮様のお母君が飼われていたのですが、大変懐かれていらっしゃいました。桂宮様は物静かな方でしたので、猫は安心できたのでしょうね」
とか、
「歌や舞よりも、武芸や戦術のほうに関心がおありのようでした。近衛大将たちと、よく盤上の駒を使った戦の遊戯で対戦してらっしゃいましたわ。桂宮様はお強かったようです」
「それは今と共通するところがあるわね!」
とか、
「姫君や侍女からは、いつも遠巻きにされていましたわね」
「そうなの?」
「高嶺の花だったのですわ。あの方は決して、相手に合わせて降りるということをしない方でした。女たちは皆、憧れはしても声がかけられない存在だったのです」
「うーん。その光景が見えるようだわ……」
とか。
咲夜はもう、この皇太子妃に対して、忌むような心は起こらなかった。
むしろ、彼女と過ごす時間は心地よかった。
侍女の紗乃は丁寧で優しかったが、今まで一度も、侍女という立場を崩すことはなかった。使用人たちもそうだ。
竹流は幼馴染で話しやすかったが、幼馴染ゆえにか遠慮がない。興味がないことは、咲夜からの話題であっても、拒否したり逃亡したりする。
その点、綾子は、地上で初めて得た、咲夜と対等な立場で話せる人間だった。
彼女の会話は穏やかで、嫌みもなければ、退屈もさせない。相手への細やかな配慮が感じられて、気づけば綾子に心を許していた。
話に夢中になって、しばらくたった頃。
ふと、衣擦れの音がした。
外の御簾に人影が映って、綾子が姿勢を正す。入室の許可をすると、音を立てずに侍女が入ってきた。
その耳打ちを受けると、彼女の美しい顔が、一瞬だけ水を浴びせられたように硬くなった。
本当に一瞬だけのことだったから、気のせいだったかもしれない。
「……咲夜様、少しだけ待っていただいてもよろしいでしょうか」
「それはいいけど、どうしたの?」
綾子は少しだけ言いよどんだ。
次に彼女が語ったとき、咲夜はその理由が理解できた。
「……殿下から、贈り物が届けられたようなのです」
先日の仕打ちは、確かにひどいものであったと思う。
しかし、咲夜は所詮、第三者である。時親の仮初の妻とはいえ、皇太子を非難できるような立場にはいない。
綾子がそれを受け入れているのなら、なおさらだ。
「どうぞ」
と許すと、綾子は安堵した様子で、侍女に許可を出した。
しばらくして、侍女が二人がかりでそれを運んできた。大きめの布がかけられたそれは、重くはなさそうであったが、壊れ物を扱うような手つきだった。
布を取り払ったとき、ふわりと濃厚な香が鼻先をかすめる。
甘さの奥に、わずかな苦みがあった。心地よいはずなのに、なぜか逃れられないような、深く絡みつく気配を帯びている。
まるで、贈り主そのもののような匂いだ。
咲夜はわずかに苛ついたが、しかし今はそれよりも、贈り物の中身の方が問題だった。
「……籠?」
それは、竹で編まれた繊細な籠だった。
上部は湾曲していて、軽やかで繊細な模様を、編みで描いている。
見事な籠の中に、鳥が一羽。
――鳥籠。
「……鶯ですわね」
綾子が静かに、息を吐くように言った。
「わたくしが、新春に鳴く鳥の声が楽しみだと申し上げたので――贈ってくださったのでしょう」
咲夜は、胸の奥がざわめいて、叫びたい気持ちになった。
けれど、綾子があくまでも穏やかに侍女たちを下がらせたので、その気持ちをぐっと抑えつけた。
透けるような籠の中で、小鳥が羽を震わせて、チッチッと軽く鳴いていた。
それを側に置きつつ、綾子がまた咲夜の方に向き直る。
「お時間を取らせて申し訳ありません。次は何のお話をいたしましょう。蹴鞠の話がいいかしら、それとも囲碁の……」
「綾子」
咲夜は、綾子の美しくも儚い顔をまっすぐ見た。
彼女の表情を、わずかにでも見逃さないように。
「綾子は、皇太子妃で、幸せなの?」
彼女はその問いに驚いたようだった。
「……咲夜様、なぜそのようなことを?」
「だって綾子。あなた――」
咲夜は口をつぐんだ。
鳥の声が楽しみだと伝えて、贈られた鶯。
妻のことを大切にしている優しい夫だと、普通なら思うのかもしれない。
けれど咲夜は、ちっともそうは思えなかった。
だって綾子は、幸せそうに見えない。
二人で昔話をしていた時の綾子の顔は、ただの少女のようだった。
咲夜の反応に声を上げて笑い、紡ぎあげる言葉は弾んでいて、その頬は紅潮していた。
なのに、鳥籠を見た瞬間、綾子のその生きた表情はひびの入ったように乾いて、その上を完璧な皇太子妃の仮面が覆い隠していったのだ。
まるで、今までの方が幻だったかのように。
「ねえ綾子。私、ほんの少しだけしかあなたと一緒にいないけど、あなたがすごく素敵な人だってことはわかったよ。私はあなたが好きだし、友達になりたいって思う」
咲夜は思わず、綾子の手を取った。
「だから本当のことを教えて。綾子、あなたは」
「咲夜様」
強く可憐な声が、咲夜を拒んだ。
「――わたくしは、大丈夫です」
綾子はまた、儚い微笑をその唇に浮かべていた。
そっと咲夜の手を握り返すと、安心させるように、咲夜の手を撫でさすった。
「もし咲夜様が、わたくしが幸せそうに見えないと感じたのであれば。それはきっと、わたくしの弱さのせい。決して、殿下のせいではないのです」
「綾子……」
咲夜はそれ以上、何も言うことができなかった。
あれほどの仕打ちを受けながら、綾子は決して皇太子を責めなかった。
それでも受け入れてしまう在り方は、愛ゆえなのだろうか。咲夜にはわからなかった。
もっと強くお願いしたら、綾子は真実を話してくれたかもしれない。
けれど、この儚い微笑は、きっと薄いかさぶたのようなものなのだ。
咲夜の都合で剥がしてしまったら、綾子を傷つけ、血を流させてしまう。
きっとそれは友達ではない気がした。
「友達になろう、綾子」
咲夜は言った。
今度は自分が迎えにいく形で。
「なってくれる? 短い間かもしれないけど、もっと綾子とお話したい」
綾子の顔が、ぱっと明るくなった。
「うれしい。もちろんです咲夜様。わたくし、ずっと、咲夜様みたいなお友達がほしかったのです」
二人は手をつないで、ふふふと笑いあった。
鳥籠の中、鳥がチチチと鳴く。
雪がしんしんと降り続いていた。




