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月下恋歌  作者: 梨千子
第二章「兄と、弟」
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第五話「籠鳥」

 朝、一通の文が届けられた。

 一輪の白椿が添えられた文。それは、皇太子妃からのものだった。

 まだ字が読めない咲夜の代わりに、紗乃に代読してもらったところ、咲夜をぜひ私的にもてなしたいという。

 

 咲夜ははじめ、絶対に行きたくないと思った。

 あの皇太子との非公式の対面は、つい二日前のことだ。まだ咲夜の喉元には、あの時の気持ち悪さが残っているのだ。

 皇太子妃がどんな人物かはわからないが、あの男の妃というだけで、会う気持ちが失せてしまう。

 

 しかし、仮にも相手は時の皇太子の妃である。

 お断りすることは難しいでございましょう、と紗乃は言った。


 咲夜は不承不承、だくの返事を送るしかなかった。


 紗乃は、念のため時親に相談することを勧めてきたが、咲夜はそうしなかった。


 時親と咲夜は、同じ一棟を専用の滞在場所として与えられていたが、部屋は別々だ。

 辺境でも領主として忙殺されていた彼は、ここでは元皇子の立場ゆえに忙しいようで、朝早くから夜遅くまでいないことが普通にあった。

 咲夜が相談したいと言えば、時親のことだ、きっと時間を取って会ってくれるだろうが――。


 皇太子とは別の意味で、咲夜は今、時親とも顔を合わせたくないのだ。

 

 触れ合った手の感触が、やけに鮮明に思い出される。

 剣や弓を握る彼の、硬くて厚い手のひら。小さな咲夜の手は、すっぽりと覆われてしまった。

 手を取られたことなんて、今まで何度かあったのに。

 なぜか今回は、何でもないふうには考えられない。


 逡巡しているうちに、すぐに皇太子妃と会う日になった。

 

 当日は、朝から雪が降っていた。

 宮中は元から静かな空間だったが、その日は特に、降り積もる白が静けさを増している。

 まるで、世界に自分たちしかいないような……。

 もしも招待を受けていなければ、雪で遊ぶこともできたのだが。と、咲夜は少し残念に思った。

 

 皇太子妃つきの侍女に案内されてきざはしを上がり、上げられた御簾の中に入る。

 すでに、皇太子妃の姿があった。


 以前のように扇に隠されることもなく、その目鼻立ちがはっきりと見えた。


 白い花のような女性だ。

 咲夜は皇太子妃を見て、そう思った。


 整えられた髪は長く、濡羽色に艶めいている。

 長い睫毛に覆われた瞳は、常に泣いているかのようにきらめいている。

 丸い頬はほのかに色づき、唇に差した紅が印象を引き立たせていた。


 先日は着ているものしか見えずわからなかったが、やはり貴き美しい女性であった。


「ようこそおいでくださいました、咲夜様。お会いできて、うれしく思います」


 声すらも可憐であった。


 咲夜は、紗乃から念入りに教え込まれた挨拶を返すと、慎重に用意された席に座った。


 私的なもてなしということで、場には皇太子妃と咲夜の二人しかいなかった。

 御簾の外側には、ここまで案内に当たった皇太子妃側の侍女や、咲夜に随行した紗乃の気配があったが、室内は完全に二人だけのものだ。

 円座の近くに白い敷物が置かれ、そこには淡い橙の実が置かれている。

 それは爽やかな香りを放ち、咲夜の緊張を少しだけ解いたけれど、警戒心は余計に強くなった。


 さて、何を語られるのかと身構えていると――。

 

 皇太子妃は、咲夜の姿をじっと、隅々まで眺めて、

 

「初めてお目見えしたときも思ったのですけれど、咲夜様は本当に、とても美しい方でいらっしゃいますね」


 と、感嘆の息を吐きながら告げた。


「えっ、と……」


 咲夜は戸惑う。

 彼女の言葉からは、一切の棘を感じなかった。嫌みではなく、真実そう思ったから言っているのだろう。

 だからこそよくわからなかった。

 

「先日は、大変申し訳ございません。咲夜様にご無理をさせました。殿下は少し、やりすぎてしまうきらいがあるものですから」


 咲夜は面食らった。


「どうしてあなたが謝るの?」


 あんなに紗乃から口酸っぱく言われていたのに、敬語すら忘れて問いかけてしまった。


 咲夜から見れば、この皇太子妃は何も悪くない。

 ただ場にいて、巻き込まれただけだろう。


 それだけではない。あの皇太子は、自分の妻を差し出すとまで言ったのだ。

 夫にそんなふうに扱われて、怒らない妻がいるだろうか。咲夜なら業腹ものだ。きっとその場で殴り飛ばして、別れを選択したに違いない。


 皇太子妃は、そんな咲夜の様子を見て、数度瞬く。

 そして、ふわりと笑った。儚さを感じる笑みだった。


「あの方のおっしゃった通りのお方ですのね。とても気高い魂。美しく――この世に二人といない光」

「え……」


 予想だにしていなかった言葉に、咲夜の背がぴんと伸びる。


「いや、あれは、たぶん、あの場を乗り切るための言葉っていうか、大それた意味では、きっと、なくて……」

 

 言葉を重ねるうちにどんどん早口になって、しかし最後は尻すぼみになってしまった。

 なぜだかすごく恥ずかしい。咲夜は整理がつかないまま、そっと手を隠した。


「咲夜様。お願いがあるのです」

「お、お願い……?」

「はい。この都におられる間だけでも、よろしいのです。お友達になっていただけませんか」


 皇太子妃は胸に手を当てた。


「ぜひ、綾子と。そうお呼びいただければ、嬉しく思います」

「……」


 咲夜は困った。

 目の前のこの女性には、咲夜に対する悪意など微塵もないように見えた。

 儚い美しさは、決して外側だけではないようだった。ただ純粋に、咲夜と友誼を結びたいのだと感じられた。


 本当に、なぜこんな素敵な女性が、あの皇太子の妃なのだろう。


 そういえばあのとき……。

 皇太子は、自身と時親と皇太子妃が、幼い頃からの仲であると言っていた。


 咲夜はそっと、皇太子妃・綾子を見た。


「……あの、私もお願いがあるんだけど、いいかしら」

「まあ。ええ、ぜひお聞かせください」

「その。……昔の、あの人について、聞いてもいい?」

「……あら」


 綾子は袖で口元を隠して、ふふふと笑った。

 

 咲夜は「やっぱりいい、今のなしで!」と叫びそうになった。

 ほんの少し、幼い頃の彼に興味がわいただけなのだ。今でこそまったく理解不能ではあるが、幼い頃はそれなりに子供だったのではないかと思ったから。

 

「もちろんですわ。わたくしの語れる分だけ、桂宮様のことを語りましょう」


 咲夜が前言撤回するよりも、綾子の言葉の方が早かった。

 それで、咲夜は叫び出しかけた中断の言葉を飲み込むしかなかった。


 二人は、長い間語り合った。

 時に白湯で喉を潤し、時に橙の実で小腹を満たしながら。

 自然に円座の距離が近づいて、最後はいつ触れてもおかしくない距離で。

 

 たくさんの話題があった。

 

「幼い頃の桂宮様は、よく猫と遊んでいらっしゃいましたわ」

「ね、ねこ……!?」

「ええ。桂宮様のお母君が飼われていたのですが、大変懐かれていらっしゃいました。桂宮様は物静かな方でしたので、猫は安心できたのでしょうね」


 とか、


「歌や舞よりも、武芸や戦術のほうに関心がおありのようでした。近衛大将たちと、よく盤上の駒を使った戦の遊戯で対戦してらっしゃいましたわ。桂宮様はお強かったようです」

「それは今と共通するところがあるわね!」


 とか、


「姫君や侍女からは、いつも遠巻きにされていましたわね」

「そうなの?」

「高嶺の花だったのですわ。あの方は決して、相手に合わせて降りるということをしない方でした。女たちは皆、憧れはしても声がかけられない存在だったのです」

「うーん。その光景が見えるようだわ……」


 とか。


 咲夜はもう、この皇太子妃に対して、忌むような心は起こらなかった。

 むしろ、彼女と過ごす時間は心地よかった。


 侍女の紗乃は丁寧で優しかったが、今まで一度も、侍女という立場を崩すことはなかった。使用人たちもそうだ。

 竹流は幼馴染で話しやすかったが、幼馴染ゆえにか遠慮がない。興味がないことは、咲夜からの話題であっても、拒否したり逃亡したりする。

 その点、綾子は、地上で初めて得た、咲夜と対等な立場で話せる人間だった。

 彼女の会話は穏やかで、嫌みもなければ、退屈もさせない。相手への細やかな配慮が感じられて、気づけば綾子に心を許していた。


 話に夢中になって、しばらくたった頃。

 ふと、衣擦れの音がした。

 外の御簾に人影が映って、綾子が姿勢を正す。入室の許可をすると、音を立てずに侍女が入ってきた。

 その耳打ちを受けると、彼女の美しい顔が、一瞬だけ水を浴びせられたように硬くなった。

 本当に一瞬だけのことだったから、気のせいだったかもしれない。


「……咲夜様、少しだけ待っていただいてもよろしいでしょうか」

「それはいいけど、どうしたの?」


 綾子は少しだけ言いよどんだ。

 次に彼女が語ったとき、咲夜はその理由が理解できた。


「……殿下から、贈り物が届けられたようなのです」


 先日の仕打ちは、確かにひどいものであったと思う。

 しかし、咲夜は所詮、第三者である。時親の仮初の妻とはいえ、皇太子を非難できるような立場にはいない。

 綾子がそれを受け入れているのなら、なおさらだ。


「どうぞ」


 と許すと、綾子は安堵した様子で、侍女に許可を出した。

 しばらくして、侍女が二人がかりでそれを運んできた。大きめの布がかけられたそれは、重くはなさそうであったが、壊れ物を扱うような手つきだった。


 布を取り払ったとき、ふわりと濃厚な香が鼻先をかすめる。

 甘さの奥に、わずかな苦みがあった。心地よいはずなのに、なぜか逃れられないような、深く絡みつく気配を帯びている。

 まるで、贈り主そのもののような匂いだ。


 咲夜はわずかに苛ついたが、しかし今はそれよりも、贈り物の中身の方が問題だった。


「……籠?」


 それは、竹で編まれた繊細な籠だった。

 上部は湾曲していて、軽やかで繊細な模様を、編みで描いている。

 見事な籠の中に、鳥が一羽。


 ――鳥籠。


「……うぐいすですわね」


 綾子が静かに、息を吐くように言った。


「わたくしが、新春に鳴く鳥の声が楽しみだと申し上げたので――贈ってくださったのでしょう」


 咲夜は、胸の奥がざわめいて、叫びたい気持ちになった。

 けれど、綾子があくまでも穏やかに侍女たちを下がらせたので、その気持ちをぐっと抑えつけた。


 透けるような籠の中で、小鳥が羽を震わせて、チッチッと軽く鳴いていた。

 それを側に置きつつ、綾子がまた咲夜の方に向き直る。


「お時間を取らせて申し訳ありません。次は何のお話をいたしましょう。蹴鞠の話がいいかしら、それとも囲碁の……」

「綾子」


 咲夜は、綾子の美しくも儚い顔をまっすぐ見た。

 彼女の表情を、わずかにでも見逃さないように。


「綾子は、皇太子妃で、幸せなの?」


 彼女はその問いに驚いたようだった。

 

「……咲夜様、なぜそのようなことを?」

「だって綾子。あなた――」


 咲夜は口をつぐんだ。

 

 鳥の声が楽しみだと伝えて、贈られた鶯。

 妻のことを大切にしている優しい夫だと、普通なら思うのかもしれない。

 けれど咲夜は、ちっともそうは思えなかった。


 だって綾子は、幸せそうに見えない。

 

 二人で昔話をしていた時の綾子の顔は、ただの少女のようだった。

 咲夜の反応に声を上げて笑い、紡ぎあげる言葉は弾んでいて、その頬は紅潮していた。


 なのに、鳥籠を見た瞬間、綾子のその生きた表情はひびの入ったように乾いて、その上を完璧な皇太子妃の仮面が覆い隠していったのだ。

 まるで、今までの方が幻だったかのように。

 

「ねえ綾子。私、ほんの少しだけしかあなたと一緒にいないけど、あなたがすごく素敵な人だってことはわかったよ。私はあなたが好きだし、友達になりたいって思う」


 咲夜は思わず、綾子の手を取った。

 

「だから本当のことを教えて。綾子、あなたは」

「咲夜様」


 強く可憐な声が、咲夜を拒んだ。


「――わたくしは、大丈夫です」

 

 綾子はまた、儚い微笑をその唇に浮かべていた。

 そっと咲夜の手を握り返すと、安心させるように、咲夜の手を撫でさすった。


「もし咲夜様が、わたくしが幸せそうに見えないと感じたのであれば。それはきっと、わたくしの弱さのせい。決して、殿下のせいではないのです」

「綾子……」


 咲夜はそれ以上、何も言うことができなかった。


 あれほどの仕打ちを受けながら、綾子は決して皇太子を責めなかった。

 それでも受け入れてしまう在り方は、愛ゆえなのだろうか。咲夜にはわからなかった。

 

 もっと強くお願いしたら、綾子は真実を話してくれたかもしれない。

 けれど、この儚い微笑は、きっと薄いかさぶたのようなものなのだ。

 咲夜の都合で剥がしてしまったら、綾子を傷つけ、血を流させてしまう。

 きっとそれは友達ではない気がした。


「友達になろう、綾子」


 咲夜は言った。

 今度は自分が迎えにいく形で。


「なってくれる? 短い間かもしれないけど、もっと綾子とお話したい」

 

 綾子の顔が、ぱっと明るくなった。


「うれしい。もちろんです咲夜様。わたくし、ずっと、咲夜様みたいなお友達がほしかったのです」


 二人は手をつないで、ふふふと笑いあった。


 鳥籠の中、鳥がチチチと鳴く。

 雪がしんしんと降り続いていた。

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