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月下恋歌  作者: 梨千子
第二章「兄と、弟」
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第三話「顕現」

 その門をくぐった途端、御簾の隙間から見えた違和感に、咲夜は思わず牛車の御簾を押し上げた。

 

 空が、大きい。

 

 季節は移ろい、師走上旬。咲夜たちは、大和国の都に入った。

 

 旅の道程は、冬ということもあって厳しかった。ぬかるみや石に車輪を取られ、山の端や木々、雪に行く手を遮られ、進むのに苦労したことが幾度もあった。

 けれど、今は違う。視界を遮るものがない。ただまっすぐに、道が北へと延びている。

 

 道……なのだろう。

 大地そのものを削り取ったかのような幅が、どこまでも続いている。先は霞み、終わりは見えない。ただ一直線に、空の下へと延びていた。

 

 まるで龍が通った跡みたいだ。ふと、月の女王に仕える老齢の龍の姿が脳裏をよぎる。

 

 しかし……。


「だーれもいないのね」

 

 そう。こんなにも広く長く続く道なのに、見渡す限り人影がなかった。

 否。遠くに小さく動く影が見える。牛車が一台、ゆっくりと進んでいた。でも、それだけだ。

 

「……辺境の方が、たくさん人がいたような気がするわ」

「咲夜様。風が入りますわ。お風邪を召されたらどうします」

 

 御簾を押し上げる咲夜の手を、紗乃が押さえる。

 すぐに御簾を戻した。

 所詮、すだれの仕切りである。下ろしていたとしても冷気はもちろん入ってくるのだが、「都では、絶対にこの御簾を上げてはなりません」と口を酸っぱくしていた紗乃の言葉を思い出したのだ。言うことをきかないと怖いので、侍女が優しく諭してくれているうちに、咲夜は素直に従った。


 時親が都行きを決めた後の五日間は、とても慌ただしかった。何もしていない咲夜でさえ、屋敷の奥でそれを感じ取れるほどだった。

 そして、咲夜は時親に伴って、辺境を後にした。


 ある意味で、旅は楽しかった。外に出してもらえない鬱憤が溜まっていた身としては、旅で見聞きするもの全てが興味深かったのだ。


 途中で通り過ぎた小さな村の農耕風景や、深い森や、都近くにあった波が立つ大きな湖。

 すべてが新鮮で、咲夜は飽きもせずそれらを眺めていた。先々で、その地に住まう有力者に歓迎してもらえたし、そう悪くはない旅だった。……移動の遅さと、道の悪さを考えなければ。


 この牛車という乗り物は、貴人が乗る一般的なものらしいが、乗り心地は最悪である。あまりに揺れるので、咲夜は何度も外を歩こうと飛び出したものだった。紗乃に引き戻されては言い争った末、人目のないところでは、牛車を降りてもよいと許されたほどだ。

 

 まあ、そのような形で、咲夜はおよそ二十日近くも旅を続けてきた。満を持して、期待の都入りだったはず、なのだが――。


 咲夜は御簾の奥に続く、晴れ上がった広大な空と、その空に続く人気のない道を見つめた。

 もしかしてまだ、ここは都ではないのだろうか?


「すっげえなあ、これって神力じゃなくて、人の力だけで作ったんだろ?」

 

 牛車の中に持ち込んだ手炉の近くから、竹流が感心した声を上げた。


「月じゃ、女王陛下がぱぱっと神力で道を拓かれるが、それでもここまで広い道はそうないぜ」

「……たしかに、そう考えるとすごいわね」


 咲夜はもう一度、御簾ごしに続く長い道を眺めた。


 寒気が渦を巻いて、雪が降ることも多くなったこの季節。竹流はほとんどの間を、風を遮れる牛車の中で過ごすことが多くなった。手炉――手を温める程度の小さな火鉢の近くで、いつも丸くなって動かない。そこでないと眠くて仕方がない、と彼は言っていた。もしかしたら、冬眠する鳥なのかもしれない。


 馬が鼻を鳴らす。

 牛車と並走していた青毛の馬の鼻先を、時親が優しく撫でているのが見えた。先ほど門をくぐるまでは騎乗していたはずだが、いつの間にか降りていたようだ。

 

 あれは時親の馬だ。地上に降りたばかりの咲夜を、街に運んでくれたあの馬だった。

 時親自身はよくわからない男だけれど、馬は大切にしているようで、旅の間、彼はこの馬を甲斐甲斐しく世話していた。飼い葉を与えたり、水を与えたり、たてがみや尾を櫛で整えたり。

 紗乃が言うには、時親が辺境に来る前からの馬らしい。

 ——都にいた頃から。

 

 皇太子殿下。私の、兄だ。


 彼のいつもよりも硬い声が、耳元によみがえった。

 咲夜はその原因を確かめようとは思わなかったし、確かめる暇もなかったけれど……。


「そういえば皇太子って……」


 ぽつりとつぶやく。

 皇太子が兄ということは、時親は大和国の皇子の一人ということだ。咲夜は王太女なので、月や地上ということを考えなければ、ほぼ同等の身分ということ。

 咲夜の正体を知った後も、彼の態度が変わらなかったのは、そういう面があったのかもしれない。


「……まあ、どうでもいいか」

 

 どんな身分であれ、この男が掴みどころのない人物であることは変わりがない。

 それに咲夜は、この先にあるという「都」の方に、ずっと何倍も、心惹かれるのだから。


 一行が進むにつれて、通りには人が多くなっていった。

 紅梅、常盤、濃紺。辺境や旅路では見ることのなかった、様々な色の装飾や布が息づいている。牛車や人が行き交い、立てる音が混み合う。

 それは北へ進むにつれてどんどん増え、甘く漂う香の匂いまでも、風に乗って運ばれてきた。南側とは大違いの賑わいだった。

 そのあたりで宮中の使いが現れて、咲夜たちはその日のうちに、宮中に足を踏み入れたのだった。


 ***


 宮中、と一言で言っても、そこは皇帝が住まう殿から、妻や子が暮らす殿、儀式や政務を行う殿など、様々な建物が含まれた空間である。

 当然ながら、そこに行き交う人々は多く、咲夜もそのたくさんの気配を感じていた。

 しかし、これは……。


「ねえ、なんでこんなに静かなんだと思う?」


 咲夜はそっと、手炉に体を寄せている小鳥に聞いてみる。


 宮中に入って、門をふたつくぐったあと、辺りは途端に静まり返った。

 たくさんの人がいる気配はある。衣擦れや足音、息づかいはある。

 なのに、上げられる声はひとつもない。

 むしろひそひそと、音を殺すように囁いている。


 少し遠くから聞こえていた音が、咲夜たちが通るたび、さざ波を立てるように引いて、通り過ぎた後にまた戻っていく。

 辺境でも、うるさかった兵士たちが、時親のような立場ある人が通るときにすっと静まり返るときはあったが、それとはまるで違う。

 視線は感じないのに、どこからか見られている気がした。

 礼儀以上の何かを感じる。静かな、厭らしさ――。

 

「知らねえよ、紗乃さんに聞け」


 鳥はそっけなかった。


 聞けたらとっくに聞いているのだ。咲夜は紗乃の様子をうかがった。


 外の空気は明らかにおかしかったが、紗乃の様子も普段とは違う。やけに緊張しているのだ。

 紗乃だけではない。時親とは反対側で牛車の横を警護している重孝も、同じように緊張の色が見える。

 時親だけが、平然とした顔をしている。内心はわからないが、少なくとも、表面上は普段と同じような冷静な顔に見えた。


 咲夜はぎゅっと唇を引き結んだ。

 どうやら歓迎されていないらしい、と感じ取ったからだ。

 

 月で、王太女として出席した公務を思い出す。

 あの女王の跡がおまえに継げるのか――朗らかな笑顔で表向き歓迎されながら、無言の圧と空気を味わっていた。

 あの粘着質で冷たい気配と同じものだ。


「なによ、招待したのはそっちなのに……」


 穏便な滞在には、どうやらならなさそうだった。

 咲夜はうんざりした。


 やがて牛車が止まって、前の建物から数人の人影が出てきた。

 どうやら宮中側の使用人のようだ。こちらの従者とやり取りをしている。

 気味の悪い気配は相変わらずあったが、従者たちの立てる音で、少しは和らいだように思えた。

 

「咲夜」


 時親が、御簾ごしに声をかけた。

 表情はいつも通りだった。だが、話し声は少し抑えめだ。周囲に聞こえるかどうかという声量である。


「ここは、こういう場所だ。滞在中は、『天女』でいろ」


 てっきり降りるための声掛けをしてくるのだと思っていた咲夜は、その言葉を聞いて、真顔になった。

 

「――」


 咄嗟に何も返せない。


 ……わかっている。

 旅立つ前に、時親は言っていた。皇太子は、彼とその妻である『天女』を招いているのだと。


 ここで咲夜が何を求められているかも、わかっている。

 天女として振る舞い、この場を、何事もなくやり過ごすこと。


 それくらい、理解している。

 この格式ばかり高くて無礼極まりない空気の中では、なおさらだ。


 ――滞在中は、『天女』でいろ。


 そんなことはわかっている。

 わかって、いるのだ。


 咲夜は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。

 どくどくと、激しく脈打つ心臓の音が、どんどん大きくなって聞こえる。

 

 ……無理だ。

 どうしても、冷静になりきれなかった。


 確かに咲夜は、一度逃げ出した前科がある。

 信じてもらえないのも、仕方のないことかもしれない。

 

 けれど、咲夜はこの間、面と向かって伝えたではないか。

 子供扱いするな。自分はもう貴婦人レディだと。


 あれは咲夜なりの、過去の自分との決別を宣言する言葉だった。

 子供じゃないのだから責任を果たす。そう伝えたはずだったのに。


 まだこの男は、咲夜を子供扱いするのか。


 気がついたら、咲夜は御簾に手をかけていた。


 割れんばかりに目を見開いて手を伸ばす紗乃の声も、あまりの出来事に声を失う重孝の顔も、伝播していく従者たちや使用人の驚愕の声も、一切を無視した。

 ――もちろん、少し血の気が引いたような、時親の顔もだ。


 咲夜は、宮中に堂々と降り立った。

 輝く髪も、夜空を詰めたような瞳も、その顔を隠すものは何もない。


 冷たい風が吹いて、咲夜の首元をひやりと抜けていく。

 それが火照った体を冷ますようで、気持ちがよかった。


 咲夜は髪をかきあげ、大きく払いのけた。

 す、と視線を上に上げれば、澄み渡った冬の空が広がっていた。


「爽快だわ!」


 粘ついた空気が、急に薄まった。


***

 

 師走上旬の日。

 辺境の天女はついに、都に降り立った。

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