7 ちょとま
足りない。言われてみれば、僕がずっと感じ続けてきた不全感は足りなさ、に近い感覚なのかもしれなかった。どんな工夫を凝らして可変現実に没頭しようとしても、完全ではないと感じる。満足できない。どこかに隙があって、そこから吹き込む不完全さに身をすくめる。そんな感覚だ。
人々は数十年前、お酒でしかなかった頃のSゼロに酩酊を求め、現実からの逃避や虚無を求めた。辛さを忘れ苦痛から逃れることを。けれど単純な酒による酔いは醒めるものだし、「辛い現実」は醒めたその先でまた相対することになる。
SZ196は新しいSゼロでその問題を解決した。特殊永続酩酊を標榜する、可変現実によって。醒めない酔い、選べる現実が人を完全な「心地よい酩酊の人生」に誘えるとして。
しかし――と僕は引っ掛かってしまう。
本当にそれで何かが解決したのだろうか、と思ってしまうのだ。
人々が昔抱えていた、「現実の辛さ」は、それで本当に根本から解決するのだろうか、と。
足りないんじゃないか、と言われて、僕は彼女にそんなことを途切れがちに語った。
酷くわかりにくい抽象的な、稚拙な語りではあったけれど、彼女は訝しげな顔を覗かせることもなく頷いて見せた。
「君の抱えている違和感や不全感の正体はね。昔から、現実そのものが持っていた痛みそのものなんだよ」
サクは結論付けるように言う。
小さく踊るように草地の上を、ととと、と軽く歩く。強さの違う光の柱が、無数のヤコブの梯子のような光の群れが移動する彼女を次々に照らし、その肌や髪を明るく、暗く、様々な色に見せる。
「現実と人との間には問題がある。人はそこに幸福を求めるけれど、論理的にも現実的にも、完全な幸福は有り得ない。必ず穴が残る。完全さを求めてしまえば幸福は幸福ではなくなる。可変現実でも旧現実でも、人はだから、隙のない現実を手に入れることは出来ない。可変現実で書き換えてもなくならない、可変かどうかに関わらない『現実』の問題」
木々の間を歩き、時折木陰に姿が隠れ、そして別の場所から現れる。同時に、言葉が緑の間を縫って僕に届く。
「Sゼロは現実を変えたよ。けれどね、あくまで現実の表面を変えただけ。幸福や現実っていう、世界に存在する意味そのものを変えることが出来るわけじゃないんだよ……」
不意打ちのようにサクは僕の背後すぐ近くに姿を現して密やかに告げた。
僕はといえば言葉にも状況にも戸惑っていた。完全な幸福を求めるとそれはそれでなくなる? 謎かけのような話に思え、僕は振り返って戸惑い顔をサクに見せる。
「……結局、どうしようもないのかな」
この不全感は。違和感は。馴染めなさは。肩を落としかけながら僕は呟いた。
サクは、笑みを浮かべたままで軽く首を振った。
「私が作った可変現実でどうにかすることを期待してたなら、多分それは無理だと思う。けど、代わりにさ、いいのあるよ」
意味深げに笑みを深くして、サクは右手の人差し指を立ててみせる。
「あのさ、ストリーキングって知ってる?」
唐突といえば唐突過ぎる言葉に、んぇあ? とよく分からない声が出てしまう。
「私と一緒にさ、旧現実の街をマッパで歩いてみようよ。開放的になってみてさ」
「いや、いやいや、あのさ、意味が分からない」
マッパっていつの言葉だよ。いやそんなことはどうでもよく。
「なにがどうなってその提案出てきたのさ。ストリーキング?」
「旧現実に触れて、ついでにすかっとしてこうってことだよ」
全裸ダッシュでどうにかなる程度の問題なら、可変現実で適当に満足できるはずだ。一体全体どういう意味があるんだ――いや、そもそも。
「危険だし恥とかあるでしょ……」
意味不明さにしな垂れるように肩を落として僕は言った。ここは都市中心部だ。無数の人々が暮らす場所でストリーキングなんてことは可変現実でやるべきだ、と。
サクは僕のそんな言葉を予想していたかのように、ちっとも表情を変えずに「それがちがうんだな」と得意げに言ってのける。
「実はここは、世界でも一番安全に脱げる場所なんだよ。可変現実普及率がほぼ100%であるおかげでね」
「どういうこと?」
「現実同士の刷り合わせと非受容情報の処理を利用するんだよ――つまり、SZ196が形作っている『多現実共存社会』のシステムの隙を突くの」
ぽん、と手の平同士を合わせて、彼女は説明する。
曰く、非常に人口が多く無数の現実が錯綜する都市部の一部の街路などでは、安全にストリーキングが楽しめるという。その仕組みは酷く難しく何を言っているのかわからない箇所も多かったが、大まかにはなんとなく理解できるものだった。
SZ社会では可変現実が人の数だけ走っている。一人一人が異なる現実を生きているのだ。だというのに、この国は国として、社会として、機能し続けている。バラバラのものを見て感じているというのに、だ。
勿論機械化がこの数十年で大幅に進んだからというのも大きな理由ではある。だがそれだけでは説明できない。いまだ人と人のコミュニケーションは多いし、社会システムを支える上で同じモノを複数人が扱わねばならない場面は多く残されている。現実を異にしたままでの結婚出産すら少なくはないのだ。
それを可能としているのは、SZ196による現実同士の調整・刷り合わせだ。可変現実同士が衝突したり矛盾したりするのを防ぐために、絶えずSZ196の現実監視網は可変現実を監視し、調整する。現実同士が矛盾した破綻しないよう情報の追加や変更を行って回避し、成立すべきコミュニケーションが成立するようそれと気付かれぬように調節する。
この国が国としてあり、完全無比な個人主義としてバラバラになっていないのは全てこのSZ196の監視と調整の賜物なのだ。
「でも、調節はきちんとした監視があってこそ。だから可変現実をカットして体内SZ因子の活性を最低まで落として旧現実にいる人間はその網から零れ落ちる」
やや悪魔的な表情でサクは囁く。
SZ196は体内のSZ因子、微小機械と特殊アルコールとそのプラントを通して個々人をモニターする。普通のSZの民にとっては当たり前のことで意識することもない。可変現実を生きるためには不可欠なことだ。だから通常、SZ因子は一生活性させたままだ。
けれど可変現実を完全にカットすることで、その活性は落とすことが出来る。オフに出来るのだ。SZ196の制限奉仕の原則は人を完全に統制することをAIに許さなかった。その結果が旧現実への回帰とSZ因子の非活性状態を可能足らしめている。
そして、『非受容情報設定』の存在だ。
これは、ようするに見たくないものは見ないための設定で、個々人が自らの現実に設定する禁忌情報のことをいう。感じたいものだけを感じる可変現実における、「感じたくないもの」の設定だ。
公共の場での露出行為は未だそれなりの割合の人間が「あってほしくない」と思っているのだという。多くの可変現実がそれを禁忌に設定し、そんなものの発生しない現実を享受しているわけだ。
そんな中で、ストリーキングを行うと実際にどうなるのか。
SZ196は当然個々人の可変現実の設定に応じて「脱いだ人」をどう感じるのか、あるいは感じないのか、と実現する。しかし、「脱いだ人」はSZ因子を非活性化しており、正確な監視が不可能である。どこにいてどんな動作をしてどんな状態にあるのかを直接モニターできないのだ。衛生画像や都市監視システムとしてのカメラや集音装置などはあってもSZを通しての直接監視に比べれば酷く劣る。そしてそんな「脱いだ人」を目にする可能性のある人間の数は、都市中心部ともなればおぞましい数に昇る。
その全ての人々の現実をリアルタイムで『現実』として申し分ない解像度で構築し続けることは、SZ196にも重労働だという。SZ196の物理実体は国民皆の体内の微小機械群と国内に何箇所も作られた巨大なコンピューター、それにいくつかの衛星内の子機などでありその総合的な処理能力はずば抜けている。
だがそうは言っても、惑星大のコンピューター、というわけではない。「現実」という恐ろしく情報密度の高いものを二億近い国民に配り構築し続け調整し続けるのはそれなりに骨が折れる仕事だし、制限奉仕AIとしての足かせもある。隙を突かれれば、その一部の処理が不安定になることがあるのだ。
そのため、実際そうした事態に陥ると、SZ196は「脱いだ人」のような禁忌情報を単純に全ての人の可変現実からマスクすることがある。つまり、覆い隠す、無いものとするのだ。
「人通りの多いいくつかの通りや建物内で、時間や人の密度の変動によってそういう場所が出来上がるの。そこでは脱ぎ放題なんだよ。わたしたちは皆にとって、透明人間になれるの。わくわくするでしょ?」
するかよ、と眉根を寄せて、僕は反論を試みる。
「そういう場所っていうけど、実際にどのくらいの人がいてどのくらいシステムに負荷がかかるかなんて分からないでしょ。人の密度や変動ってのも、つまりリアルタイムでセーフゾーンかどうかが変化しちゃうってことでしょ? やっぱ危険だよ」
「あ、大丈夫だよそこんところは。私には分かるようになってるから」
とんでもない大言と共に彼女はまた僕に触れて通信する。問答無用で送られてきたのは、マップだった。凄まじい情報量の。人の移動流動、その変化とシステム負荷が未来予測付きで色分けされたような見たことのない地図だった。
「なんだこれ……」
一体どこから持ってきたのか。そもそもこれは本当に機能しているものなのか。ダミーじゃないのか。本物だとしたら、どんなことをすればこんなものを作れるのか……。
それら疑問に答えることなく、サクは「ナビゲートするよ」と得意そうに笑った。
「いや、でも、そういう問題以前に僕はそもそも露出趣味じゃない」
「恥ずかしい?」
「全力で。自分のも君のもね」
口をへの字にして僕は伝える。
ふむ、とサクは顎に指を当てて考えるポーズをとった。数秒間だけ。次に出てきた言葉は、「うん、まあいいや」だった。
「そういうわけで、レッツゴー」
僕の困惑や疑問や危機感やその他諸々をまるきり無視して、彼女は自分の服の裾を両手でむんずと掴んだ。
「ちょとま」
言いさした僕の声もやっぱり無視して、サクは万歳するような動作ですぱっとワンピースを脱ぎ捨てた。物理的にそんな脱ぎ方が可能か疑いたくなるほどの豪快で素早い、一動作での脱ぎっぷりだった。
一瞬真っ白い肌が余すところなく視界に入り、僕はぎゃあと小さく叫ぶ。なんで下何も着てないんだよこいつヤベー奴以外の何者でもないよ、と。
しかし、瞬き一つする間に、彼女は小さな水着を身に纏っていた。白く飾り気のないツーピースの布切れが一応彼女の体の一部を覆っている。
「ごめんごめん、初めてだしね? このくらいにしとこうか」
へたり込んだ僕に、悪戯っぽくサクは自分の水着を指して見せる。
「君の現実にだけ僅かな修正を入れてるよ。SZ因子活性させすぎてもいけないからちょっとだけね」
つまりは、彼女の身に着けたそれは僕にもたらされた最小の現実改変、ということらしかった。
「君は、なんなんだ」
呆然と呟く。他人の現実への割り込み改変など、どうすれば可能となるのか。
「行こう、ツミ。ほら君も上くらい脱ぎなさい」
言われ、無理やりに僕は上衣を脱がされた。ズボンだけの間抜けな格好になる。
最早何もかもが意味不明で、ついでに言えばなんとも馬鹿馬鹿しかった。手を引かれ、ペットか何かのようにサクは僕をその場から連れ出した。
回れ右をして、彼女の手を振り払って帰るべきか、と常識的な判断が僕の脳裏で囁く。
そんな自問に対して、僕の別の部分が疑念を返す。帰る? どこにだ? 未だ馴染める現実もないままにどこに帰るというんだろうか。自宅や故郷以前の問題だ。僕には帰るべき現実、腰をすえて「これでいい」と思える現実そのものがない。馬鹿馬鹿しいといえば、それほど馬鹿馬鹿しいこともない。
結局僕は半分引きずられるようにして、サクに果樹の森から連れ出されたのだった。大勢の人と多くの現実が住まう、街の中へと。




