6 サク
「五人目だね」
寝転がったままで少女は呟いた。天上から降り注ぐ幾条もの光を大きな瞳の表面に映し、周囲の景色にそのまま溶け込みそうな草色のワンピースから細い手足を投げ出したままで。
彼女はそれからゆっくりと缶を持った手を目の前に掲げ、小さく肩をすくめて見せた。缶の表面には派手派手しい模様とゴシック体のアルファベットが印字されていた。ちらりと一瞬見えただけで、僕はその文字列がなんなのか理解した。この国では皆が知る最も有名な単語だった。Sゼロ。
「いまから空けようと思ってたんだけどな。タイミング悪いなぁ、もう」
「ええと、その、ごめん」
なんだか若干不満そうに言ってみせる少女に僕は反射的にそう謝った。
「なんで謝るのさ」
くっくと笑って、少女は身を起こした。長く伸びた細い髪がぱらぱらと光の群のように彼女の肩や腕や胸の上を舞う。周囲の幻想的とも言えるような不思議な光景と馴染む、とらえどころのない美しさを彼女は纏っているように見えた。素の造形――顔かたちなんかも綺麗ではあったが、その辺の同い年の少女と異なるなにかが、例えば指先や首元などの細かな部分に宿っているように感じられる。
彼女は、ぽんぽんとお尻の辺りを手で払って、持っていた缶をその辺に無造作にほうり捨てた。
「で、君も可変現実に満足出来ない人なの?」
事も無げに言う。
「え? ああ、その、うんまあ」
呆けたままで僕はしどろもどろに頷く。 それでもってすぐに「あ、いやなんで?」と間抜けに疑問符を顔に浮かべる。
「私の元を訪れる人はそういう人ばかりなんだよ。そうなってるの」
「なってる?」
彼女はくるりとかかとを基点にその場で回り、僕のほうを向く。
「私は――知ってると思うけれど、サクヤ。コノハサクヤ。サクでいいよ」
言われて、しばらく間を置いてから僕はようやく自己紹介だと気付いて名乗りを返そうとする。
「僕は」
「オオヤマツミ君だね。ここに入ってくるときに基礎住民情報引っこ抜いておいたから知ってるよ」
けろりと言われて唖然とする。
「クラッカーなの? 可変現実創造のアーティストだと思っていたけれど……」
「そうだよ。でももう廃業しちゃった。あんまり実り多いものじゃなかったから」
「実り?」
「沢山作ったんだけどね、オリジナルの現実。厳密には完全に一人で作り上げたわけじゃないんだけど――結局、喜んだり満足してくれたのは最初から可変現実に満足できる人たちばかりだったの」
顧客から流れた成果物が、顧客以外の人に喜ばれてるんだよ。彼女、サクは小声で付け足すように言う。
「それが、君の存在がネット上で囁かれてる理由かな」
「まあね」
応えて、彼女は僕にゆっくりと歩み寄った。顔をこちらに向けて視線を合わせ、開いた手の平を僕に差し出す。
「ね、見せてくれない? 君がどんな可変現実を経験してきたのか――どんな可変現実に満足できなかったのか」
僕は小さな少女の指先を見下ろして、僅かに逡巡した。一体自分は何をやっているのだろうという極常識的な疑問が頭をもたげる。この少女が何者なのか、という問いも。
少女は何か、危うく張り詰めたものを感じさせるところがあった。出会って数分にもならないが、その独特な気配が僕の意識を惹きつけていた。こんな場所でこんなふうにいるこの人物が真っ当な可変現実の幸福の中にいるわけがないと感じさせる。そのことに、僕は何か落ち着くような心地よさを感じ始めていた。
ほとんど無意識に、僕は手を差し出していた。自分の右手が彼女の右手に重なると、そっと握られる。手の平同士を合わせて、きゅっと軽く力を込められる。
人体接触式のアルコール通信を通知するアイコンが僕の視界に明滅する。人体に含まれるアルコールを伝わって電子情報が通信される。わざわざ無線通信やケーブルの類をお互いの脳みそ同士に差し込む必要のないSZ社会でおなじみの接触通信だった。
僕の中に収められていた可変現実に関するログが、目の前の少女に転送されていく。彼女は単純に僕が使用した可変現実のセットだけでなく、実際にそれを利用していた際の詳細なログも僕からダウンロードしていた。可変現実使用中の感覚器官の反応や神経細胞の興奮具合、どんな生活をそこで送り何を感じていたのか……そうした情報の譲渡は本来なら厳密な確認と承諾の元に資格ある人間のみが行えるのだが、そうしたプロトコルはすっ飛ばされていた。サクはあっさりと僕から引き出したい情報を引き出せていた。やはりクラッカーではないか、とも思ったが、そんなクラックは聞いたこともない。
そっと手を重ねて、自分の現実の履歴を開陳する。
それは何かの儀式めいた行為に思えた。
*
僕から情報を引っ張り出し終えた後で、サクはじっくりとそれを精査した。半時間ほどだろうか、じっと果樹の群の中に立ったままで彼女は目を閉じ自分の頭の中で僕の現実体験を切り開き調べ上げていた。黙し、目を瞑り光の中に直立するその姿は、傍から見るとほとんどシャーマンか何かのようだった。
「君は、記憶や感覚のドラスティックな変化は試していないんだね」
やがて彼女はそっと目を開けてそう呟いた。
「試した可変現実の数は多い。けどどれも、根本的な人格や記憶の深い改変を必要とするものじゃない。どうして?」
「それは……なんとなく、避けたかったから」
「何を?」
「何て言うか、そこまでのことをして自分を満足させたとしてもそれは自分なのか疑問だったというか」
「自己同一性が保たれないと思ったから?」
「それもあるかもしれない。けど重要じゃない。重要なのは、怖いと思ったこと」
「怖い?」
「幸福を得るために、満足するために、自分を深く改変したとする。それで違和感は消えるのかもしれない。不全感も。けど、その先でまた同じ違和感に出会ったらどうしようかなって考えるとさ」
たどたどしく、僕は説明する。
可変現実では自己の記憶や感覚の改変だって容易だった。性別も性格も過去も入れ替えられる。そこでは自己同一性などという単語が、かつて古い時代に持っていたであろう神秘性や重要性はあっさりと投げ捨てられる。
現実を選ぶということは、自己をも選ぶということだった。可変現実が可能になったこのSZ社会においては自己とは望まれる自己のことであり、自分が自分であるということに納得のいかない人々はあっさりそれを変化させる。自分が別の自分になるのでは何も救いにはならない――そう主張する人々も昔は多かったというが、そもそも人の自己というものは不定形で変化し続ける。物理身体のほとんどは代謝で別の物質に入れ替わるのと同じように精神も絶えず変化を続ける。自己同一性をどこにどう求めどの部分を絶対とするのか。そんなあやふやな議論にまで考えが及んだとき、多くの人々は可変現実による変化を受け入れた。望んだ自分になることを。
僕自身もそこは問題に思ってはいなかった。問題のなのは、自己すら改変してもこの違和感、抱え続ける不全感が消えなかった場合だ。その場合、僕はつぎつぎと自己を変化させながら、それでも満足できず可変現実の群の中を彷徨い続けることになる。そこにはもはや逃げ場はない。
「それがなんとも怖いと思ってさ」
話し終えると、サクは「ふぅん」と唇の先で声を漏らして、ちょっと考え込むように視線を緑の地面に落とした。
「ツミ、でいいかな、呼び方」
「構わないけど」
「じゃあツミ。私が思うにさ」
「うん」
「君は、どんなよくできた可変現実であっても、足りないんじゃないかな」
言われて、瞬間的に僕は意識と体が硬直するのを感じた。足りない。その一言が何もかもを言い表しているような気がした。




