4 ゴースト
「ゴースト……」
ぼそりと、自分のものじゃなくなったみたいな僕の喉が震え、そんな単語を呟いていた。
稀に、可変現実の中に、意図していない何かが混ざることがある。原因は可変現実の構築途上でのミスや、異なる二種以上の現実を組み合わせるなどの複雑な処理を不慣れな人間が行ったために生じた競合のせいだったり、あるいは自身の記憶の処理が不完全なせいで願望や欲求が作り上げた現実と一致していないなど様々だ。ともかくそうした経緯で現れる、『現実に存在するはずがないのに存在しているもの』を便宜的にこの国のSZの民たちは「ゴースト」と呼ぶ。
僕が今目にしているのは、紛れもなくゴーストだった。いるはずのないもの、感じられるはずのない現実、あるはずのない虚構。しかしゴーストの下地となる可変現実すら僕は展開していない。少なくともそのはずだ。今現在僕の体内のSゼロプラントは可変現実の生成どころか疲労軽減や身体パフォーマンス維持のための特殊アルコールの生成すら休止していた。プログラムがなければバグも発生しない。可変現実がないのにゴーストは見えない。あるいはそれも全て含めて、記憶も何もかも僕は書き換えたのだろうか。
もしくは。このサクは、可変現実のゴーストではなく旧来の意味でのゴーストだとでも言うのか。久方ぶりに姿を見せた、生の亡霊だとでも。
「亡霊だって?」
自分の思いつきの陳腐さに呆れてしまう。だというのに、サクゴーストは目を輝かせた。
「亡霊ってのはいいね。近いかも」
「馬鹿げてる」
吐き捨てる。
「サクは消えた。大量のSゼロ、アルコール飲料と共に」
「死んだの?」
サクの顔でゴーストが訊く。サクは死んだのかと。
「どうだろうな」
頭を振って答える。彼女が死んだのかどうか、厳密には知らない。ただ常識的に考えれば、生きてはいないように思えた。そういう別れだったのだ、という言葉を僕は喉の奥で誰にも聞こえないよう小さく響かせる。
「ね、ツミさ、知りたくない?」
「何をだよ」
「消えた人たちがどうなったか」
すとん、と矢が貫くように、彼女の一言が僕に突き立つ。
「あなたのかつてのお仲間。それにサク。みんながどうなったか、知りたくない?」
ぞっとして僕はしばし口を噤む。かつての仲間――失踪した分隊員たちのことを言っているのか。
違和感。奇妙さ。不可思議さ。目の前のサクの姿をした少女のわけの分からなさが、暗い色を伴い始める。このゴーストは何を知っているのか。何のために自分の元に現れたのか。
「ま、拒否させてあげる気もないんだけどね」
サクと同じあっけらかんとした可愛らしい口調で告げられる。
咄嗟に僕は、可変現実のセットを呼び出し頭の仲で駆動させた。記憶の改変と認知の改変が群を成して起動され走り出し、日常的に使っている可変現実の一つが僕の現実そのものとなる。それに伴って見たくないもの、感じたくないものを自由に書き換えることが出来る。ゴーストへの拒否を体内のSゼロのアルコール・微小機械群に書き込んでいく。
だが、サクのゴーストは消えなかった。
それどころか、目の前の景色も室内の耳に痛いほどの静けさも肌に感じる空気の僅かな冷たさも、何もかも変わりはしなかった。
ぎょっとしてしまう。国内ならば、戦場ですら安定的に運用できる可変現実が作動しない。頭の中のログを視界に映すと、そこには流れ始めた可変現実がほぼノータイムで更に上書きされて消去されている事実が記されていた。
「じゃじゃーん。どうだ」
サク・ゴーストが自慢げに笑う。大きな瞳がこちらの混乱を見透かすようにきらきらと輝いていた。
「君は、なんなんだ」
僕はほとんど呆然として呟く。可変現実のセキュアは体内のSゼロによって、つまりはSZ196によって保たれている。人類をはるかに凌駕したアルコール電子知性の御業によって、だ。このゴーストは、何をしたんだ? 乗っ取ったのか? 可変現実の制御を。
僕の言葉をゴーストは無視して、ひょいとベッドから飛び降りた。とてとてと小走りに部屋を駆け、外へと繋がる扉へ近づく。玄関前に立って彼女は僕を振り返った。
「ねえ、ツミ、一緒に来て。あなたと一緒に行きたい所と、それから、見せたいものがあるの」
悪戯っぽい笑みを浮かべたまま、彼女は僕を手招きして見せた。
*
可変現実を完全に切った状態で街を歩くという体験は、現代のSZの民にとっては未知の行為である。度々旧現実に触れている僕ではあるが、長時間完全に可変現実から離れるというのはひどく落ち着かない、ぞっとする行為だった。
医療機関や警察機構への通信は全て遮断されていた。僕がそうしたことを試そうとするたびにサク・ゴーストは無邪気な笑顔を僕に向けた。完全に僕はゴーストの支配下にあった。可変現実を生きるものにとってその可変現実の根元を押さえられるということは、世界全てを支配されるということだ。現実の書き換えにはそうした致命的な弱点が存在するのだが、SZ196の性能がそれを補っていたのだ。ならば、それを突破しこんなことをしかけてくるこのゴーストは一体何物なのか。あるいは全て、僕自身の妄想に過ぎないのか。
自宅の高層住宅を出て自動運転車に乗り込むと、なんの指示もしていないにも関わらず車はすぐに発進した。出来うる限り効率的かつ安全に統制された交通網に滑り込み、加速していく。
窓の外を流れる風景は目新しかった。既に長い間住んでいる町だが、旧現実そのものの風景は普段ほとんど見ない。一般の、若いSZ民なら、一生目にすることもないだろう。
皆が可変現実で隙好きに過ごす町ではあるが、その町並みは清潔で整然としていた。古い時代にみられたであろう汚れやくすみとは無縁の町並みは、知性素材や微小機械や保守整備用のロボットのおかげで保たれている。
ただ、驚くほどに淡白ではあった。皆が異なる現実に生きているのだから当然だが、そこには色とりどりの建物も看板も広告も目に鮮やかな緑もない。可変現実でカスタマイズすることを前提としたシンプルで効率的なアーキテクチャ。それだけが延々と続く。
「どこへ行くんだ?」
僕は流れる景色を見やりながら尋ねた。車の制御がゴーストの都合で行われていることは最早尋ねるまでもなかった。
「ツミも知ってる場所だよ。ほい」
声と共に隣に座ったゴーストは僕の頭の中に目標地点をポイントした地図を放り込んできた。あらゆる通信防壁を無視して。
半ば諦めの境地でそれを確認する。ポイントされている地点を注視し、その景色を頭の中に呼び出すと、思わず声が漏れ出た。
「ここは……」
「あなたとサクが、初めて出会った場所」
一時、呼吸が詰まる。サクの外見をもったゴーストが、サクの声で告げた言葉に。
「ねえ、ツミ、私はね、聞かせて欲しいんだ。あなたと、サクのこと」
ゴーストは前を見つめたまま、瞳に淡白なつまらない街の風景を映したままで小さく口を開いてそっと空気に混ぜ込むように声を投射する。
「サクは、どういう人だったの?」
問われてしばし、僕は惑いの中で考えた。サク。コノハサクヤ。
ゴーストに問われるような話だろうか。一体何の必要があってそんなことを訊くのか。ひどくプライベートで、小さく、しかし深いその思い出を。
ゴーストは、あまりにサクに似すぎていた。外見も言葉遣いも声も抑揚も息遣いすら。記憶の底にある鍛えられない部分――鍛えずにほうっておいた部分にその酷似がするりと手を伸ばしてくるようだった。
「サクは」
気がつけば、ひとりでに言葉が滑り出ていた。
「とにかく聡い人間だった。美しくどこか真っ直ぐに伸びようとする一方で、その伸び方のあまりの美しさに危うさを感じる、そんな人間だった」




