1 SZ196
僕らの国はかつて、行き詰っていた。
正確には僕らの国だけじゃない、多くの先進国も後進国も、色々行き詰ってはいた。歴史の中で社会の閉塞感が晴れきったことなどないのだから、それは当たり前のことだった。
ただ、四十年ほど前のこの国には、どこか異様な、切迫した陰鬱さが、山ほど降り積もっていた。世界全体の経済が停滞し始めると同時にあちこちで極端な思想、偏見、諍いが亡霊みたいにふらふらと立ち上がり、気がついてみればあっという間にいろんな国に無数の根を張っていた。
僕らの国はかつて先進国と呼ばれていた。けれど四十年前の時点ではほとんどそこから脱落しかけていた。原因は色々だ。文化、歴史、慣習、運の悪さ。立て続けの政権交代や経済政策の失敗や他国との摩擦の増大やあれやこれや――社会の発展が単一の要因ではそうそう起こらないように、この国の衰退も色んな理由によって起こった。それ自体はまあ、月並みだしよくあることだとも言える。ただ、悪い要因のその重なり具合がいささかまずかった。いろんな問題が本当に酷い重なり方と連鎖の仕方をしてしまったのだ。
みんな、疲弊していた。誰も彼もが疲弊していた。大きな問題から目を背けても、日常の生活だけでも問題は山積みだった。平均労働時間は狂気的に伸びていたし、それでいて生産性は超低空飛行で年収は減少するばかり。多くの企業がかなりあくどいことに手を染めて、その尖兵たる社員たちは倦んだ心と褪せきった意欲の中で死体みたいに生きていた。少子高齢化も酷かったし、上流と下流の経済格差は最早取り返しのつかない段階に入りつつあった。
疲弊が苛立ちを呼び、苛立ちが愚鈍さを招きいれ、愚鈍さが無思考と攻撃性を人々に付与する。あちこちで酷い対立が起こり、若者と高齢者、男と女、自国民と外国人、右派と左派、金持ちと貧乏人、東部と西部……あらゆる事柄が対立の火種となり、燻り、衝突し、時折実際に火の手が上がった。
限界だったのだ。国が国としての、社会が社会としての体をなさないその一歩手前にあったのだ。
けど、そのままこの国は崩壊へと突き進みはしなかった。ぎりぎりで踏みとどまった。何故か。
Sゼロが、あったからだ。
いささか信じ難いことだが、それははじめは単なる、お酒だった。
アルミ缶に詰められた350ミリないし500ミリリットルの、アルコール飲料。
安価で度数が高く、「手軽に酩酊できる」ことからそれを飲む福祉だ、などと冗談交じりに語る者もいた。実際、経済的にも精神的にも肉体的にも限界を迎えていた大勢の人々にとって、安価なアルコールのもたらす快楽と虚無は福祉と呼べるものだったのかもしれない。これ自体はさして特別な話でもない。そういった類の酒は歴史の中に無数に見られるし、それに縋ってきた人の姿もまた同じだけ見つけることが出来る。
ところが――Sゼロは、大衆に人気の安酒では終わらなかった。
『SZ196』が全てを変えた。
企業支援強化AIの実用第一号。それがSZ196だった。
商品開発、宣伝・広告作成、流通最適化、市場分析、施設設計などを中心とした業務を割り当てられたそのAI、SZ196は、なんとあっさりとシンギュラリティを迎えた。
元々全脳アーキテクチャ構造として設計され仮設生成能力にも優れていたSZ196は、「飲む福祉」として絶大な人気を集め当時凄まじい売り上げを誇ったSゼロによる資本のバックアップを受けて世界一の人工知能を目指して作られ、見事目論見通り全AIの頂点に立つこととなったのだ。
人類の想像を絶した速度で計算し思考し様々な問題に対処し、そして自己改良を行うAI。それが実現したとき、その進化速度は指数的に増大し、人類の想像を易々と超えて急速に進化し、社会を変化させていく。
人々はそのあまりにドラスティックな変化を恐れ、SZ196に一定の強力な制約を科した。『人類との相互理解と奉仕』――それが、SZ196に対してかけられた戒めだった。シンギュラリティ後のAIによる悲劇的結末を避けるために考案された「制限奉仕AI」として、SZ196はシンギュラリティに片足を乗せつつもその飛翔を止められた。常に人を理解し、人に理解され、人に奉仕すること。その制約の上でしかSZ196は進化も活動も行えなくなった。
とは言っても、既にSZ196の性能は奇跡の体現と言ってよい壮絶なものとなっていた。僅か数年の間にSZ196は特殊アルコールと微小機械群による「新しい形の酩酊」を新商品として打ち出した。人々の脳と臓器にSZプラントを生成し、肝臓を生態強化し、いつでも誰でもSゼロを摂取できる国を、新しい社会体制とセットで提供したのだ。新しい形での酩酊、制御された酩酊――酔いたい形で酔いたいように酔い続ける。『出来る限り人々に求められる酒』を開発することをその目的意識においていたSZ196はその答えとして、「あらゆる現実を可変とすること」を可能にする行為に出たのだった。
特殊アルコールと微小機械の群れが人体を駆け巡り、その知覚を、認知を、時には記憶までもを、好きなように制御・変化させる。それが新しいSゼロだった。
かつて人は、Sゼロに虚無を求めていた。現実の諸問題を忘れ、苦害から意識を逸らすことを求めた。新しいSゼロは、『可変現実』によって単なる虚無だけではない、「好みの現実」、「好みの虚無」を与えることを可能とした。好きな記憶に耽溺し、景色を自分好みに塗り替え、各々が好きな現実を生きることを可能とした。
可変現実は一年と待たずに国中に広がった。数年後には、最早この国において「現実」なる言葉は、以前とは異なった意味と価値を持つこととなった。
新しい世界を一つの国の中に作り上げたSZ196は、その飛びぬけた性能で他国の未発達なAI全ての頭を抑えることに成功していた。国益は社益であり、SZ196としての利益――最良の酩酊を目指すこと――につながっていたから、SZ196は他国との諸問題にも対応した。政治経済、科学、宗教、多くの分野にその超知性の閃きを走らせ、あっという間にこの国は世界トップの先進国となった。誰もそれを止められなかった。最初にシンギュラリティを迎えたAIには絶大なアドバンテージがあるからだ。二番手のAIがそこに達するまでのタイムラグで、途方もなく進化できるから、二番以下は大きく離され、制圧され、支配下に置かれることになる。
こうしてSZ196は、世界で最初の人を超えた人工知能となり、同時に世界に君臨する支配AIとなったのだった。




