第三章 雨の日に拾った小さな手
排水塔に子どもが三人増えてから、ロイドの朝は忙しくなった。
以前なら、目を覚まして顔を洗い、工具袋を持って出ればよかった。
今はそうはいかない。
まず、鍋に水を入れる。
火を起こす。
前日の残りがあれば温め直し、なければ乾燥豆を煮る。
それから、子どもたちを起こす。
エドは一度声をかければ起きる。リックは目を開けていても、しばらく布団から出てこない。トムは起こすと機嫌が悪くなる。
そして、ルカは子どもたちより起きるのが遅い。
「ルカ」
「……あと五分」
「もう五分前に起こした」
「じゃあ、あと五分」
「起きろ」
「僕の人生には、もう少し優しさが必要だと思う」
「お前の人生より、鍋の中身の方が心配だ」
ロイドが毛布を剥ぎ取る。
ルカは恨めしそうに睨んだ。
「君は本当に、朝から人の尊厳を踏みにじるね」
「尊厳で飯が食えるなら、いくらでも守ってやる」
その横では、バルドが鍋をかき混ぜていた。
彼は朝からよく働く。
薪を割り、水を運び、鍋を洗い、子どもたちの食器を並べる。大きな体に似合わず、細かい作業も丁寧だった。
ただし、食事の時だけは別である。
バルドの目は、鍋の中身を常に気にしていた。
「……パン」
「まだ焼いてない」
「……そう」
ルカが寝ぼけた顔で言った。
「バルド、君は本当にパンが好きだね」
「好き」
「そんなに?」
「好き」
「他に好きなものは?」
バルドは少し考えた。
「……肉」
「なるほど。わかりやすいね」
トムが横から口を挟む。
「俺は肉なら何でも好きだぞ!」
「お前は何でも好きだろ」
ロイドが言うと、トムは胸を張った。
「好き嫌いしないんだよ!」
「昨日、豆を残しただろ」
「豆は別!」
エドが笑った。
リックは黙って自分の器を持ち、席につく。
いつもの朝。
いつものやり取り。
狭い排水塔には、六人分の生活音があふれていた。
ロイドは、鍋の底に残った豆をすくいながら、壁の向こうで雨が降り始めたことに気づいた。
最初は、ぽつり、ぽつりと。
やがて、古い屋根を叩く音が大きくなる。
「今日は雨か」
エドが窓の隙間を見た。
「仕事、行ける?」
「廃材の仕分けはできる。だが、運搬は減るだろうな」
「濡れるね」
「濡れる」
ロイドは立ち上がり、入口の板戸を確認した。
雨漏りする場所が、また増えている。
天井の隅から一滴、水が落ちた。
その下には、昨日置いたばかりの鍋がある。
「……またか」
ロイドは鍋を少しずらした。
ルカがそれを見て、ため息をつく。
「この家、本当に家なのかな」
「屋根がある」
「穴が開いてるけどね」
「壁もある」
「ひびだらけだけどね」
「文句があるなら直せ」
「僕は美しいものを担当してるから」
「じゃあ、その美しい手で板でも押さえてろ」
ルカは肩をすくめた。
「まったく。僕の美しさが理解されないなんて、悲しい街だよ」
そう言いながら、彼は板を取りに行った。
*
その日の仕事は、午前中で終わった。
雨が強くなり、廃材置き場の一部がぬかるんでしまったためだ。荷車を動かすこともできず、作業員たちは早々に解散した。
ロイドは予定より少ない賃金を受け取り、ルカと一緒に市場へ向かった。
「今日は稼ぎが少ないね」
「仕方ない」
「豆を買う?」
「ああ。あと、屋根に使える板があれば探したい」
「板は高いよ」
「拾えるものを探す」
「そういうところは本当に現実的だね」
ルカは濡れた髪を手で整えた。
雨の日の市場は、いつもより人が少ない。
店先には布がかけられ、商人たちは商品が濡れないように忙しく動いていた。
ロイドは豆を買い、古い板材を扱う店を覗いた。
使えそうな板はあったが、値段が高い。
「これ、もう少し安くならないか」
「無理だね」
店主は即答した。
「傷もあるだろ」
「それでも使える」
「端が腐ってる」
「だから安くしろって?」
「そうだ」
「なら買わなくていい」
ロイドは板を戻した。
ルカが隣で小さく笑う。
「交渉が下手だね」
「お前がやれ」
「僕ならもう少し優しく話すよ」
ルカは店主の前に出た。
「こんにちは。雨の日に大変ですね」
「何だ」
「その板、少しだけ譲ってもらえませんか。屋根の修理に使いたいんです」
「金があるなら売る」
「もちろん。ですが、僕たちが欲しいのは新品じゃありません。端が腐っていても、切って使える部分があれば十分です」
ルカは板を持ち上げ、腐った部分を指で叩いた。
「ここは使えません。でも、こちらはまだしっかりしています。捨てるには惜しいでしょう?」
店主は少しだけ考えた。
「……銅貨三枚」
「二枚」
「三枚だ」
「二枚と、今度使えそうな部品を見つけたら持ってきます」
「そんな約束はいらん」
「では、二枚で」
「……二枚半だ」
「半分の銅貨はありませんよ」
「うるさいな。二枚でいい!」
ルカはにっこり笑った。
「ありがとうございます」
板を抱えて店を離れると、ロイドが感心したように言った。
「よくやったな」
「当然だよ」
「助かった」
「もっと褒めてもいいんだよ」
「調子に乗るな」
ルカは笑った。
その時だった。
市場の裏手から、子どもの声が聞こえた。
「やめて!」
甲高い声。
続いて、何かが転がる音。
ロイドは足を止めた。
「またか」
ルカが声の方を見る。
「子ども?」
路地の奥に、女の子がいた。
年齢は四歳ほどだろうか。
薄い布の服を着て、濡れた髪が頬に張りついている。小さな手には、何かを包んだ布が握られていた。
その前には、男が一人立っていた。
「返せって言ってるだろ!」
「いや!」
「それは俺の商品だ!」
「ちがう!」
男が女の子の手首を掴んだ。
女の子は必死に抵抗する。
ロイドが歩き出そうとした時、ルカが先に動いた。
「ちょっと、何をしているんです?」
男が振り返る。
「あ?」
ルカは笑顔のまま、男と女の子の間に立った。
「その子、嫌がっていますよ」
「関係ないだろ!」
「関係ないかどうかは、話を聞いてから決めましょう」
「こいつが盗んだんだよ!」
男は女の子の手から布を奪おうとする。
ルカは、その手を軽く押し返した。
「落ち着いてください。何を盗まれたんです?」
「薬だよ!」
「薬?」
「俺の店の商品だ!」
ルカは女の子の手元を見た。
布の隙間から、古い薬瓶が見える。
「その薬は、どこにあったんですか?」
「店の棚だ!」
「棚から取ったんですか?」
「そうだよ!」
ルカは女の子に視線を向けた。
「君、どうして薬を持っていたの?」
女の子は答えない。
ただ、薬瓶をぎゅっと握りしめている。
男が声を荒らげた。
「見りゃわかるだろ! 盗んだんだ!」
「ええ。そうかもしれません」
ルカはあっさり認めた。
男が少しだけ気を緩める。
その隙に、ルカは続けた。
「でも、その薬は売り物にならないでしょう?」
「何だと?」
「瓶の底が割れています。中身も少し漏れている。これを商品として売るつもりだったんですか?」
「それは……」
「それに、棚の奥にあったものですよね。子どもが手を伸ばせる高さではない。わざわざ盗むには、少し不自然です」
男の顔が険しくなった。
「お前、何が言いたい」
「この子が何かをしたのは事実でしょう。でも、あなたがこの子を殴る理由にはなりません」
男は舌打ちした。
「面倒くせえ。もういい!」
男はその場を離れていった。
ルカは女の子の前にしゃがむ。
「怪我はない?」
女の子は、首を横に振った。
「そう。よかった」
ルカは手を差し出した。
「それ、見せてもらえる?」
女の子は、少しだけ迷ってから薬瓶を差し出した。
瓶の底には小さなひびが入り、薬液がほとんど残っていない。
「これ、どうするつもりだったの?」
女の子は答えなかった。
その代わり、布の中に何かを探すように手を入れた。
取り出したのは、小さな金属片だった。
錆びた歯車の欠片。
それをルカの手のひらに乗せる。
「……これ」
「これ?」
「お薬、ちょうだいって言ったの」
女の子の声は小さかった。
「お金、ないから。これ、あげるって」
ルカは金属片を見た。
それは、ほとんど価値のないものだった。
それでも女の子は、それを大事に持っていたのだろう。
「誰かが病気なの?」
女の子は頷いた。
「おかあさん?」
首を横に振る。
「おとうさん?」
また横に振る。
「……お兄ちゃん?」
女の子は、少しだけ考えてから頷いた。
「お兄ちゃん、熱いの」
ロイドが近づいてきた。
「その兄貴はどこにいる」
女の子は路地の奥を指差した。
その先には、崩れかけた建物がある。
「そこ?」
女の子は頷く。
ロイドはルカを見た。
「行くぞ」
「うん」
女の子は、二人の後ろをついてきた。
*
建物の中には、古い布が敷かれていた。
壁は崩れ、天井には大きな穴が開いている。雨水が入り込み、床はぬかるんでいた。
その隅に、少年が横たわっていた。
年齢は十歳前後。
顔は赤く、呼吸が荒い。額には濡れた布が置かれているが、すでにぬるくなっていた。
「お兄ちゃん!」
女の子が駆け寄る。
少年は、薄く目を開けた。
「……サラ」
「お薬、持ってきたよ」
「……だめだよ」
「でも」
「サラが、使って」
サラは首を横に振った。
「お兄ちゃんが使うの!」
ロイドは少年の額に手を当てた。
熱い。
「いつからだ」
少年は答えられない。
代わりに、サラが言った。
「昨日から」
「何か食べたか?」
「食べてない」
「水は?」
「ちょっとだけ」
ロイドは眉を寄せた。
このままでは危ない。
「医者に連れていく」
サラが顔を上げた。
「お金、ないよ」
「俺が払う」
「でも」
「今はいい」
ルカが少年の様子を確認する。
「意識はある。水分も取らせた方がいいね。ロイド、運べる?」
「ああ」
ロイドは少年を抱き上げた。
サラは、その後ろを追いかける。
「お兄ちゃん!」
「大丈夫だ。医者に連れていく」
「ほんと?」
「嘘はつかない」
サラは小さく頷いた。
その手は、まだ薬瓶を握りしめていた。
*
医者は、旧市街の外れにある小さな診療所にいた。
年老いた女医で、診察室には薬草と消毒液の匂いが漂っている。
少年は診察台に寝かされ、女医が熱を測った。
「かなり高いね」
「大丈夫なんですか」
ロイドが尋ねる。
「水分不足もある。しばらくここで休ませなさい。薬を出すから、決められた量を飲ませること」
「いくらですか」
女医は金額を告げた。
ロイドの財布には、足りるだけの金がなかった。
ルカが横から口を挟む。
「少し待ってください」
彼は女医の前に立ち、穏やかな声で言った。
「この子たちは身寄りがありません。薬代を少しだけ待っていただけませんか」
「それはできないね」
「もちろん、無料にしてほしいとは言いません。必ず払います」
「口約束は信用できないよ」
「では、こちらを預けます」
ルカは首元から、小さな金属の飾りを外した。
古びた銀色の飾りだった。
それは、彼がいつも身につけているものだった。
ロイドは驚いた。
「おい」
「大丈夫」
ルカは女医に飾りを差し出す。
「これを預けます。薬代の一部として」
女医は飾りを受け取り、しばらく眺めた。
「……大切なものじゃないのかい」
「まあ、僕の顔の次くらいには」
「冗談を言っている場合かね」
「すみません」
女医はため息をついた。
「返してほしいなら、必ず払いに来なさい」
「もちろんです」
「薬は出しておく。今夜は様子を見て、熱が下がらなければ明日も連れてきなさい」
ルカは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
ロイドは何も言わなかった。
診療所を出たあと、ルカに尋ねる。
「それ、大事なものじゃなかったのか」
「大事だよ」
「なら、何で渡した」
「薬が必要だったから」
「……」
「それだけだよ」
ルカは、濡れた髪を手で整えた。
いつもの笑顔だった。
けれど、その手は少しだけ震えていた。
*
少年の熱は、翌朝には少し下がった。
サラは診療所の隅で、ほとんど眠らずに兄のそばにいた。
ロイドたちは、朝になってから二人を排水塔へ連れて帰った。
少年の名前は、マルクという。
十二歳だった。
サラの兄で、二人はしばらく前から一緒に暮らしていたらしい。
両親は、工場の事故で亡くなった。
親戚を頼ったが、二人とも引き取ってもらえなかった。
その後は、廃材を拾ったり、荷運びを手伝ったりして暮らしていた。
マルクは、サラを守るために仕事を増やし、無理をしていた。
そして、熱を出した。
サラは、そんな兄を助けようと、薬を探しに行ったのだった。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
排水塔の寝床で、サラが尋ねる。
「ああ。もう平気だ」
「ほんと?」
「本当だよ」
「じゃあ、明日は一緒に市場に行ける?」
「まだ駄目だ」
ロイドが言った。
マルクは、少しだけ顔を上げた。
「すみません。迷惑をかけて」
「気にするな」
「でも、俺たちのせいで」
「今は休め」
ロイドはそれ以上言わなかった。
ルカは棚の中を確認していた。
「食料が少し足りないね」
「わかってる」
「あと、寝床も」
「わかってる」
「薬代も」
「わかってる」
「……君、わかってるしか言わないね」
「他に何て言えばいい」
ルカは少し笑った。
「何とかなる、って言えば?」
「何とかする、だ」
「そういうところは好きだよ」
ロイドは返事をしなかった。
サラは、二人のやり取りをじっと見ていた。
そして、突然、ロイドの袖を引いた。
「ねえ」
「何だ」
「ここ、何人いるの?」
「六人だ」
「六人?」
「俺たち三人と、お前の兄貴。それからエド、トム、リックだ」
「みんな、ここに住んでるの?」
「ああ」
「ずっと?」
「今のところはな」
サラは少し考えた。
「じゃあ、わたしもいていい?」
ロイドは答える前に、マルクを見た。
「兄貴と一緒がいいか?」
サラは頷く。
「うん」
「マルクはどうしたい」
マルクは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「俺は……サラが安全なら、どこでもいいです」
「お兄ちゃんも一緒じゃなきゃ嫌!」
サラが叫んだ。
「サラ」
「だって!」
「俺は大丈夫だから」
「大丈夫じゃないもん!」
サラの目に涙が浮かぶ。
「お兄ちゃん、ずっと頑張ってる。わたし、ひとりになりたくない」
マルクは、何も言えなかった。
ロイドは二人を見た。
兄は妹を守ろうとしている。
妹は兄を失いたくないと思っている。
その気持ちは、よくわかった。
「二人とも、ここにいろ」
ロイドは言った。
マルクが顔を上げる。
「でも」
「仕事は、体が治ってから考えればいい」
「俺たち、何も返せません」
「返さなくていい」
「そんなわけには」
「じゃあ、元気になったら掃除でもしてくれ」
ルカが横から笑った。
「それなら僕も助かるよ。掃除は苦手なんだ」
「お前、掃除してないだろ」
「僕は監督してるんだ」
「何の監督だ」
サラは、二人の顔を交互に見た。
そして、泣きながら笑った。
「ありがとう!」
その声は、排水塔の中によく響いた。
*
サラが来てから、排水塔はさらに騒がしくなった。
「ねえ、これ何?」
「古い歯車だ」
「何に使うの?」
「知らん」
「じゃあ、これは?」
「蒸気弁」
「何に使うの?」
「知らん」
「じゃあ、これは?」
「サラ」
ロイドが振り返る。
「何?」
「質問を一度に三つするな」
「どうして?」
「答えるのが大変だからだ」
「じゃあ、一つずつ聞くね!」
「そうしてくれ」
サラは、さっそく別のものを指差した。
「これは何?」
「……それは、壊れたランプだ」
「何で壊れたの?」
「古いからだ」
「古いと壊れるの?」
「そういうものもある」
「じゃあ、ロイドも古くなったら壊れる?」
トムが吹き出した。
「ロイドはもう壊れてるぞ!」
「おい」
ルカが笑う。
「確かに、朝はいつも機嫌が悪いね」
「お前ら、まとめて外に出すぞ」
サラは目を丸くした。
「ロイド、怒ってる?」
「怒ってない」
「でも、声が大きいよ」
「……そうか」
サラは、少し考えてからロイドの手を握った。
「じゃあ、怒らないでね」
ロイドは、その小さな手を見た。
「怒ってない」
「ほんと?」
「ああ」
「よかった!」
サラは笑って、また別のものを探し始めた。
その様子を、エドが微笑ましそうに見ていた。
トムは、サラの後ろをついて回り、質問されるたびに適当な答えを返している。
「これは何?」
「宝石」
「ほんと?」
「本当」
「じゃあ、これも?」
「金貨」
「すごい!」
「全部売れば、豪邸に住めるぞ」
リックが静かに口を挟んだ。
「……嘘」
「何だよ!」
「それ、鉄くず」
「うるせえ!」
サラは二人の間に入り、目を輝かせた。
「じゃあ、これは本当に宝石なの?」
「違う」
リックが答える。
「……そっか」
サラは少し残念そうにしたが、すぐに笑顔に戻った。
「でも、きれいだね!」
リックは、返事をしなかった。
ただ、その金属片をサラに渡した。
サラは両手で受け取り、嬉しそうに眺める。
「ありがとう!」
リックは小さく頷いた。
*
その日の夕方、雨はさらに強くなった。
排水塔の屋根から水が漏れ、床にはいくつもの水たまりができていた。
ロイドとマルクは、屋根の修理をしていた。
マルクはまだ完全には回復していないが、体を動かせる程度にはなっていた。
「無理するなよ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないから寝てたんだろ」
「もう熱は下がりました」
「それと、無理していいかは別だ」
マルクは苦笑した。
「ロイドさんって、厳しいですね」
「そうか?」
「はい」
ロイドは釘を打つ手を止めた。
「……昔からだ」
マルクは、少しだけロイドの顔を見た。
「昔から?」
「気にするな」
それ以上は話さなかった。
屋根の修理が終わる頃には、雨は少し弱まっていた。
ロイドが中へ戻ると、サラが入口に座っていた。
膝を抱え、外を眺めている。
「どうした」
「雨、止まないね」
「ああ」
「お兄ちゃん、また具合悪くならないかな」
「薬を飲んでる。大丈夫だ」
「ほんと?」
「今はな」
サラは、しばらく黙っていた。
「わたしね」
「何だ」
「雨の日、嫌いなの」
「どうして」
「お兄ちゃんが働けないから」
ロイドは隣に座った。
「そうか」
「それに、雨が降ると、昔のこと思い出すの」
「昔?」
「お母さんがいなくなった日も、雨だった」
サラは、膝の上に顔を埋めた。
「お父さんも、お母さんも、帰ってこなかった」
ロイドは何も言わなかった。
慰めの言葉は、簡単には出てこない。
「お兄ちゃんがいるから、大丈夫だった。でも、お兄ちゃんも病気になっちゃった」
「怖かったか」
サラは小さく頷いた。
「うん」
「そうか」
「またひとりになるの、嫌だった」
ロイドは、サラの頭に手を置いた。
どうすればいいのかは、わからなかった。
ただ、ここにいる間は、ひとりにしない。
それくらいなら約束できる。
「ここには、俺たちがいる」
サラは顔を上げた。
「ロイドたち?」
「ああ」
「エドも?」
「ああ」
「トムも?」
「ああ」
「リックも?」
「ああ」
「バルドも?」
「ああ」
「ルカも?」
「いる」
サラは少し笑った。
「みんな、いるんだね」
「そうだ」
サラは、ロイドの手を握った。
「じゃあ、雨の日も大丈夫?」
「……大丈夫にする」
サラは頷いた。
それから、ロイドの肩に頭を寄せた。
小さな体は、まだ少し冷えていた。
*
夜。
子どもたちは、いつもより早く寝床に入った。
サラはエドの隣で眠っている。
トムは、まだ何かを話していたが、ルカに「明日も早いよ」と言われて黙った。
リックは壁際で目を閉じている。
マルクはサラのすぐ近くで横になっていた。
バルドは、鍋を洗っていた。
ロイドは工具を片付けている。
「ルカ」
「何?」
「薬代、どうする」
「払うよ」
「お前の飾りは?」
「預けたまま」
「大事なものなんだろ」
「そうだね」
「買い戻すのか」
「もちろん」
ルカは、自分の首元に触れた。
そこには、いつもあった飾りがない。
「でも、今は薬の方が大事だった」
「……そうか」
「僕は、自分の顔を大事にしてるけど、誰かの命より大事だとは思ってないよ」
ルカは、いつものように笑った。
「それに、僕はまだ十九歳にもなってない。これからいくらでも綺麗なものを手に入れられる」
「自信があるな」
「当然」
ロイドは少しだけ笑った。
バルドが、洗った鍋を棚に戻す。
「……パン」
「もうない」
「……そう」
「明日買う」
ロイドが言うと、バルドは頷いた。
その時、サラが寝返りを打った。
「……おにいちゃん」
寝言だった。
マルクが、眠ったまま妹の方へ手を伸ばす。
サラはその手を握り、安心したように眠り続けた。
ロイドは、その様子を見ていた。
この場所には、もう六人だけの暮らしはない。
いつの間にか、子どもたちの声が当たり前になっている。
食器が増えた。
毛布が増えた。
修理する場所も増えた。
そして、守らなければならないものも増えた。
けれど、ロイドは思った。
この排水塔は、少しずつ変わっている。
ただの古い建物だった場所に、人が集まっている。
誰かが帰ってきて、誰かが待っている。
雨が降っても、寒くても、食べ物が少なくても。
ここには、帰ってくる人間がいる。
「ロイド」
ルカが呼んだ。
「何だ」
「明日、買い出しに行くんだよね」
「ああ」
「パン、少し多めに買おう」
「金があるか?」
「何とかする」
「お前が言うと不安だな」
「失礼だね」
バルドが、ぽつりと言った。
「……多め」
「バルドも賛成?」
「うん」
ロイドは、眠る子どもたちを見た。
「わかった。少し多めに買う」
ルカは満足そうに笑った。
雨音は、いつの間にか小さくなっていた。
排水塔の屋根から落ちる水滴が、一定の間隔で床を叩いている。
明日は晴れるだろうか。
晴れなくても、いい。
この場所には、雨をしのぐ屋根がある。
そして、誰かの手を握って眠れる夜がある。
それだけで、昨日より少しだけ、ここは家らしくなっていた。




