第四章 ふたりでひとつの帰る場所
雨が降らなくなって、十日ほどが過ぎていた。
廃材区画の空は、いつだって薄汚れている。頭上に浮かぶ都市から落ちてくる煤と、工場の煙と、蒸気機関の吐き出す白い霧。それらが混ざり合って、青空というものをずいぶん遠いものにしていた。
それでも、雨が降らない日はありがたい。
屋根から水が漏れない。床に敷いた布が湿らない。洗濯物が乾く。何より、子どもたちが外で遊べる。
古い排水塔の周囲には、いつの間にか小さな洗濯物が並ぶようになっていた。
大人のシャツに混じって、子どもの靴下や、膝の破れたズボンが風に揺れている。
ロイド・バレットは、その光景を見ながら眉間に皺を寄せていた。
「……増えたな」
「何が?」
隣で髪を整えていたルカが、鏡代わりの金属板から目を離さずに尋ねる。
「洗濯物だ」
「そりゃあ、人数が増えたからね」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、何の話?」
「干す場所がない」
ルカはようやく顔を上げた。
「それは大問題だ。洗濯物を干す場所がないということは、つまり僕の美しい衣服が湿ったままになるということだからね」
「お前の服なんか一番後回しだ」
「ひどいなあ」
ルカは胸に手を当て、大げさに嘆いてみせた。
その背後では、トムが木箱をひっくり返していた。
「おい、トム。それは椅子だ」
「知ってる!」
「じゃあ、何でひっくり返してる」
「秘密基地!」
「秘密基地にするな」
「なんでだよ!」
エドがトムの襟首をつかんで木箱を戻す。リックはその横で、拾ってきた小さな歯車を布で磨いていた。サラは二人の周りを行ったり来たりしながら、何かをずっとしゃべっている。
「ねえ、ロイド。今日はパンを買いに行くの?」
「行く」
「じゃあ、甘いのも?」
「買わない」
「まだ何も言ってないのに!」
「顔に書いてある」
サラは頬を膨らませた。
少し離れたところで、マルクが水桶を運んでいる。病み上がりだった彼も、すっかり顔色が戻っていた。まだ本調子ではないが、塔の中で何もせずにいることには耐えられないらしい。
彼は年上の子どもたちよりも背が高く、ロイドたちの手伝いもできる。だが、ここにずっといるつもりはないようだった。
数日前、マルクは仕事を探しに行きたいと言った。
薬代の借りもある。妹を守るためにも、いつまでも誰かの世話になるわけにはいかない。そういう気持ちは、ロイドにもよくわかった。
ロイドは止めなかった。
ただし、無理をするなと言った。
そして、サラを置いていくつもりなら許さないとも言った。
その言葉に、マルクは困ったように笑っていた。
今は、仕事を探す準備をしながら、塔の修理や水運びを手伝っている。
彼がいつまでここにいるかは、まだ決まっていない。
けれど、少なくとも今日の食卓には、彼の分の椀も並ぶ。
それでよかった。
家族というものが、最初から決まった形をしているとは限らない。
ロイドは、そう思い始めていた。
*
その日、バルドは市場の裏手にある廃材置き場へ向かっていた。
目的は、壊れた調理台の部品だった。
排水塔にある調理台は、もともと誰かが捨てたものを拾ってきた代物だ。脚が一本曲がっており、火を使うたびにぐらつく。ロイドは直すと言っていたが、ほかの仕事に追われて手が回っていなかった。
バルドは使えそうな鉄板を探しながら、積み上げられた金属片をひとつずつ動かしていた。
そのときだった。
かすかな声が聞こえた。
「……ユナ、待って」
子どもの声だった。
バルドは手を止めた。
「こっちじゃないよ」
「でも、あっちにパンの匂いがする」
「パンの匂いなんて、どこにでもするよ」
「しないよ。あっちはするの」
声は、廃材の山の向こうから聞こえてくる。
バルドは鉄板を置き、そちらへ回った。
そこには、小さな女の子が二人いた。
同じくらいの背丈。似た色の髪。泥で汚れた服。どちらもまだ幼く、三歳か、四歳くらいに見えた。
一人は、廃材の隙間を覗き込んでいる。
もう一人は、その子の服の裾を握っていた。
「……何してる」
バルドが声をかけると、二人は同時に振り返った。
驚いた顔。
そして、次の瞬間には、二人とも一歩後ずさった。
「何もしない」
先に答えたのは、前にいた子だった。
「そうか」
「何も取ってないよ」
「そうか」
「ここにいただけ」
「わかった」
バルドはそれ以上、何も聞かなかった。
女の子たちは顔を見合わせる。
服の裾を握っていた子が、小さな声で言った。
「ユナ……」
「大丈夫。ミナ、こわくないよ」
どうやら、前にいるのがユナで、後ろにいるのがミナらしい。
ユナは少しだけ胸を張った。
「おじさん、誰?」
「おじさんじゃない」
「じゃあ、お兄さん?」
「……そうだ」
「お兄さん、何してるの?」
「鉄を探してる」
「鉄って食べられる?」
「食べられない」
「そっか」
ユナは残念そうにうなずいた。
その横で、ミナのお腹が鳴った。
小さな音だった。
けれど、静かな廃材置き場では、十分に聞こえた。
ユナはすぐに妹の手を握り直した。
「ミナ、お腹すいてないよね」
「……うん」
「さっき食べたもんね」
「……うん」
バルドは二人を見た。
それから、自分の持っていた布袋を開いた。
中には、朝に買った固いパンがひとつ入っている。
昼に食べるつもりだった。
バルドはパンを取り出し、二つに割った。
「食べるか」
ユナはパンを見た。
ミナも見た。
けれど、二人ともすぐには手を伸ばさなかった。
「お金ないよ」
ユナが言った。
「いらない」
「あとで払うの?」
「いらない」
「ほんと?」
「ああ」
ユナはまだ疑っていた。
バルドは片方のパンをミナに差し出した。
「食べていい」
ミナはユナを見上げる。
ユナは少し考えてから、小さくうなずいた。
ミナは両手でパンを受け取った。
そして、ほんの少しだけかじった。
その瞬間、表情が変わった。
柔らかくはない。焼きたてでもない。むしろ、端の方は石みたいに固い。
それでも、ミナはゆっくりと噛んだ。
「おいしい?」
バルドが尋ねる。
ミナはこくりとうなずいた。
「……おいしい」
ユナもパンを受け取った。
こちらは遠慮なく大きくかじる。
「おいしい!」
そして、すぐに妹の方を見た。
「ミナ、半分こね」
「うん」
二人はパンを分け合った。
バルドは残った自分の分を見下ろした。
腹は減っていた。
けれど、別にいい。
そう思った。
*
ロイドたちが二人の存在を知ったのは、その日の夕方だった。
「……拾ってきた?」
塔の入口で、ロイドはバルドの後ろに隠れるように立っている双子を見た。
「ああ」
「何を」
「二人」
「見ればわかる」
「そうか」
バルドは、それ以上説明しなかった。
ロイドは額を押さえた。
「お前な……」
「腹が減ってた」
「それで?」
「パンをやった」
「それで?」
「帰る場所がないらしい」
「……」
ロイドは双子を見た。
ユナはバルドの服の端をつかんでいる。ミナはその後ろで、半分顔を隠していた。
「名前は」
「ユナ」
「ミナ」
ユナが答えた。
「二人で何歳だ」
「三歳!」
「ミナも?」
「うん」
ミナが小さくうなずく。
「親は?」
その質問に、ユナの表情が変わった。
バルドの服をつかむ手に、力が入る。
「いない」
「どこにいるかわからないのか」
「……いないの」
ユナは、それ以上答えなかった。
ロイドは少しだけ目を伏せた。
こういう子どもは珍しくない。
廃材区画では、親がいなくなる理由はいくらでもあった。病気、事故、仕事、借金、暴力。ある日突然、帰ってこなくなることもある。
残された子どもがどうやって生きるか。
それを誰かが教えてくれるわけではない。
「いつから二人でいる」
「ずっと」
「ずっとって、どれくらいだ」
「ずっとだよ」
ユナはそう言って、ミナの手を握った。
「ミナと一緒だから」
その言葉に、ロイドは返事をしなかった。
ルカが、少し屈んで二人と目線を合わせた。
「こんばんは、お嬢さんたち。僕はルカ。こっちはロイド。あっちの大きいのがバルド」
「おおきいの」
ユナがバルドを見上げた。
「そうだね。大きいね」
「パンくれた」
「そう。いい人でしょう?」
ユナは少し考えてから答えた。
「パンの人」
「……それはいい呼び名だね」
ルカは笑った。
ミナはまだ何も言わない。
ルカは無理に話しかけず、二人の前に小さな椀を置いた。
「夕飯、食べていく?」
ユナは椀を見た。
中には、薄いスープが入っている。具は少ないが、湯気が立っていた。
「お金は?」
「いらないよ」
「あとで払うの?」
「払わなくていい」
「ほんと?」
「ほんと」
ユナはミナを見た。
ミナは、ユナの手をぎゅっと握ったまま、椀を見つめている。
「食べたい?」
「……うん」
「じゃあ、食べよう」
二人は並んで椀を持った。
スープを飲むと、ミナの肩から少しだけ力が抜けた。
その様子を見て、ルカは静かに息を吐いた。
ロイドは、まだ迷っていた。
子どもが増えるたびに、食費も寝床も必要になる。今だって余裕はない。八人目どころか、四人目を引き受けた時点で、すでに計算は破綻している。
だが、目の前の二人を追い返す理由も見つからなかった。
「……今夜だけだ」
ロイドは言った。
「今夜だけ?」
ユナが顔を上げる。
「明日のことは、明日考える」
「明日になったら、出ていかなきゃいけないの?」
「まだ決めてない」
「ミナと一緒に?」
「当たり前だ」
その答えに、ユナは少しだけ安心したようだった。
ミナは、ユナの袖を握ったまま、スープを飲み続けていた。
*
その夜、双子はなかなか眠らなかった。
塔の中には、子どもたちの寝息が少しずつ増えていた。
エドとトムは布団を取り合い、リックは壁際で丸くなっている。サラは眠る前に何度も話しかけてきたが、いつの間にか静かになっていた。
双子には、古い毛布を二枚用意した。
ユナとミナは、その毛布の上に並んで座っている。
「眠れないのか」
バルドが声をかけると、ユナがうなずいた。
「ここ、知らないところだから」
「そうか」
「ミナが眠れないの」
ミナは何も言わなかった。
ただ、ユナの服を握っている。
「お前は?」
「ユナは平気」
「そうか」
「ミナが眠ったら、ユナも眠る」
バルドは少し考えた。
それから、二人の前に腰を下ろした。
「水、飲むか」
二人は首を横に振った。
「寒いか」
また首を横に振る。
「腹は」
「もういっぱい」
ユナはそう言って、少しだけ笑った。
バルドは、二人のそばに置かれた毛布を持ち上げた。
「ここにいる」
「どこに?」
「そこ」
バルドは、すぐ横の壁にもたれた。
「眠るまで」
ユナは不思議そうに彼を見た。
「お兄さん、寝ないの?」
「あとで寝る」
「ずっと?」
「眠るまで」
ミナが、初めてバルドの顔を見た。
「……いなくならない?」
小さな声だった。
バルドはすぐには答えなかった。
いなくならないと約束することが、どれほど難しいか知っていたからだ。
けれど、今この場所にいることなら、約束できる。
「今夜はいる」
ミナは、しばらく彼を見つめていた。
やがて、ユナの手を握ったまま毛布に潜り込む。
ユナも横になった。
「バルド」
「ん」
「明日もいる?」
「いる」
「明後日も?」
「たぶん」
「たぶんってなに?」
「明日になったら、また言う」
ユナは少し考えてから、納得したように目を閉じた。
ミナも、ようやく目を閉じた。
二人の呼吸がゆっくりと落ち着いていく。
バルドは壁にもたれたまま、しばらくその寝顔を見ていた。
小さな手が、まだ互いの服をつかんでいる。
眠っている間も、離れないように。
バルドは自分の膝に置いた手を見た。
大きくて、節くれ立っていて、細かい作業には向いていない手だ。
けれど、その手でパンを割ることはできる。
毛布をかけることもできる。
小さな子どもが眠るまで、そばにいることもできる。
それだけで、今夜は十分だった。
*
翌朝、ユナは目を覚ますと、真っ先にミナの顔を覗き込んだ。
「ミナ」
「……ん」
「ここ、まだいるよ」
ミナは目を開けた。
壁際には、バルドが座ったまま眠っていた。
ユナはそれを見て、少しだけ笑った。
「ほんとにいた」
ミナは毛布から出ると、バルドのそばまで歩いていった。
そして、彼の大きな手に小さな指を乗せた。
バルドはすぐに目を覚ました。
「どうした」
「おはよう」
「……おはよう」
ミナは少しだけ笑った。
その日から、双子はバルドのそばにいることが増えた。
バルドが水を汲みに行けば、ユナがついていく。バルドが薪を割れば、ミナが少し離れたところで見ている。食事のときには、二人とも彼の隣に座った。
バルドは特に何も言わなかった。
ただ、二人が食べやすいようにパンを小さく割り、スープの椀を近くに置き、寒そうなら毛布をかけた。
それだけだった。
けれど、子どもたちには、それで十分だった。
*
双子が来てから三日目。
ロイドは、寝床の問題に頭を抱えていた。
「もう無理だ」
「何が?」
ルカが尋ねる。
「寝る場所だ」
「床があるじゃないか」
「床は寝床じゃない」
「でも、今までも床で寝てたよ」
「そういう話じゃない」
塔の中は、すでに人でいっぱいだった。
壁際に並べた毛布。古い木箱を組み合わせた棚。食器や衣服、拾ってきた工具。子どもたちの荷物は少ないはずなのに、いつの間にか場所を取っている。
そして、双子が増えた。
小さな二人は一緒に寝るので、場所そのものは大きくない。だが、夜中に目を覚まして泣くことがあり、誰かがそばにいなければならなかった。
「俺が外で寝る」
バルドが言った。
「駄目だ」
ロイドは即答した。
「俺なら平気だ」
「平気かどうかの話じゃない」
「じゃあ、どうする」
「……考える」
ロイドは頭を抱えた。
ルカは、塔の天井を見上げた。
「上を使えばいいんじゃない?」
「上?」
「この塔、昔の点検用の足場が残ってるだろう。あそこを補強すれば、荷物くらい置ける」
「子どもが登ったら危ない」
「柵を作ればいい。寝床にするかどうかは別として、物置にできれば床が空く」
ロイドは少し考えた。
「材料は?」
「拾う」
「人手は?」
「僕たち」
「子どもは使うなよ」
「もちろん。子どもたちは、邪魔にならないところで応援してくれる」
「それは邪魔だ」
「ひどいなあ」
その日の午後、三人は塔の上部にある古い点検足場を調べた。
錆びた鉄骨は一部が歪んでいたが、完全に壊れているわけではない。補強すれば、軽い荷物を置く程度には使えそうだった。
ロイドが寸法を測り、ルカが使えそうな板を選び、バルドが重い鉄材を運ぶ。
作業は思ったよりも順調だった。
ただし、下から子どもたちの声が絶えず聞こえてくる。
「ロイドー! それなにー!」
「見ればわかるだろ!」
「わかんないから聞いてるんだよ!」
「トム、近づくな!」
「近づいてない!」
「近づいてる!」
エドの声が続く。
「トム、そこに立つな。落ちてくるぞ」
「落ちてこないよ!」
「落ちるから言ってるんだ!」
サラが、その横で大きな声を上げた。
「ユナ、ミナ、こっち来て! お手伝いするの!」
「おてつだい!」
「ミナも!」
「お前たちは手伝わなくていい!」
ロイドが叫ぶ。
ルカは笑いをこらえながら、鉄板を固定した。
「にぎやかになったね」
「うるさくなっただけだ」
「同じことだよ」
そのとき、足元で小さな声がした。
「バルド」
見ると、ミナが階段の下から顔を出していた。
「どうした」
「これ」
手には、錆びた小さな金具が握られている。
「拾った」
「そうか」
「使える?」
バルドは金具を受け取った。
曲がってはいるが、留め具としてなら使えそうだった。
「使える」
ミナの顔が明るくなる。
「ほんと?」
「ああ」
ユナも駆け寄ってきた。
「ユナも拾った!」
彼女が差し出したのは、ただの石だった。
バルドは石を受け取った。
「……これは」
「きれいでしょ!」
「ああ」
「使える?」
「使えない」
「えー!」
ユナは頬を膨らませた。
バルドはその石を、足場の端に置いた。
「でも、ここに置ける」
「ほんと?」
「目印にする」
ユナは嬉しそうに笑った。
ミナも隣で笑った。
ロイドはその様子を見て、作業の手を止めた。
子どもたちが拾ってくるものは、役に立つものばかりではない。
けれど、役に立たないものを捨てずに置いておく場所くらいは、あってもいいのかもしれない。
*
数日後、マルクは仕事を見つけた。
市場の端にある小さな修理工房だった。運搬と掃除が中心で、まだ給金は少ない。けれど、住み込みではなく、仕事が終われば帰ってこられる。
マルクは、ロイドにその話をした。
「ここを出るつもりか」
「はい。いつまでも世話になるわけにはいかないので」
「サラはどうする」
「……本人が、ここにいたいと言っています」
「そうか」
ロイドは、少しだけ視線を動かした。
少し離れたところで、サラがユナとミナに何かを教えている。
彼女はここに来てから、よく笑うようになった。眠る前に泣くことも減ったし、食事のときに周囲を気にすることも少なくなった。
ここが、自分の居場所になり始めているのだろう。
「お前はどうしたい」
ロイドが尋ねた。
「妹には、ここにいてほしいです。でも……僕も、いつか自分の家を持ちたい」
「そうか」
「仕事が休みの日には、会いに来てもいいですか」
「当たり前だ」
ロイドは短く答えた。
「ここは、来るなと言う場所じゃない」
マルクは、少し驚いたように目を見開いた。
それから、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいらない。サラに言え」
その夜、マルクはサラに話をした。
サラは最初、黙って聞いていた。
それから、少しだけ唇を尖らせた。
「お兄ちゃん、行っちゃうの?」
「仕事に行くだけだよ。ここから遠くない」
「毎日帰ってくる?」
「毎日は難しいかもしれない。でも、会いに来る」
「約束?」
「約束」
サラはしばらく考えていた。
やがて、マルクの服をつかんだ。
「じゃあ、サラもここで待ってる」
「うん」
「でも、帰ってきたら一緒にごはん食べてね」
「もちろん」
サラは、ようやく笑った。
翌朝、マルクは小さな荷物を持って出ていった。
彼が何度も振り返るので、ロイドは少し苛立った声で言った。
「仕事に遅れるぞ」
「はい!」
「サラはここにいる。心配するな」
マルクは深く頭を下げた。
それから、今度こそ前を向いて歩き出した。
サラは、彼の姿が見えなくなるまで入口に立っていた。
その隣には、ユナとミナがいた。
「お兄ちゃん、帰ってくる?」
ユナが尋ねた。
「帰ってくるよ」
「ほんと?」
「うん。約束したもん」
サラはそう言って、二人の手を握った。
ミナは少しだけ不安そうにしていたが、ユナが握り返すと、安心したように笑った。
その様子を、バルドは少し離れたところから見ていた。
*
双子が来てから、二週間が過ぎた。
ユナは、塔の中を走り回るようになった。
ミナはまだ知らない人が来ると隠れてしまうが、ここにいる人たちには少しずつ慣れてきた。
特にバルドには、すっかり懐いていた。
バルドが食事を作っていると、ミナはそばに座って野菜を見ている。ユナはその周りをぐるぐる回り、何度も質問をする。
「バルド、これはなに?」
「芋」
「こっちは?」
「芋」
「こっちは?」
「……芋」
「みんな芋なの?」
「ああ」
「すごいね!」
何がすごいのか、バルドにはよくわからなかった。
けれど、ユナは満足そうだった。
ミナは切り分けられた芋を見て、小さく言った。
「おいしそう」
「食べるか」
「まだ?」
「まだ」
「いつ?」
「できたら」
ミナは、鍋をじっと見つめた。
その隣で、バルドは火加減を調整する。
少しして、ユナが尋ねた。
「バルドは、どうして大きいの?」
「……大きくなったから」
「どうやって?」
「食べた」
「いっぱい?」
「ああ」
「じゃあ、ユナもいっぱい食べたら大きくなる?」
「なる」
「ミナも?」
「なる」
ユナは嬉しそうにミナの方を向いた。
「じゃあ、いっぱい食べようね!」
ミナは少し困ったように笑った。
「ユナ、いっぱい食べすぎるとお腹痛くなるよ」
「ならないよ!」
「なるよ」
「ならない!」
バルドは、二人の前に小さな皿を置いた。
「食べすぎるな」
「はーい!」
返事だけは元気だった。
その日、二人はいつもより少し多く食べた。
*
ある夜、ミナが泣いた。
きっかけは、ほんの些細なことだった。
ユナがトムと遊んでいて、少し離れた場所へ走っていった。
いつもなら、ミナも一緒についていく。
けれど、その日は違った。
ミナは足元に落ちていた小さな木片を拾っていた。ほんの数秒、目を離しただけだった。
顔を上げたとき、ユナの姿が見えなかった。
「……ユナ?」
返事がない。
「ユナ?」
ミナは立ち上がった。
塔の中を見回す。
どこにもいない。
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
「ユナ……?」
声が震える。
近くにいたエドが気づいた。
「どうした?」
「ユナが……」
「ユナなら、トムと外にいるよ」
「いないの」
「え?」
「いない……!」
ミナは泣き出した。
エドは慌てて入口へ走った。
その声を聞いたロイドが外へ出る。
ユナはすぐに見つかった。
トムと一緒に、塔の裏で小石を並べて遊んでいた。
「ユナ!」
ミナが駆け寄る。
ユナは驚いて振り返った。
「ミナ?」
ミナはそのままユナに抱きついた。
「いなくなったと思った……!」
「え?」
「いなくなったと思ったの!」
ユナはしばらく固まっていた。
それから、ミナの背中に手を回した。
「ごめんね」
「離れないで……」
「うん」
「ひとりにしないで……」
「うん。ごめんね」
ユナも泣き始めた。
トムは困った顔で二人を見ていた。
「別に、どこにも行ってないじゃん」
「トム」
ロイドが低い声で呼ぶ。
「な、なに」
「少し黙ってろ」
トムは口を閉じた。
その夜、双子は毛布の中で抱き合っていた。
バルドが様子を見に行くと、ミナはまだ目を開けていた。
「眠れないか」
ミナは小さくうなずいた。
「ユナが、いなくなるのが怖い」
「そうか」
「ユナは、どこにも行かないって言ったけど……」
「うん」
「でも、いなくなったらどうしよう」
バルドは二人のそばに座った。
「ユナは、ここにいる」
「……うん」
「俺もいる」
ミナは彼を見た。
「バルドも?」
「ああ」
「ずっと?」
バルドは少し考えた。
それから、静かに答えた。
「明日もいる」
「明後日も?」
「ああ」
「その次も?」
「いる」
ミナは、ゆっくりと目を閉じた。
ユナが眠ったあとも、ミナはその手を離さなかった。
バルドは、二人の毛布を整えた。
そのとき、ユナの寝言が聞こえた。
「……ミナ、いるよ」
眠っているのに、妹を探している。
バルドは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
*
翌朝、ロイドは双子を呼んだ。
「二人とも、ちょっと来い」
ユナとミナは、並んで彼の前に立った。
ロイドは少し困ったような顔をしていた。
「話がある」
「なに?」
「ここに住むかどうかだ」
ユナの手が、ミナの手を握る。
「……住んでいいの?」
「条件がある」
「条件?」
「危ないところに勝手に行かない。塔の外へ出るときは、誰かに言う。食べ物を隠さない。困ったことがあったら、言う」
ユナは真剣な顔で聞いていた。
ミナは、ロイドの言葉をひとつずつ確かめるように見つめている。
「それだけ?」
ユナが尋ねた。
「それだけだ」
「ミナと一緒にいていい?」
「当たり前だ」
「ずっと?」
「……ここにいる間はな」
ロイドは、少しだけ言葉を選んだ。
「明日のことは、誰にもわからない。けど、今日ここにいていい。明日も、ここにいていい」
ユナは、ミナを見た。
ミナもユナを見た。
二人は手を握り合ったまま、小さくうなずいた。
「じゃあ、いる」
ユナが言った。
「ミナも」
ミナも言った。
「そうか」
ロイドは、それだけ答えた。
ルカが横から口を挟む。
「歓迎するよ。ここは狭いけど、食事は一緒にできる。寝床も、まあ、なんとかなる」
「ルカ、それは俺が考える」
「じゃあ、僕は食事を考える」
「お前は買い物を考えろ」
「それなら得意だ」
バルドは、二人の頭に手を置いた。
ユナは嬉しそうに笑った。
ミナは少しだけ照れたように、目を伏せた。
その日、排水塔に新しい毛布が二枚増えた。
そして、古い食卓の端には、小さな椀が二つ並ぶようになった。
*
夜。
子どもたちが眠りについたあと、ロイドは入口の外で風に当たっていた。
ルカが隣にやってくる。
「眠れない?」
「お前こそ」
「僕は寝る前に髪を整える習慣があるからね」
「夜中に誰に見せるんだ」
「自分に」
ルカは髪を指で梳いた。
しばらく、二人は黙っていた。
やがてロイドが言った。
「また増えたな」
「うん」
「八人だ」
「僕たちを入れたら十一人だね」
「食費がどうなる」
「明日、安い芋を探すよ」
「服も必要だ」
「古着屋に話をつけてみる」
「寝床も」
「足場を補強しよう」
ロイドは、ため息をついた。
「お前、簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
ルカは、少しだけ笑った。
「でも、どうにかするんだろう?」
「……ああ」
「じゃあ、どうにかしよう」
ロイドは返事をしなかった。
塔の中から、子どもたちの寝息が聞こえてくる。
その中に、時々、小さな声が混じる。
ユナの寝言。
ミナの寝返り。
サラの笑い声のような寝息。
トムのいびき。
リックの静かな呼吸。
エドが誰かに毛布をかけ直す気配。
バルドは、子どもたちの近くで眠っているのだろう。
ロイドは、塔の古い壁に手を置いた。
この場所は、家と呼ぶにはあまりにも壊れている。
屋根は歪み、床は冷たく、雨が降れば水が漏れる。冬になれば隙間風が吹き込む。いつ壊れてもおかしくない。
それでも、子どもたちはここで眠る。
明日の朝も、ここで目を覚ます。
誰かが起きて、火を起こす。
誰かが水を汲む。
誰かがパンを買いに行く。
誰かが泣いて、誰かが笑う。
そうやって、一日が始まる。
「ロイド」
ルカが呼んだ。
「何だ」
「ここ、家みたいだね」
ロイドは、すぐには答えなかった。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……まだだ」
「そう?」
「ああ。屋根も直ってない。床もひどい。寝床だって足りない」
「じゃあ、家になるまで直そう」
ルカはそう言って、塔の中へ戻っていった。
ロイドはもう一度、壁を見た。
直すところなら、いくらでもある。
足りないものも、いくらでもある。
けれど、ここに帰ってくる子どもたちがいる。
それなら、直す理由は十分だった。
ロイドは扉を閉めた。
その夜、排水塔には八人の子どもたちの寝息があった。
まだ、家族と呼ぶには不器用で。
まだ、帰る場所と呼ぶには頼りなくて。
それでも二人の小さな姉妹は、初めて同じ毛布の中で安心して眠っていた。
ふたりでひとつだった帰る場所が、少しずつ広がっていく。
その場所には、明日の朝もきっと、パンの匂いがする。




