第30話 聖女が必要な理由
翌朝の防衛区は、妙に静かだった。
戦闘のない朝という意味ではない。
むしろ逆だ。
補給班が走り、医療班が寝不足の顔で担架を押し、技術班は夜通し解析した残骸を抱えて移動し、前線では鉄板の補修音が止まらない。
人も音も多い。
それなのに“静か”に感じるのは、皆が余計なことを喋る余裕を失っているからだろう。
新宿外縁線はまだ立っている。
だが、立っているだけでもう限界に近い。
恒一は、地下会議区画の長机に並べられた報告書を見ながら、重く息を吐いた。
「……数字で見ると、きついな」
資料の一枚には、前日までの損耗がまとめられていた。
負傷兵数。
重傷者数。
使い切った弾薬。
消耗した発電燃料。
医療資材の残量。
通信設備の稼働率。
避難民の栄養状態の推移。
どれも、派手に崩壊しているわけではない。
だが全てがじわじわと削られている。
その“じわじわ”こそが、一番厄介だった。
「火力で勝っても、消耗で死ぬ」
榊原玲奈が端末を抱えたまま言う。
「嫌な言い方だな」
木村三曹が顔をしかめる。
「でもその通りでしょ」
「否定はできん」
玲奈はホワイトボード代わりのパネルへ数値を書き込んでいく。
「第二波、別働隊、夜間高位個体狩り、対異世界戦力用個体との接触。ここ数日で負荷が一気に跳ね上がった」
「うん」
雫が椅子に浅く腰かけたまま頷く。
「みんな普通に動いてるように見えるけど、たぶんかなり無理してる」
「その通り」
真田一佐が低く言う。
「兵も民も、“まだ持つ”で回しているだけだ」
会議区画には、いつもの面子が揃っていた。
恒一。
セレフィア。
リュミエル。
玲奈。
真田一佐。
木村三曹。
雫。
そして机の上には、防衛区全体の消耗だけでなく、敵の新型個体の分析結果まで積み上がっている。
リュミエルが、その資料の一つをつまみ上げた。
「問題はここ」
彼女が言う。
「敵の対異世界戦力用調整は、火力の受け方だけじゃない」
「精神撹乱ノイズか」
恒一が聞く。
「ええ」
玲奈が頷く。
「高位個体の深部ログに、微弱だけど“直接殺すためじゃない揺らぎ”が混ざってる」
「もっと分かりやすく」
木村三曹が言う。
玲奈は少し考え、言い換えた。
「戦場の人間を鈍らせる、削る、揺らすための嫌な波」
「嫌な波って雑だな」
恒一が言う。
「でも雑にしか言えないのよ、まだ」
玲奈は肩をすくめる。
「直接幻覚を見せるとか、そういう派手なものじゃない。集中の乱れ、疲労の増幅、不安の底上げ。長期戦で地味に効くタイプ」
「……本当に嫌らしいな」
恒一が顔をしかめる。
セレフィアも静かに頷いた。
「戦場で最も厄介なのは、刃よりも心を鈍らせるものです」
「こっちの世界でも同じね」
リュミエルが言う。
「そして、そういうものに一番効くのは」
「聖女、ですね」
セレフィアが続けた。
その一言で、会議区画の空気が少しだけ定まる。
ミレーネ。
異世界最強パーティーの聖女。
回復、結界、浄化、精神安定、集団支援。
火力の一点突破ではなく、“戦場を持たせる”ことにおいては誰より重要な一人。
雫が小さく呟く。
「やっぱり、必要なんだ」
「火力だけじゃ戦争は回らない」
リュミエルが即答する。
「私が空を焼けても、兵の傷は塞がらないし、怯えた子供は眠れない」
「……」
「セレフィアが前線を切り開いても、防衛区全体の消耗は別問題。ここまでデータが揃えば、結論はかなり明快よ」
玲奈がペンを置いた。
「ミレーネが来れば、防衛区の“継戦能力”は一段上がる」
「継戦能力……」
雫が繰り返す。
「もっと単純に言えば、“もう少し長く壊れずに済む”」
玲奈が言う。
「それ、すごく大事だな」
木村三曹が低く言った。
「こっちは一日持つか二日持つかで、その先の選択肢が全部変わる」
真田一佐が地図の横へ、新しい紙を一枚置く。
防衛区内の医療リソース配分表だった。
赤字の数字が目立つ。
「医療資材の不足もある」
一佐が言う。
「だが、それ以上に人手が足りん。治療の速度、回復の速度、休養の質、その全てが間に合っていない」
「ミレーネならそこも変えられる」
恒一が言った。
ミレーネの力は単に傷を治すだけじゃない。
痛みを和らげ、疲労を抜き、結界で休息の質を底上げし、浄化で汚染やノイズを薄める。
つまり彼女は、“戦場そのものを少しマシにする”力を持っている。
「問題は順番だな」
真田一佐が言う。
「今すぐ第三召喚へ行くか、それとも先に中心部偵察か」
「そこなのよね」
玲奈が頷く。
ここで話は自然と次の論点へ移る。
敵中枢。
東京中心部。
地下深部の異常反応。
家族の避難ハブ記録。
全部が中心部方面へ繋がっている以上、いずれそこを見に行かなければならない。
だが、ミレーネ召喚を急げば、その準備と素材と防衛が必要になる。
同時に両方やるには、今の防衛区は脆い。
「いきなり本格攻略は無理」
玲奈が言う。
「でも、中心部を一度も見ないまま第三召喚に入るのも危ない」
「危ない?」
雫が聞く。
「だって敵中枢の実態が分からないまま、こっちだけ戦力を増やしても、向こうがその分学ぶかもしれないでしょ」
「なるほど」
木村三曹が顔をしかめる。
「つまり、今必要なのは」
「偵察」
リュミエルが言った。
「本格攻略じゃない。まず“何がいるか”を見に行く」
「その後に、必要ならミレーネ召喚」
セレフィアが続ける。
「順番としては、それが妥当でしょう」
恒一は腕を組み、少しだけ目を閉じた。
確かにそうだ。
ミレーネは必要だ。
防衛区を持たせるために、今後の攻略戦へ向けて、彼女の力は絶対に欲しい。
だが、その前に見るべきものがある。
東京中心部。
敵の心臓。
そして、家族の避難先と繋がるかもしれない地下の線。
「……先に見るべきだな」
恒一が言う。
「中心部を」
「ええ」
リュミエルが頷いた。
「覗くだけでも価値がある。敵中枢候補の輪郭、防衛の厚み、術式汚染の強さ、全部」
「戻ってこれる範囲で、だ」
真田一佐が釘を刺す。
「偵察隊の役目は生きて帰ることだ。英雄劇は要らん」
「誰に言ってる?」
玲奈が横目で恒一を見る。
「おい」
「でも言っといた方がいいでしょ」
「否定できないのが嫌だな」
雫がぼそっと言う。
その時、リュミエルが少しだけ机へ身を乗り出した。
「ただ、一つ先に言っておく」
「何だ」
恒一が聞く。
彼女の青紫の瞳が、真っ直ぐこちらを向く。
「中心部に入れば、今まで以上に“空気そのもの”がおかしい可能性が高い」
「空気?」
雫が首を傾げる。
「術式汚染に近いもの」
リュミエルが説明する。
「敵高位個体の中核に境界干渉の痕があるなら、その巣に近い場所ほど、空間の理屈そのものが歪んでるかもしれない」
「……つまり?」
木村三曹が聞く。
「機械だけが敵じゃなくなる」
リュミエルは言う。
「こっちの認識、通信、術式、場合によっては感情の揺れまで含めて、戦場そのものがまともじゃない可能性がある」
会議区画が静まる。
それは単に敵が強いとか数が多いとか、そういう話ではない。
戦う“場所”そのものが毒になるかもしれないということだ。
セレフィアがそれを受けて、静かに言った。
「ならなおさら、ミレーネが必要になりますね」
「ええ」
リュミエルも頷く。
「浄化、結界、精神安定。あの子はそういう“戦場そのものの悪意”を和らげるのが上手い」
「じゃあ結局、ミレーネは必須か」
恒一が言う。
「順番の問題よ」
玲奈が答える。
「必要性はもうかなり固い」
真田一佐が結論をまとめるように言った。
「よし」
その一言で、皆が視線を向ける。
「まずは中心部偵察の準備に入る。第三召喚――ミレーネ召喚は、その結果を見て最短で動く」
「了解」
木村三曹が頷く。
「人選は?」
「少数精鋭。次の会議で詰める」
「了解」
雫は少しだけ眉を寄せた。
「また危ないとこ行くんだね」
「そうだな」
恒一が答える。
「でも、今はそこを見ないと次が決められない」
「うん……」
彼女は納得しきってはいない顔だった。
それでも止めはしない。もう、この戦いがそういう段階じゃないと分かっているからだ。
玲奈が最後に、ホワイトボードへ大きく三つの丸を書いた。
中心部偵察
敵中枢確認
ミレーネ召喚準備
「次はこの三本柱で動く」
彼女が言う。
「火力だけじゃ勝てない。だから持久力も、浄化も、結界も全部要る」
「盛りだくさんだな」
恒一が言う。
「終末戦争だからね」
玲奈は平然と返した。
「欲張らないと死ぬの」
「嫌な真理だ」
「でも本当でしょ」
「……本当だ」
会議はそこで一度区切られた。
だが、恒一は立ち上がる前に、もう一度だけ資料の端へ目を落とした。
家族の避難記録。
中心部への線。
まだ細く頼りないが、確かにそこへ向かっている導線。
敵を止めるために。
家族の痕跡を辿るために。
その両方を抱えたまま、次は東京中心部を覗きに行く。
そして、その先に本当に待っているものが、敵の心臓だけなのか、それとも別の何かなのか――。
その答えは、まだ見えていない。




