植物園にて
ブリジットは学院長と共に王立学園へと向かった。予め、昨日のうちに予定は確認していた。植物園の中の研究室に入ると、レオナルド教授と助手のフロラン、それに植物学のウェスリー教授がいて、植物の種を前に話をしていた。
「おや、君は…」
植物学の教授はブリジットの顔を見ると不思議そうな顔をした。
「はい、西から留学に来ました竜のブリジットです。羊のウェスリー教授」
南での正式な挨拶は部族名と名前を呼ぶことで成立する。だが草食の部族の中には呼ばれることを良しとしない者も多くいる。部族名は肉食の部族こそ誇りに思う者も多いが、草食の部族は脆弱だと特に肉食の相手から言われた場合は下に見られていると捉える場合が多々あった。もちろん今回ブリジットはあえて試すためにそう呼んだ。わざわざ竜の雄である学院長を連れて竜である自分がそう告げる。脆弱な羊が嘘を言うなら食い殺す、そう脅しているにも等しいどこか不躾な挨拶だった。
「あ、あぁ…今日は突然…どうしたのかね」
教授は威厳を保とうとしたが、怯えを隠しきれずに目をしばたいた。隣にいたレオナルド教授まで二人が並んで立った姿には不穏な動悸がした。ところがフロランは昨日の触れ合いでブリジットの蔦に慣れてしまっていたのか竜の気配よりもそちらの気配を拾って全く怯えなかった。フロランは微笑む。むしろ植物との混血のフロランにとっては、ウェスリー教授のような草食の半獣人の気配の方が不安にさせられるのだった。故にフロランは学内における肉食と草食の部族の駆け引きにおいても他者とは違う反応をしてしまうため、彼の出自を知らない者はしばしば彼に対して空気を読めない変わり者だと言うのだった。彼は彼でそういった生きにくさをいつも体感していた。
「いえ…少々確認したいことがありまして。蛇のニーナのことで」
「…ニーナ…?彼女について私に?特に何も私は…彼女は私の講義を受講しているだけで、個人的には何も関係はないですよ…」
ウェスリー教授は首を横に振る。
「それはおかしいですね。ニーナの友人のリラから、ニーナがウェスリー教授に何度か居残りを命じられていたと聞いたのですが」
ブリジットがやや意地悪く言う。ニーナの日常の様子についてはジュディスやケリーがどんな些細なことでもいいからと、聞き取りを済ませていた。
「そ…それは…ニーナがぼんやりしていて講義を聞いていないように見えたから注意をしただけで、それ以外の関わりはない、そういう意味ですよ」
そこでレオナルド教授が中空にニーナの胸に刻まれた紋章を呼び出す。ウェスリー教授は素早く目を逸らした。
「これはニーナの胸に刻まれていた紋章を分解したものです。部族毎に…残念ながら猫科の部族が圧倒的に多く…昨日の部族会議で、関わった者は学園の処罰に従いニーナへは賠償金を支払うことが決定しました…金で解決するのかと言われればそれまでですが…」
ウェスリー教授はなぜかそれを聞くと驚愕したかのような表情を浮かべた。
「えっ…?なんと言いました?賠償金?三年前に赤狼たちが似たような事件を起こしたときには、被害者にも非があると…まともに取り合うことすらしなかったではありませんか!強い肉食の部族会議はいつだってご都合主義の改ざん…そうだったではありませんか!!」
ウェスリー教授は声を荒げて胸元を握りしめた。ハッとしたように教授は口をつぐむ。やがて教授は脱力すると大きなため息をついた。
「……羊のアグネス…私の姪は…それで…学園にも通えなくなり自殺しました。自らの角を折って…胸の紋章をその角でかき消して…あんな気の弱い子が…そんなことをするとは…思わなかった…」
ウェスリー教授は胸元を握る。血溜まりに倒れていたアグネスを見つけたときの自らの血の気が引く感覚を彼は今も忘れられなかった。
「ウェスリー教授…その首に下げているのは、アグネスさんの角なのではありませんか?私もジュディスも紋章に混じった真っ直ぐな線がどうしても解読できなかった…他の紋章を刻んだ者の顔をニーナは記憶しているのに、その直線を刻んだ者の顔は覚えていなかった…それは…ウェスリー教授、あなたが記憶を消したからではありませんか?」
ウェスリー教授は沈黙する。
「何のために…そんなことを?」
レオナルド教授が尋ねると、ウェスリー教授はとうとう観念したように口を開いた。
「最初は…ニーナが講義中にぼんやりしていたから注意しただけだった…でも何度注意しても毎回彼女はどこか上の空で…それで…紋章があることに気付いたんです…すでにその時ニーナは複数の紋章に囚われていて…私がそれをおかしいと言っても全く聞き入れませんでした…私はニーナがアグネスのようになってしまうのではないかと恐れた…恐れるあまり私は…アグネスの話をニーナに聞かせて…そうしたらニーナは…私がアグネスの角を持っていると知って…その角で…自分に紋章を刻んでみてほしいと言ってきたんです…私はどうかしていた…それに途中で彼女が痛みで正気に戻るはずだと思っていたんです…なのに…ニーナはずっと微笑んでいて…私は怖くなって止めました…そして、そのときの記憶を消した…ニーナはすでに…狂っている…あの微笑みで他の雄も魅了したのだと…私はそう思うことで記憶に蓋をした…ニーナが…怖かったのです…」
ウェスリー教授は両手で顔を覆った。
「ウェスリー教授がニーナにそうしたとき…ニーナはすでに複数の半端に刻まれた紋章の支配下にあったから教授にはニーナが正気を保っていないように見えた…だが、脱皮したニーナは少しその紋章の支配から逃れることができた。ニーナは紋章を全て消したい、ジュディスにそう言った。今その紋章はジュディスが消している…」
学院長が静かに告げる。ウェスリー教授は力なくうなだれた。
「そう…ですか…私は…なんてことを…してしまったんだ…救うはずが…逆に傷付けて…恐れて…」
草食の半獣人で番に紋章を刻む者はほぼいない。雑食の半獣人で半々、やはり圧倒的に多いのが肉食の半獣人でその最たるものが満月に影響を受ける狼の半獣人だった。狼はその血筋を守る傾向が強いため、全身を獣の姿に変えられる者が多い。血の濃い種族に紋章を多く刻む傾向が強く、ウェスリー教授のような羊が紋章を刻むのはほぼないに等しい。だがこうして他の雄のつけた紋章に誘発されて刻むことが稀にある。今回の事件がまさにそれだった。
「ウェスリー教授…アグネスさんのことを思うなら…その角は弔うべきだと思います…あなたにとって…アグネスさんがただの姪ではなく…とても大切な人だった…そうだったとしても…です。南には大切な番の一部を所有する風習があると…私は聞いたことがあります…時代が変わって姪と叔父との婚姻関係は認められなくなった…ウェスリー教授の無念も…理解できます…ですが、このままでは教授はいつか向こう側に引かれる…アグネスさんはそれを望んではいません…」
ブリジットが静かに告げる。ウェスリー教授は涙を流した。こんなことになるならアグネスに恨まれてもいいから自分の手で奪ってしまえば良かったとすらずっと思っていた。アグネスを死に追いやった者たちが憎かった。それ以上に何もできずに手をこまねいていた自分が一番情けなく憎かった。
「…ニーナは…あの子は…助かりますか?誰かがきちんと…あの子の番になって…この先…守ってやることができますか?」
「それに関しては…我が学院のケリーが番になると申し出たので安心してほしい。ニーナも魔力の強い子だから他の雄は番になれなかったのだろうと想像しているが…ケリーはニーナよりも強い蛇の属性と魔力を持っている。今はむしろその魔力の大半を封じている状態だからニーナの相手としては申し分ないと…私は思っている…」
学院長が告げる。レオナルド教授は研究室の片隅にあった鉢を持ってきた。
「ウェスリー先生、アグネスさんの角をこの鉢に入れて、低木を育てませんか?樹木葬です。苗木は幾つか候補がありますから、先生のお好きなものを選んで下さい。そうすれば…誰かを傷付けることもなく側に置いておけます…」
フロランが小さな鉢に入った苗木をいくつか持って現れるとウェスリー教授の前に並べた。ウェスリー教授は首からそっとアグネスの角を外す。教授は愛おしいといった風にその角を撫でた。
「あぁ…それがいいです。私は…植物学の教授ですから…」
ウェスリー教授は小さく呟く。
「ニーナの記憶を教授が消したことは、この場のみの話としましょう。広めてもいいことはありません。ニーナも教授も…お互いの傷が深まるだけです。ニーナが紋章を消して戻ってきたらまた一人の学生として向き合ってもらえたらと…私はそう思います」
ブリジットはそう言って頭を下げる。ウェスリー教授は角を鉢の中にそっと置くと土を被せた。そこに選んだ苗木を土ごと移し鉢の周りにも土を入れる。二人の竜が見守る中、小さな苗木を植えた大きな鉢が出来上がった。ブリジットが鉢に向けて手を伸ばす。祈りを捧げたのだとウェスリー教授は分かった。教授は再び涙を流す。彼は三年間人知れず抱えてきたやり場のない思いにようやく出口が見つかったような気がした。




