『犠牲と偽聖』第三部
第一章 核
2月のまだ冷たい風は、古都日生駅前の飲み屋街を吹き抜けていく。夕暮れ時、居酒屋の看板に灯が入り始め、客引きたちが寒そうに肩をすぼめて歩道に立ち始める頃、ガールズバー「♡ライミス♡」の店内は、まだ営業前の静寂に包まれていた。
私はカウンターの奥で、冷たい水に手を浸しながら、布巾でグラスを磨いていた。キュッ、という乾いた音が、無機質な蛍光灯の下で低く響く。
「ねぇ、星野さん。あの子、どう思う?」
私は隣で手際よくレモンをスライスしている星野さんに、顔を向けずに囁いた。星野さんはこの店で一番の古株で、良くも悪くも男を見る目が肥えている。彼女は包丁を動かす手を止めず、店の入り口にあるボックス席を観察した。そこではマネージャーの次元さんが、募集を見てやってきたという新人の面接をしていた。
「んー。正直、あんまり可愛くないね」
星野さんの声は、レモンを断つ音と同じくらい淡白だった。私も密かに、同じ感想を抱いていた。
地味、という言葉がこれほどしっくりくる子も珍しい。重めの前髪で顔の半分が隠れそうな、どこにいるかも分からないような影の薄さ。私や星野さんのような、夜の照明に映えるように計算された派手なメイクの中に放り込まれると、そこだけぽっかりと色が抜けているみたいに見えた。
次元さんの、事務的で落ち着いたトーンの声が店内に流れてくる。
「うん、履歴書はこれね。ありがとう。これ名前は、ココアでいいの?源氏名どうする? 本名のまま使う子もいるけど、まあ、うちはだいたいみんな別かな」
「コア、でいきます。その方が呼びやすいかなって」
「コア、ね。了解。じゃあ、今週中に採用か不採用か電話するから。今日は帰っていいよ。寒い中わざわざありがとね」
「はい。失礼します。ありがとうございました」
彼女は深々と頭を下げて、店を出ていった。重い防音扉がバタンと閉まり、カチリと鍵が掛かる音が響く。私は磨き終えたグラスを棚に並べ、カウンター越しに次元さんに声をかけた。
「次元さん、不採用ですよね?あの感じじゃあ。うちの店、もう少しノリがいい子の方がいいんじゃないですか? あの子、暗いっていうか」
次元さんは手に持った履歴書をトントンと机で整え、眼鏡の奥の目を細めた。
「まあ、華はないな。接客向きかって言われれば微妙だ。でもさ、ああいう地味なタイプの方が、変にプライドがなくてシフトの融通が利いたりするんだよ。それに、意外とこういう子が化けることもある。人手不足だし、いったん採用して様子を見てみるよ」
「化けるかなぁ」
星野さんが鼻で笑い、切り終えたレモンを保存容器に詰め替える。
「まあ、次元さんがそう言うならいいけど。私たちの売上に響かない程度に教育してよね」
それから数日が過ぎた。
週末の金曜日。街が解放感とアルコールの匂いで浮き立ち始める夜、ライミスの扉が開いた。
「こんばんは。今日からお世話になります、コアです」
入ってきたのは、あの日と同じ、地味な服装の少女だった。次元さんが「お、よろしく」と短く応じ、カウンターの端から彼女を招き入れた。
「こっち。ここがバックヤード。荷物はそこのロッカーに入れて。これ、うちの制服。サイズはたぶんMで大丈夫だと思うけど、一回合わせてみて」
次元さんは棚から丁寧に畳まれたピンクの制服を出し、彼女に手渡した。コアはそれを両手で恭しく受け取ると、次元さんの後を追って店の奥へと消えていった。
「ここが着替え。あっちが従業員用トイレ。水道の出し方は…」
次元さんの説明する声が、カーテン越しに低く聞こえてくる。数分後、店の制服に着替えて出てきた彼女は、慣れなそうな制服で少し足元をふらつかせながら、私たちの前までやってきた。
「鏡、あっちにあるからチェックしてね」
次元さんに促され、彼女は大きな全身鏡の前に立った。そこには、地味な私服を脱ぎ捨て、どこにでもいる新人の女の子になりきった彼女が写っていた。彼女は自分の姿をじっと見つめ、それから私たちの前でまた丁寧に頭を下げた。
「これから、よろしくお願いします」
その瞳には、店のネオンが吸い込まれるように反射していたが、感情の動きは一切読み取れなかった。
第二章 開花
コアが働き始めてから、一週間が過ぎた。夜職未経験、それもあの地味な風貌だ。最初はグラスの扱いひとつ、おしぼりの出し方ひとつ取っても、私や星野さんが手取り足取り教えることになるだろうと踏んでいた。
けれど、彼女は驚くほど物覚えが良かった。
「コアちゃん、ちょっとあっちのヘルプ入って。ボムさんね」
週末の忙しい時間帯、私はカウンターの端で手持ち無沙汰にしていたコアに指示を出した。
ボムさんは星野さんの大事な常連客だが、あいにく星野さんは今、別の太客の相手で手が離せない。
「あのお客さんは、星野さん推しだから。あんまりぐいぐい行っちゃダメだよ。ボムさんが、飲みなよって言ってくれたら頂いていいから。基本は聞き役に徹してね」
「わかりました。失礼します」
コアは小さく頷き、ボムさんの前へ移動した。私は自分の客と話しつつ、視界の端で彼女の動きを追っていた。
ガールズバーのヘルプというのは、実は一番難しい。自分の売上にはならないし、かといって手を抜けば指名キャストに顔を潰されたと怒られる。でも、コアの立ち回りは完璧だった。
彼女は、ボムさんが話し出すまで余計な口を挟まない。グラスの水滴を拭うタイミング、灰皿を替える所作。どれもが星野さんの接客リズムを壊さないよう、驚くほど丁寧に、かつ控えめに行われていた。
やがて星野さんが席に戻ると、ボムさんは嬉しそうに目尻を下げた。
「お、星野ちゃん、お帰り。この新人さん、いい子だね。気が利くよ。おかげで寂しくなかった」
「あはは、本当?ボムさん、コアちゃんのこと気に入っちゃったんだ」
星野さんが茶目っ気たっぷりに応じると、ボムさんは満足げに頷き、そこからさらに一時間ほど星野さんとの会話を楽しんでから、上機嫌でチェックを求めた。
「次元さん。コアちゃんの分もドリンク何杯かつけといて。頑張ってたからさ」
一円の得にもならないヘルプで、客側からドリンクを飲ませたいと言わせる。それは立派な才能だった。
「コアちゃん、すごいじゃん。ボムさん、意外と神経質で新人のこと認めないのに。助かっちゃった」
営業終了後の片付け中、私は彼女を素直に褒めた。コアは謙遜するように俯き、シンクでグラスを洗っていた。
「いえ。でも、今日のお店全体の数字、すごかったですね。ボムさんの精算、五万八千円でしたよね? 他にも、シュリさんは一万二千円、ユウダンさんは三万超えてましたし」
彼女がさらりと口にした数字を聞いて、私は手を止めた。
「え、コアちゃん。今日の全部覚えてるの?」
「はい。次元さんがレジを打ってる時に、なんとなく見えちゃって。あの、私、こういう数字を覚えるのだけは得意なんです」
私は思わず、すごいねと笑ってしまった。夜の世界では、客を金としてシビアに見れるのは欠点ではなく、むしろ強みだ。誰がいくら落とすか、店の平均単価がいくらか。それを初動で把握できるなら、彼女はこの仕事に誰よりも向いているかもしれない。
「それ、才能だよ。誰が太客か分かってれば、力の入れどころも分かるしね。コアちゃん、意外とこの仕事、天職かもよ」
「本当ですか? クララさんにそう言ってもらえると、嬉しいです」
コアは顔を赤らめて、はにかんだ。その表情は、どこからどう見ても、先輩に褒められて舞い上がっている純朴な後輩のそれだった。事務所から出てきた店長の雨田さんも、ニコニコした顔で合流した。
「次元から聞いたよ。コアちゃん、初動にしては異常に馴染んでるってな。ボムさんも、コアちゃん居る時にまた来るって言ってたらしいじゃないか」
「ありがとうございます。クララさんの教え方が上手いからです」
コアは私を立てることまで忘れなかった。雨田さんは満足げに鼻歌を歌い、次元さんもまた、眼鏡を拭きながら小さく頷いていた。
私は、隣で控えめに微笑んでいるコアを見ながら、本当に良い新人が入ってくれたと、頼もしい後輩の登場を素直に喜んだ。
第三章 警告
コアが入ってから二ヶ月が経つ頃には、店内の空気は少しずつ、確実に変質していた。
最初は、物覚えの良い新人だった彼女は、いつの間にかライミスになくてはならない存在になっていた。特に店長の雨田さんは、コアがシフトに入っている日の売上が安定することに味を占め、彼女を露骨に重用し始めていた。
「クララ、ちょっといい?」
閉店後。片付けを終えてエレベーターに向かおうとした私を、星野さんが呼び止めた。
営業用の笑顔を消した彼女の顔が、非常灯の薄暗い光の下で、見たこともないほど険しい。私たちは客に見られないよう、非常階段の踊り場へと移動した。鉄の冷気が、足元からじわじわと這い上がってくる。
「コアのことなんだけどさ」
星野さんは声を潜め、確信に満ちたトーンで話し出した。
「あの子、やっぱりちょっとおかしいよ」
「え、何が? 仕事も早いし、店長も喜んでるじゃない」
私は努めて明るく返したが、星野さんは首を横に振った。
「私のボムさんだけじゃないの。デイジーちゃんの指名の刈田さんも、最近お店に来てもずっとコアのことばっかり見てる。昨日なんて、ウランちゃんが席を外した隙に、コアが連絡先を交換してるのを見かけたって子がいて」
私は息を呑んだ。
「それ、本当なら爆弾じゃない。次元さんに言ったの?」
「言ったよ。でも次元さんは、コアはそんなことする子じゃないし、客が勝手に渡してきただけだろって。完全にあの子の味方なの。在庫確認もレジ締めも、全部コアを横に置いてやってる」
星野さんは、苛立ちを隠すように腕を組んだ。
「それだけじゃない。最近、他の子の客からも変な話を聞くの。コアに個人的な相談をされてるって。お父さんの法事でお金が必要だとか、実家の借金がどうとか。菜葉ちゃんの客なんて、コアに個人的に十万振り込んだって自慢してたらしいよ」
「十万? それ、直引きじゃない。バレたら即クビだよ」
「そう。でも、あの子は上手くやってる。客の方から、助けてやりたいって思わせるのが異常に上手いの。クララ、あんたお人好しすぎるよ。あの子が数字に強いのは、客を大事にしてるからじゃない。客が今、自分にいくらまでなら自由に出せるかを計算してるだけ」
星野さんは一歩私に近づき、私の肩を強く掴んだ。その手は少し震えていた。
「クララ、あんたは私が一番信頼してるし、変なことに巻き込まれてほしくない。あの子が入ってから、お店の健全な空気が壊れ始めてる。次元さんがあの子に甘いのも、何か弱みでも握られてるんじゃないかって気がするの。あんたも、コアの言うことを全部信じちゃダメだよ」
「わかった。気をつける。星野さんも、あまり無理しないで」
私の言葉に、星野さんはようやく少しだけ表情を和らげた。
「ごめんね、怖がらせるようなこと言って。でも、本当に嫌な予感がするんだ。今日はもう帰ろう。明日も早いしね」
私たちは連れ立ってエレベーターに乗り、一階の出口へ向かった。
ビルの外へ出ると、冷たい夜風が頬を打つ。
「じゃあね。また明日」
「お疲れ様です」
駅の方へ向かう彼女の背中を見送りながら、私は自分の胸のざわつきを抑えられなかった。
コアが客から個人的に金を預かっている。もしそれが本当なら、この店はもう、私が知っていたライミスではなくなっている。
ふと振り返り、ビルの三階を見上げた。まだ明かりがついているはずの窓から、いつものピンク色のネオンが微かに漏れている。
あの中で今、コアと次元さんが二人きりで残務処理をしているはずだ。次元さんが、あれほど信頼していたマネージャーが、本当にコアに盲目になっているのだとしたら。
私は逃げるように、駅の改札へと足を早めた。
第四章 生贄
三月。別れと出会いの季節だというのに、古都日生駅前の飲み屋街を吹き抜ける風は、湿っていて重い。卒業や転勤の喧騒で活気づくはずの街の中で、ライミスの店内だけは、どこか腐敗した果実のような、甘ったるく不穏な空気が漂っいた。
異変は、店長の雨田さんが店に顔を出す頻度が、目に見えて減ったことから始まった。
「店長、今日も来ないんですね」
開店準備中、私は次元さんに尋ねた。以前は毎日、営業開始前にはカウンターの端でスポーツ新聞を広げ、私たちに今日も頑張れよと、どこか呑気な発破をかけていたはずの店長の指定席は、もう二週間近く空いたままだ。
「ああ。最近は別の事業が忙しいらしくてな。現場の運営については、すべて僕が任せられることになった」
次元さんは帳簿をめくりながら、感情の抜けた声で答えた。返事こそ以前と同じように丁寧だが、その横顔は驚くほどこけていた。几帳面だったはずのワイシャツの襟元は黄ばみ、眼鏡の奥の瞳はどこか焦点が合わず、時折何かに怯えるように入り口の防音扉を振り返る。
その姿はマネージャーではなく、何か人間の見てはいけない部分を見ているようだった。
そして、給料日。事務所で手渡された封筒の中身を確認した私は、指先から血の気が引いていくのを感じた。
「次元さん。これ、計算が合いません。私の売上から算出される歩合、削られてますよね?」
「今月からシステムが変更になったんだ。歩合の比率が60%から30%に。文句があるなら、店長に直接言ってくれ」
「連絡がつかないから聞いてるんです!こんなの、あまりにひどいです。みんなの生活がかかってるんですよ」
私が声を荒らげると、次元さんはゆっくりと顔を上げ、濁った瞳で私を射抜いた。
「クララ。君、遅刻した日のペナルティ、僕が帳消しにしてあげたよね。あれ、今から遡ってすべて徴収してもいいんだよ? それとも、前の店での君の評判、店長に報告した方がいいかな」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。それは次元さんに、貸しを作られた瞬間であり、同時に逃げ道を塞がれた瞬間だった。彼はそうやって、私たちが店長に直談判する勇気を、小賢しい温情と脅しを織り交ぜた鎖で奪っていたのだ。
営業終わり、星野さんが私の腕を強く掴み、非常階段の踊り場へと引き釣り込んだ。コンクリートの壁に反射する彼女の顔は、かつてないほど険しく、その瞳には焦燥の色が滲んでいた。
「クララ、聞いて。私、見たの。さっき、バックヤードの隙間から。次元さんが、レジから抜いた売上のお金をそのままコアのバッグに直接入れてた。あの子、次元さんを完全に壊して、店の金を吸い上げてるかも」
星野さんの声が、湿った夜気に震えている。
「もっと最悪なのは、店長よ。雨田店長は、コアの爆弾行為も横領も、全部気づきながらわざと放置してるのよ」
「気づいてるのに放置? なんでそんなことを?」
「次元さんを生贄にするつもりなのよ」
星野さんは、震える手でスマートフォンの画面を私に見せた。数年前に起きた、別の店での摘発事件の記事だ。
「知ってるでしょ、この事件。警察の手入れが入る直前に店長がすり替わって、何も知らない新店長だけが逮捕されて、実名報道されたやつ。雨田店長は、コアに店を荒らされてるのを知りながら、次元さんに責任を負わせて、自分だけ高飛びする気なの。次元さんは、そのための身代わりに選ばれたのよ」
星野さんの瞳には、激しい怒りと、自分がプライドを持って守ってきた店が汚されることへの悲しみが混じっていた。
「私、明日、店長を捕まえて次元さんと一緒に話をさせる。それでもこの状況が変わらないなら、警察に行くことにする。あの子に全部奪われる前に」
星野さんは唾を飲み込むのも忘れたように、続けて言った。
「私、この店を、こんなゴミみたいな終わり方にしたくないの」
それが、私が聞いた星野さんの最後の言葉だった。
翌日。出勤した私の前に現れたのは、淡々とグラスを磨く次元さんと、いつも通り影の薄い服装で佇むコアの二人だけだった。
「星野さんは? まだ来てないんですか?」
私の問いに、次元さんは顔を上げずに答えた。
「星野なら、辞めたよ。昨日付だ。彼女、店のお金に手を付けていたんだ。レジの数字が合わなかった。その証拠を僕が見つけたから、穏便に辞めてもらっただけだ。これ以上、星野の名前を出すなら、彼女を正式に警察に突き出すことになる」
嘘だ。そんなの、絶対に嘘だ。星野さんは、誰よりもライミスを愛してたし、そんなセコい真似をする人じゃない。
「クララさん。星野さん、あんなことする人だったんですね。残念です」
そのコアの声には、一切の感情がこもっていなかった。まるで、不要な部品がようやく一つ片付いた、と言わんばかりの平坦さ。
私は何も言い返せず、逃げるようにバックヤードへ向かった。着替えを済ませ、自分の荷物を取り出そうとした時、ロッカーの脇に置かれた大きな黒いゴミ袋が目に留まった。
口が半開きになったその袋から、見覚えのある鮮やかな刺繍が覗いている。
「あ」
それは星野さんが、世界に一つしかないからと大切にしていた、お気に入りの手作りポーチだった。それだけじゃない。使い古された仕事用の制服、メイク道具までが、無造作に、ゴミとして詰め込まれていた。
急に辞めた人間が、こんなに大切にしていたものを捨てていくはずがない。星野さんは、自分の意志でこの店を去ったんじゃない。そう私は確信する。
ガサリ、と背後でビニールが擦れる音がした。振り返ると、コアがそこに立っていた。彼女は、不安げな新人の顔を完璧に演じたまま、けれどその瞳は、ゴミ袋を見つめる私の視線を逃さず捉えていた。
私は、自分が蜘蛛の巣に絡め取られた羽虫のような心地で、震える手でピンクの制服のボタンを一つずつ留めた。カチカチと、自分の意思とは無関係に奥歯が鳴っていた。
第三部(完)
第四部(最終部)へ続く




