『犠牲と偽聖』第二部
第一章 遺産
10月20日 午後2時
親父が死んでから、この家は音が鳴るのをやめた。いや、正確には時計の秒針が刻む無機質な音や、冷蔵庫が吐き出す低い唸りだけが、僕の鼓膜を響かせている。
52歳。独身。かつては都内の小さな商社で、それなりに必死に働いていた時期もあった。満員電車に揺られ、上司に頭を下げ、夜は安い居酒屋で同僚と管を巻く。そんな、普通の人生のレールを走っているつもりだった。
人生が反転したのは七年前、母親が死んで、続いて親父の足腰が立たなくなった時だ。
一人っ子の僕に、選択肢なんてなかった。仕事を辞め、都内のアパートを引き払い、この郊外の実家に引き戻された。そこから始まったのは、終わりの見えない介護という名の、孤独な潜水だった。
友人と呼べる人間は、一人、また一人と連絡が途絶えた。社会の歯車から外れた男の話を、わざわざ聞きに来る物好きなんていない。僕の日常は、おむつの交換と、介護保険の計算、そして親父の罵声を受け止めることだけに集約されていった。
その親父も、先月ついに死んだ。舞台監督のいなくなった家で、僕は使い道のなくなった大道具のように立ち尽くしている。
掃除をしていると、親父の遺品の中から茶封筒に入った通帳が出てきた。記帳された最後の数字は、403万円。
親父が必死に働いて残した貯えと、わずかな生命保険。僕が仕事を辞めてから、二人で細々と食い繋いできた命の残りカスだ。
「これ、お前の好きにしろよ」
死ぬ間際の親父が、枯れ木のような手で僕の腕を掴んで言った言葉が、頭の中で何度もリピートされる。好きにしろと言われても、僕にはもう、使い道なんて分からない。
コンビニの半額弁当を買って、電気代を払う。一日の大半を布団の中で過ごし、ただ明日が来るのを待つ。それ以上の想像力が、僕の脳みそからはとうの昔に枯れ果てている。
この403万は、親父の命を無理やり数字に書き換えたものだ。自分のために使うのは、なんだか親父の肉を削って食べているような気がして、触れることすら怖かった。
同時に、この金が底をつけば、僕という人間をこの世に繋ぎ止めている最後の糸も切れるのだという、静かな恐怖があった。
夜。暗い和室で、スマートフォンの青白い光だけが僕の顔を照らしている。SNSには、叫び声が溢れている。誰もが誰かに見つけてほしくて、けれど誰にも触れられたくなくて、矛盾した言葉を投げ合っている。
僕のような、声の出し方を忘れた人間には、そこは眩しすぎる戦場だった。僕は、検索欄に「死にたい」と打ち込んだ。自分でも、なぜそんなことをしたのか分からない。たぶん、自分と同じ温度の絶望を探していただけなんだと思う。
スクロールする指が、ある投稿で止まった。
“もう無理。全部終わりにしたい。誰も助けてくれないなら、今すぐでも飛び降りて、死にたい”
プロフィールを見ると、ココアという名前。アイコンは真っ白な背景に、細い首筋だけが写った写真。腕にはイカ焼きのような赤黒い傷がある。
その文字の並びには、親父を救えなかった、そして自分さえ救えない僕の後悔に、ピタリとはまるような湿り気があった。
僕は、震える指でメッセージを送った。難しいことは書けない。自分だって死にたいくせに、誰かに死んでほしくないと願う。そんな勝手な感情を、ただ放っておけなかった。
“死ぬなんて言わないでください。もしよかったら、お話を聞きましょうか?”
送信ボタンを押した瞬間、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。通帳の中の403万円が、僕のポケットの中で、重い石のように熱を持った気がした。
第二章 借金
10月21日 午後11時
深夜のファミリーレストランの駐車場は、電灯のオレンジ色の光に浸され、どこか現実味を欠いていた。
僕の十年来の相棒である、型落ちのセダン。その助手席に、ココアは座っていた。SNSの写真で見た通りの、折れてしまいそうなほど細い首筋。フードを深く被り、膝の上で自分の指を弄る仕草は、僕の目には傷ついた小動物のように映った。
「19です。でも、もうすぐ20歳。20歳まで、生きられる自信ないけど」
彼女の声は、冬の夜風のように掠れて、今にも消えてしまいそうだった。
「そんなこと、言わないでください」
僕はハンドルを握る手に力を込めた。19歳。大人と子供の境界線。僕が会社で働き詰めだった頃、彼女はまだ言葉も覚えたてだったはずだ。そう思うと、彼女を襲っているという不幸が、余計に許しがたいものに思えた。
彼女は、途切れ途切れに身の上を語った。
親の作った借金、家に居座る名前も知らない男たち、夜の街で働かされそうになっている恐怖。
「おじさん、ごめんなさい。変なこと言って。でも、10万、どうしても10万だけ必要なんです。それさえあれば、今夜、あいつらから逃げられるから」
彼女は顔を上げず、ただ震える声でそう言った。僕は、迷わなかった。ダッシュボードに入れていた封筒を差し出した。今日、銀行で下ろしてきたばかりの10万円。親父の命を削った、最初の一片だ。
「ココアさん。これを使ってください。逃げてください」
彼女の手が、僕の手に触れた。氷のように冷たかった。彼女は封筒を受け取ると、胸元に抱きしめるようにして、小さくありがとうと呟いた。
彼女は俯いたまま、バッグの中で封筒の中身を確認しているようだった。その間、車内には衣擦れと札の音だけが響く。彼女が何を思っているのか、僕には分からない。けれど、きっとこの10万円が、彼女にとっての唯一の光になっているはずだ。そう信じるだけで、僕の胸の空洞が、温かい何かで満たされていくのを感じた。
「おじさん、優しいね」
彼女そこで初めて顔を上げた。その瞳は、先ほどよりも潤んで、いっそう無防備な光を蓄えていた。
「私、本当はもっと200万くらい借金があるの。でも、いい。おじさんに会えただけで、少しだけ、明日も生きてみようって思えたから」
200万。その数字が僕の耳を叩いた瞬間、通帳に残った残高がよぎった。偶然だろうか。いや、今の僕には、それが運命のように感じられた。親父が僕に残したのは、僕の余生のためじゃない。この子を救うための、最後の手札だったんじゃないか。
彼女は、僕の車のバックミラーに吊るされた、親父の形見である古いお守りをじっと見つめている。
「ねえ、おじさん。今日だけ、一緒にいてくれる?」
僕は、その言葉に救われる思いだった。必要とされている。社会からも、親からも解放された僕を、この子が、僕だけを必要としている。
「僕でよければ。どこへでも行きます」
僕は、ゆっくりとアクセルを踏んだ。彼女は隣で、時折スマートフォンを眺めている。画面の光が彼女の横顔を淡く照らす。誰かと連絡を取り合っているのだろうか。寂しい子なのだ。きっと、誰かと繋がっていないと不安でたまらないのだろう。
僕は彼女を、僕だけが知っている静かな場所へ連れて行きたかった。この子が笑ってくれるなら、通帳の数字なんて、ただのインクの跡でしかない。
夜の国道を走りながら、僕は生まれて初めて、自分が誰かのヒーローになれたような気がしていた。
第三章 聖域
10月24日 午後8時
あの夜から、僕の頭はうまく働かなくなっていた。ファミリーレストランの駐車場で会ったあの日、結局、僕は彼女を帰せなかった。
ラブホテルの、安っぽい洗剤の匂いがするベッドの上。僕は、自分が必要とされているのだと、初めて気づかされた。
ただ寂しさを埋め合うだけの、縋り付くような時間。彼女の細い肩に触れている間だけは、親父がいなくなった実家の、あの嫌な静けさを忘れられた。19歳のあどけなさと、すべてを諦めたような冷めた瞳。僕はただ、その温度を離したくなかった。
けれど、現実はすぐに追いかけてきた。五日ぶりに届いたメッセージは、悲鳴のようだった。
“もうダメ。借金の取り立てが来た。おじさん、ごめんなさい。もう死ぬしかないみたい”
僕は震える手で通帳を握りしめ、銀行へ向かった。親父が残した403万円。最初に下ろした10万を引いて393万。さらにそこから、200万円という大金を下ろした。窓口の行員が怪訝そうな顔をしていたけれど、適当な理由を並べて、札束をカバンに詰め込んだ。
夜の路地裏で再会した彼女は、あの日よりもいっそう青白く見えた。僕は震える手で、カバンを彼女に差し出した。
「これ、使ってください」
彼女は驚いたように目を見開き、カバンの中身を確認すると、何度も何度も僕に頭を下げた。
「ありがとう。本当にありがとう。これで、私、やっと普通に笑えるかもしれない」
その日はそれで別れ、彼女は家に戻っていった。僕も、家に帰った。200万。親父の命を半分、一気に削ってしまった。その喪失感と、彼女を救えたという安堵で、睡魔がすぐに来て、眠りについた。
けれど、深い眠りはスマートフォンの通知音に切り裂かれた。日付が変わったばかりの深夜。彼女からの着信だった。
「ねぇ、どうしよう。利子があったの。あの200万だけじゃ足りないって。あいつら、全然逃がしてくれない。もう、どうにもならない。どこかに消えるしかないのかな」
電話の向こうで、彼女が泣いていた。せっかく渡した200万すら、ゴミクズのように消えてしまったのか。
「ねぇ、一緒にどこか逃げよう。どこでもいい。ホテルとかネカフェを転々としていれば、あいつらだって追ってこれないから。大丈夫、また、あの時みたいに、一緒に寝たい」
困惑した。家を出て、逃げる?仕事もない、若くもない僕が、彼女を連れてどこへ行けるというのか。けれど、電話から聞こえる啜り泣きと、あの夜に触れた彼女の体温の記憶が、僕の思考を塗り潰していった。
もしここで断れば、彼女は本当に消えてしまう。200万を渡してしまった今、僕にはもう、彼女を見捨てるという選択肢は残っていなかった。
「分かりました。今から、迎えに行きます」
この日、僕らは夜の国道へと滑り出した。実家の玄関を閉める時、もうここに戻ることはないだろうという予感だけがあった。バックミラーで揺れる親父のお守りに、僕は心の中で謝った。
「どこへ行こうか」
僕が尋ねると、彼女は助手席で小さく丸まり、僕の腕に顔を寄せた。
「おじさんと一緒なら、どこでもいい。誰も知らない、静かな場所に行きたい」
僕は、アクセルを踏み込んだ。僕らが向かう先がどこなのか、この逃避行がいつまで続くのか、そんなことは何も分からなかった。ただ、隣で彼女が僕を頼っている。その事実だけが、空っぽだった僕の人生に、ひどく甘ったるい熱を与えていた。
第四章 残高
12月10日 午前10時
冬の気配が、ネットカフェの個室部屋の薄い壁を抜けて忍び寄ってくる。朝の光に照らされた部屋の中は、ひどく薄汚れて見えた。コンビニのゴミが溜まった袋、脱ぎ散らかされた服、そして、机に置かれた通帳。
僕は、重い頭を抱えてベッドの端に座り、また通帳を開いた。残高、32万円。10万と200万を渡し、そこから一ヶ月以上のホテル代、食事代、彼女の欲しがる細々としたものを買い与えてきた。数字は、僕の予想よりもはるかに速いスピードで削り取られていった。
心のどこかが、冷たい氷でも詰め込まれたように痛む。
「おじさん、どうしたの?」
背後で、彼女が眠たそうな声を出す。毛布にくるまった彼女は、まだ夢の中にいるように無邪気だ。その姿を見るたび、僕は自分の喉元まで出かかった、もうお金が厳しいんだ。という言葉を飲み込む。
「なんでもないよ。今日は、どこへ行こうか」
「どうしよっか。おじさんといると、安心する」
彼女が僕の背中に細い腕を回す。その重みは、今の僕には、沈みゆく泥舟の中で掴んだ最後の重石のように感じられた。
時々、猛烈な後悔が波のように押し寄せてくる。実家はどうなっているだろう。ポストには督促状が溜まり、庭には雑草が伸び放題になっているはずだ。親父が僕に残してくれたはずの人生を、僕は一体、何に替えてしまったのか。10万、200万。あの時、踏み止まっていれば。
けれど、そう思った瞬間に、彼女が僕を見上げる。その潤んだ瞳を見ると、僕は思考を停止させる。後悔することは、彼女を救った自分を否定することになる。それは、今の僕にとって、死ぬことよりも恐ろしいことだった。
「ねえ、おじさん。お腹空いちゃった。今日は、あそこのお肉食べに行きたいな」
外へ出て、彼女が指差した先にあるのは、この街で一番高いステーキハウスだった。残り32万円。それを使い切った後、僕らに何が残るのか。未来なんて、一ミリも見えない。ただ、今日という砂の城を崩さないために、僕はまた、震える指で財布を開く。
「いいよ。行こうか」
葛藤は、空腹よりも簡単に、彼女の甘い声で掻き消された。僕は、自分がどこへ向かっているのかを考えるのをやめた。窓の外では、12月の風が、枯れ葉を容赦なく巻き上げていた。
第五章 失踪
12月14日 午前7時
目が覚めると、部屋の中は冷凍庫のように冷え切っていた。カーテンの隙間から差し込む冬の光は、ナイフのように鋭く、僕の視界を切り裂いた。隣に手を伸ばす。シーツは、すでに彼女の体温を失い、蛇の腹のように冷たかった。
「ココアさん?」
掠れた声で呼んでみる。返事はない。ユニットバスのドアも開いたままだ。
僕は上体を起こし、まだ働かない頭で昨夜の光景を反芻した。
昨夜、僕らはこの狭い机の上で、残りの現金をすべて並べた。「お金がどれくらいあるか、ちゃんと見ておこうよ」と彼女に半ば強引に促されて、昨日、銀行の窓口で下ろしてきたばかりの、僕の全財産。
机の上に広げられた万札の束を、彼女は楽しそうに、おままごとでもするように仕分けしていった。
「これは、明日からのご飯用。これは、私のお小遣い。これは、次のホテル代」
彼女の細い指先が、札束を鮮やかに捌いていく。
「ね、こうすればまだ、しばらくは一緒にいられるでしょ?」
僕はその手つきに見惚れていた。彼女が未来の話をしてくれている。自分たちの明日を、彼女が指先で組み立ててくれている。それだけで、僕は救われたような気持ちになって、彼女が仕分けた札束を、そのまま机の上に置いたまま眠りについた。
けれど、机の上には、今はもう何もない。
一円玉一つ、輪ゴムの一本すら、残っていない。彼女が着ていたはずのコートも、脱ぎ捨ててあったはずのパンツも、すべてが消え失せている。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように、部屋は空っぽだった。
「ココアさん…?」
心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。裏切られた? いや、そんなはずはない。彼女はあんなに笑っていたんだ。もしかして、あの借金取りに見つかったんじゃないか。僕が寝ている間に、無理やり連れ去られたんじゃないか。
僕はパニックのまま、半裸に近い姿でドアへ駆け寄った。彼女を探しに行かなければならない。親父の金なんてどうでもいい。ただ、彼女がいないこの部屋の静寂が、耐えられなかった。
その時だ。
ドアの向こうから、足音が聞こえてきた。彼女だ。彼女が帰ってきたんだ。コンビニかどこかへ、朝食を買いに行っていただけなんだ。僕はすがるような思いで、ドアを勢いよく開けた。
「ココアさん!」
言葉が、喉の奥で氷りついた。そこに立っていたのは、彼女ではなかった。スーツを着た数人の男たち。そして、その後ろに控える制服姿の警官。彼らは僕の姿を一瞥し、ゴミを見るような視線を向けた。
「警察だ。ちょっといいかな」
「け、警察、あ。助けてください」
僕は声を震わせた。
「彼女が攫われたんです。今朝、急にいなくなって。助けてください、あの子が危ないんです」
男たちの一人が、僕の言葉を遮るように鼻で笑った。
「攫われた? 逆だよ。彼女、君が寝てる間に隙を見て逃げ出したんだよ。そのまま交番に駆け込んでな。無理やり連れ回されて、怖かったって、震えながら話してくれたぞ」
「え?」
「未成年者誘拐の疑いで逮捕する。署で詳しく聞くから」
チャキリ、という硬質な音が響いた。手首に食い込んだ金属の輪は、驚くほど冷たく、そして重い。親父の介護をしていた時、親父の細い手首を掴んだ時のあの感触よりも、ずっと無機質な冷たさだった。
「違う。僕は、僕は彼女を助けていただけなんです。借金があって、家にいられないって言うから、だから、」
「借金? 彼女がそんなこと言ってたか?警察には、君に無理やり脅されて、お金も取られたって言ってるぞ」
警察官は、心底あきれたという風に口角を上げる
「じゅぅ、きゅ」
僕は、崩れ落ちそうになる膝を必死で支えた。
「19歳、彼女は19歳です。もうすぐ20歳になるって言ったんです。僕は彼女を助けていただけなんです」
「19?何を言ってるんだ。彼女、まだ16歳だぞ。淫行やら強姦もついてくるかもな」
世界が、音を立てて崩壊した。
19歳でもうすぐ20歳。甘ったるい嘘。耳元で囁かれたあの夜の体温。親父の命を削って手渡した二百万。使い果たした、僕の全財産。
僕が守っていると信じていた聖域は、ただの精巧なフィクションだった。彼女にとっては、この50日間は、退屈な冬休みの前倒しか、あるいは効率の良い金稼ぎに過ぎなかったのか。
ホテルを出ると、冬の冷たい空気が肌を刺した。僕は左右をガッシリと二人の警察官に挟まれ、パトカーの後部座席に押し込まれた。
「前、見てなさい」
警察官の声に、僕は力なく顔を上げた。そこには、パトカーのバックミラーがあった。ミラーの中に、一人の老いぼれ男が写っていた。髪は乱れ、瞳からは光が完全に消え、頬はこけて、ただの搾りカスになった抜け殻。
50日前、車を走らせながら自分が誰かの救いになれた、と錯覚していた男の面影は、どこにもなかった。
パトカーがゆっくりと動き出す。窓の外を流れる冬の景色を眺めながら、僕はただ、自分の中の何かが完全に死んでいくのを感じていた。警察官たちは、彼女を可哀想な被害者だと信じ切っている。僕の話なんて、誰も聞きはしないだろう。
僕を裁く法律の言葉よりも、あの夜の体温さえも利用して僕を売った、彼女の真っ白な嘘の方が、よっぽど鋭く、そして深く、僕の人生のすべてを削り取っていった。
第二部(完)
第三部へ続く。




