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『犠牲と偽聖』第四部

第一章 画面


暗闇の中で、液晶画面だけが青白く発光している。その光は僕の網膜をじりじりとなぞり、眼球の奥にある脳組織までを腐食させていく。


部屋には数日間、蓋を開けたまま放置されたカップ麺のニオイと、換気扇の回っていない空間に沈殿した僕自身の体臭が混ざり合い、逃げ場を失って停滞していた。


指先でマウスを触る。カチ、カチ、という乾いた音が、静まり返った深夜の部屋に響く。視線の先にあるのは、三月から僕が執着し続けている、情報の掃き溜めだ。



【新泥市】ガールズバー客刺傷、2人死亡 店長を殺人容疑で逮捕「守ろうとした」従業員は逃走し行方不明


1:新泥市古都日生駅前のガールズバー「ライミス」で客2人が刺殺された事件で、警察は、店長の次元土也容疑者を殺人容疑で現行犯逮捕しました。


次元容疑者は店内で客の男性2人を刃物で複数回刺して殺害した疑いが持たれており、調べに対し「従業員の女性Aさんを客から守るためにやった」と殺意を認める供述をしています。しかし、そのAさんは事件発生直後、警察の到着を待たずに店から逃走。現在も連絡が取れず、行方が分からなくなっています。


また、その後の捜査で、次元容疑者の自宅アパートから別の従業員女性が監禁されている状態で発見され、救出されました。


店内の防犯カメラは電源が抜かれており、犯行時の詳細な状況は記録されていません。警察は、失踪したAさんが事件の経緯を知る重要参考人とみて行方を追うとともに、監禁されていた女性従業員の保護と事情聴取を進め、事件の全容解明を急いでいます。


2:名無しさん@風吹くなボンバー

新泥また事件かよwwww


20:名無しさん@風吹くなボンバー

Aさん=コア


21:名無しさん@風吹くなボンバー

現場から消えた、Aさんがコアだろ

[画像]

こいつのために次元は客刺したってことか


43:名無しさん@風吹くなボンバー

っていうか、このコアって女、去年末の誘拐監禁事件の被害者じゃね?52歳の独身男が車で連れ回して、ホテルとかネカフェ閉じ込めてたやつ。年齢も背格好も一致してる


48:名無しさん@風吹くなボンバー

あー!あの時のか!あの犯人、実刑食らったんだっけ。事件後に被害者がガルバでバイトとか、メンタル強すぎんだろw


49:名無しさん@風吹くなボンバー

17歳であの52歳を廃人送りにしたのかよw


52:名無しさん@風吹くなボンバー

次元もあの52歳と同じ目をしてたんだろうな



僕は、21のレスに貼られた画像をクリックし、拡大した。粗い画質。少しだけ上目遣いの、どこにでもいるような地味な少女。


けれど、僕は知っている。この瞳の奥にある、一切の光を吸い込むような絶対的な虚無を。


胃の奥から、酸っぱい液がせり上がってくる。昨年の九月。署に連行されてきたあいつは、狂ったように叫んでいた。


「俺はやってない!」


その声を、上司の怒鳴り声が暴力的に塗り潰した。上司は僕を横に立たせたまま、彼に言い放った。


「あの子があんなに怯えてるんだ。お前の言い分なんて、誰も信じやしない。今さら冤罪なんてありえねぇだろ。分かってんのか?お前がやったんだ」


僕は、隣でただ黙っていた。少年の絶望的な瞳が、助けを求めるように僕を射抜いた瞬間も、僕は視線を床に落とした。組織の論理に、キャリアを守ろうとする上司の保身に、僕は無言で頷いたのだ。


あの日、僕が守ったのは正義ではなく、組織の面子という名の薄汚れたプライドだった。その対価として、一人の少年の未来を、僕は物理的に踏みにじった。



102:名無しさん@風吹くなボンバー

その前の、9月の少年の事件もそうだよ。コアってやつ、全部の事件の起点にいる。警察も、世間も、全員騙されてる。


110:名無しさん@風吹くなボンバー

>>102また真相知ってる風の奴来た。でもあの少年、結局否認のまま送られたんだろ。もしコアが嘘つきなら、今回の次元も、あの52歳も全員ハメられたってこと?



「ハメられた?違う、僕たちが協力したと言っても過言じゃないんだ」


僕は、自嘲気味に呟いた。あの子は、自分を守ろうとした男たちの人生を苗床にして、今もどこかで息をしている。そして、その怪物にお墨付きを与えたのは、他でもない、僕たち警察だった。 


コンコン、とドアが控えめに叩かれる。


「万太、ご飯、ここに置いとくね。今日は、お父さんの好きだった煮物にしたから。ちゃんと食べてね。また元気な顔見せてね。お金はここにおいておくから」


ドアの向こうから、母親の、今にも消え入りそうな声が聞こえる。その声は、僕の喉を締め上げ、内臓を雑巾のように絞り上げる。


母親が愛していた可愛い息子は、もうどこにもいない。立派な警察官として働き、誇りを持って生きるはずだった人間は、あの日、少年の叫びを黙殺した瞬間に、死んだのだ。母親の無垢な愛が、僕をこの暗い部屋に、この腐った後悔の中に縫い付けて離さない。


画面をスクロールする。三月の事件から、時間は止まることなく流れ続けている。掲示板の中では、彼女はもはや一人の少女ではなく、都市伝説や、災厄の象徴のように語り継がれている。僕は再び、掲示板に書き込む。



156:名無しさん@風吹くなボンバー

彼女は、今もどこかで誰かを犯人に仕立て上げている。僕らが彼女を被害者だと認め続ける限り、この連鎖は終わらない。彼女は、僕らが守るべき対象じゃない。僕は彼女を



書き込みを途中で止め、僕はエンターキーを叩いた。液晶の光の中に消えていった自分の言葉を見つめながら、ただ底なしの吐き気を堪えていた。




第二章 特定


七月。季節は移ろい、部屋の熱気はさらにその濃度を増していた。窓を閉め切った室内では、カビの胞子が液晶の光に照らされてキラキラと舞っている。


液晶画面の光はもはや僕の視神経の一部であり、流れてくる情報の断片を繋ぎ合わせ、その裏に隠された絶望を想像することだけが、死んだ僕の唯一の呼吸だった。


掲示板のスレッドは、コアと言う人間の捜索を超え、彼女に人生を食い潰された亡霊たちが、互いの傷口を舐め合うような場所へと化していた。



【新泥市】ガールズバー客刺傷事件・コア生存確認スレ20


142:名無しさん@風吹くなボンバー

コアの本名と実家特定した。植本心愛。家はここ。

[画像]


185:名無しさん@風吹くなボンバー

そもそもコアの実家付近、誰も寄り付かないよな。

[画像]

見てこれ。庭に壊れた自転車とか家電が山積み。近所の奴の話だと、コアが中学生の頃、ここの母親に、先生に無理やり抱きつかれたって言ったらしい


192:名無しさん@風吹くなボンバー

>>185その先生、結局どうなったの?


195:名無しさん@風吹くなボンバー

>>192辞職して離婚して、今は行方不明だってさ。コアの母親が学校で喚き散らして、示談金として100万近くぶんどったらしい。その金でコアは最新のスマホ買ってブランドバッグ持ち歩いてたって。当時から被害者になるのが一番儲かるって知ってたんだよあいつは。


202:名無しさん@風吹くなボンバー

潜伏先、ほぼ確定だろ。暮根戸駅前のネカフェ、LANCA。昨日、あそこから出てくるの見たってやついるよ。


215:名無しさん@風吹くなボンバー

>>202あいつ、困るとあそこに逃げ込む習性あんのかよ。あそこのバイト、身分証の確認ガバガバだからな。


240:名無しさん@風吹くなボンバー

別の情報。2年前にあいつに150万貸したってオッサン知ってるぞ。親の治療費が必要だって泣きつかれたらしいけど、全部嘘だろうな。でもそのオッサン、絶対に訴えないんだってよ。当時中学生だったコアと何度もヤってたから。コアは最初から、自分と寝たっていう致命的な弱みを握ってから金を毟り取ってる。警察に行けば自分が先に捕まるから、オッサンは泣き寝入りするしかない。



マウスを握る手に、じっとりと脂ぎった汗が滲む。あの子は、法と無秩序の境界線にいる人間を、本能的な嗅覚で選別する。昨年の九月の少年も、家庭環境が複雑で、どこか社会に馴染めない、不安定な存在だった。だからこそ、上司は彼を犯人に、仕立て上げるのが容易だと判断したのだ。


あの子にとって、警察は敵ではない。自分を保護し、敵対する男たちを排除してくれる便利な駒なのだ。上司が守りたかった警察の面子が、彼女にとっては最高の隠れ蓑になった。僕の沈黙が、彼女に、法をも支配する嘘という、全能感に似た確信を与えてしまったのだ。


「暮根戸のLANCA…」


僕はその名前を口の中で転がした。北口。かつて僕が、制服を着て何度もパトロールした場所。あの子は、すぐそばにいる。僕が逃げ出し、腐り果てているこの部屋から、わずか数キロの場所に。


胃の奥が熱い。吐き気がする。僕は再び、掲示板のログを遡り始めた。あの子の足跡を、一歩も逃さないように。情報の濁流を掻き分け、あの子の居場所という一点に、すべての意識を集中させる。あの子を野に放った責任は、僕にある。




第三章 生贄


八月。逃げ場のない熱気が、部屋の隅々で佇んでいる。


何日も風呂に入っていない身体は、椅子と皮膚の間に嫌な粘り気を生み、少し動くだけで剥離するような不快な音が鳴る。頭を掻けば爪の間に黒い垢が詰まり、剥がれ落ちたフケが液晶の縁に白く積もる。僕自身が生きながら腐敗していくプロセスの最中にいる。そんな実感が、今の僕を唯一支えている存在証明だった。


掲示板を眺めることさえ、もはや苦痛だった。ひとりの少女が男たちに、犯罪行為という汚れを塗りつけ、沈黙を貫いてきた実態を知るたび、自分のあの時の沈黙がそれらと同質の、救いようのない汚濁であることを突きつけられるからだ。


現実を忘れたかった。僕は掲示板のタブを切り替え、地元の風俗口コミ・裏情報板を覗いた。


そこは、女たちを肉として品評し、消費する男たちの掃き溜めだ。今の僕と同じ、最低の人間たちが集まる場所。そこで流れる卑俗な情報の洪水に身を任せれば、一瞬でも元警察官としての自意識を麻痺させられると思った。


その、逃避の果てに。僕は、神さえも沈黙するような地獄の断片を手繰り寄せてしまう。



【新泥市周辺】熟女デリ・店舗型総合スレ 52


310:名無しさん@風邪引くなN民

駅前の、舞泊って店にいる、ダイナってババア、マジでおすすめ。年齢は50近いけど、肌にハリがあって色白。何より、客に対して申し訳なさそうに奉仕してくるのが最高にそそる。人生に絶望してる感があって、こっちが無理を言っても、すみません、すみません。って言いながら何でも言うこと聞くぞwwww


315:名無しさん@風邪引くなN民

>>310あー、あいつか。素人上がりっぽいよな。貧乏なのか、金が必要な事情があるのか知らんが、必死さが伝わってきて逆に引くわ。

[画像]

隠し撮りスマソ。この首元の痣、なんかよくねwwwwwww



液晶画面が、僕の視界の中で激しく歪んだ。安っぽいホテルの、色褪せた壁紙。ベッドの上に寝転ぶ女。その首元にある痣。


僕が幼い頃、熱を出してうなされている時に、冷たいタオルで僕を介抱してくれた、母さんのあの歪な形の痣。


「_ぁ゙」


心臓の鼓動が耳元で爆音を鳴らし、全身の血の気が引いていく。呼吸が止まった。マウスを握る指先から感覚が消え、ただ画面の中の、粒子の荒い痣だけが僕の網膜に焼き付く。


母さんは、僕のために。この部屋から一歩も出ず、情報の掃き溜めに身を浸しているだけの、無職の元警官の息子を生かしておくために。あの、上品で、僕の自慢だった母さんが、駅前の裏通りで、老いた身体を切り売りしていた。


僕は、その後のスレッドを読み進めることができなかった。画面を閉じようとしても、震える指は思うように動かない。男たちの下劣な感想が、スクロールするたびに脳内へ直接注ぎ込まれる。


「無理を言っても拒まない」「貧乏人の末路」「死んだような目」


それら全ての言葉が、僕を養うために母さんが耐えてきた屈辱の記録だった。僕は、暗い部屋の中で一人、吐き気に悶えた。胃の奥からせり上がる酸っぱい液を堪えながら、自分の存在そのものが、母さんの尊厳を食い潰す癌細胞であることに気づく。


僕が毎日当たり前のように受け取っていた、あの煮物も。僕を励ますためのあの優しい声も。すべてはこの卑俗な掲示板で、おすすめと書き込まれるような辱めの上に成り立っていたのだ。


時間は、残酷なほどゆっくりと流れた。外からは夕立の匂いと、家路を急ぐ子供たちの笑い声が微かに聞こえてくる。その平穏な世界の裏側で、僕は地獄の底を這いずり回っていた。


母さんの痣。母さんの震える指。すみませんと謝りながら、男たちの欲望を受け入れる、母さんの姿を想像する。それらすべてが、万華鏡のように脳裏で回転し、僕の正気を削り取っていく。


どれくらいの時間が経っただろうか。部屋の温度はさらに上がり、僕の意識は朦朧としていた。絶望が飽和し、もはや涙さえ出なくなった頃。玄関のドアが開く音がした。


続いて、重い足取りで廊下を歩く音が聞こえる。そして、コンコンとドアが叩かれた。


「万太、ご飯、今日はハンバーガーでごめんね。買ってきたから食べてね。お金も、また少し置いておくから。足りなかったら言ってね」


ドアの向こう側の、慈愛に満ちた母さんの声。その声が、画像の中のダイナという肉体の喘ぎと、男たちの下劣な嘲笑と重なって、僕の脳を直接掻き回した。


廊下を歩く、力のない足音。それは、僕という欠陥品を繋ぎ止めておくための、死に物狂いの労働による足音だった。


胃の奥から、酸っぱい液がせり上がってくる。この世で唯一信じていた、母親の無垢ささえも、僕が少女の嘘に加担し、すべてから逃げ出した代償として、泥の中に引きずり込まれていた。


僕が警察官を辞めず、あの少年の瞳に向き合ってさえいれば、母さんは今でも、誰からも辱められることなく、誇りを持って笑っていたはずだ。


「ああああああああああ!」


僕は、ドアを空け、床に置かれたハンバーガーを掴み、そのまま喉に押し込んだ。涙と鼻水が混ざり、味など分からなかった。ただ、食べなければならないと思った。


少女が吐いた嘘が、毒素となって僕たちの人生に浸透し、ついに母さんの尊厳までを貪り尽くした。僕を飼い慣らし、この暗い部屋に閉じ込めていたのは、後悔ではなく、母さんの肉を売って得た、生贄の食卓だった。


「殺す。絶対に、殺す」


僕の瞳に、液晶の光さえ届かないほどの、深い漆黒が宿った。部屋の隅に溜まった埃が、僕の殺意を養分にして、黒く疼き始めた。




第四章 再会


気がつけば眠っていた。しかし、殺意は二日酔いのように強く残っている。そしてそれは、静かに僕を椅子から引き剥がした。半年間、僕の肉体は重力と、そしてこの部屋に堆積した絶望と一体化していた。いざ立ち上がろうとすると、筋肉は衰え、関節は錆びついた機械のように軋んだ音を立てる。


膝に力を込めた瞬間、視界がチカチカと明滅し、猛烈な立ちくらみが僕を襲った。壁に手をつくと、脂ぎった僕の指紋が、染みの浮いた壁紙にべっとりと残る。


一歩、踏み出す。足裏に触れる床の感触が、異様に遠い。床に散らばったコンビニ弁当の空殻や、中身の腐ったペットボトルが、僕の歩みに合わせてカサカサと不気味な悲鳴を上げる。それはまるで、僕が捨て去ってきた人間としての時間を、自らの足で踏みにじっていく儀式のようだった。


僕は、薄暗い廊下を這うようにして突き当たりの浴室へと向かった。扉を閉め、換気扇を回す。死にかけの獣のような音を立ててファンが回り始めた。まだ冷たい水を頭から浴びる。半年分の汚れが、黒い筋となって排水口へと吸い込まれていく。水の衝撃は針のように皮膚を突き刺し、麻痺していた僕の神経を強引に叩き起こした。


鏡に映った自分は、頬がこけ、瞳に暗い燐光を宿した、救いようのない幽霊のようだった。僕は石鹸を手に取り、全身を執拗に洗った。椅子と癒着していた背中、垢の詰まった指先、そして母さんの肉を売った金で得たエネルギーが流れる、この醜い肉体そのものを。


それは清潔になるためではない。獲物に気づかれないよう、自らの存在感を消し去るための、死装束を纏う前の儀式だった。


風呂から上がり、脱衣所で濡れた髪を拭きながら、身なりを整える。その時、玄関の開く音がして、買い物袋の擦れる音が廊下に響いた。


「ただいま」


台所へ向かおうとした母さんが、脱衣所の明かりと、そこに立つ僕の姿に気づき、足を止めた。手に持っていた袋が、ガサリと音を立てて床に落ちる。中から、特売シールの貼られた野菜と、安っぽい惣菜のパックが転がり出た。


「万太? 万太なの?」


母さんの声が震えている。彼女は、僕が半年ぶりに自発的に部屋を出て、風呂に入ったというその事実だけで、足場を失ったビルのように、その場に泣き崩れた。


そこにあるのは、どこにでもあるスーパーの袋と、ささやかな夕食の材料。その普通を維持するために、母さんは夜、あの掲示板でおすすめと評される場所へ通っているのだ。


母さんの震える手が、僕の頬に触れる。


「よかった。本当によかった。お母さん、信じてたわ。あんたなら、また前を向けるって」


母さんの涙が、僕の足の甲に落ちる。胸糞が悪かった。僕を生かすために、その尊厳を泥にまみれさせてきた人が、僕が風呂に入ったというだけで、まるで救世主にでも会ったかのように歓喜している。この無垢な喜びこそが、僕たちが取り返しのつかない地獄にいることの、何よりの証明だった。


「母さん」


僕は、自分でも驚くほど穏やかな声を出した。泣きじゃくる母さんの肩を優しく抱き寄せ、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。


「新しい仕事、見つけられそうなんだ。今日は、その面接に行ってくるよ」


「えっ? 面接?」


母さんの顔が、パッと明るくなった。


「そう。昔の知り合いが、警備会社を紹介してくれてね。夜勤だけど、給料もいいんだ。だから、もう大丈夫だよ」


それは、僕がついた人生で最後にして、最大の嘘だった。母さんを安心させたいという一心。けれどその裏側には、これから向かおうとしている狂気が、静かに、けれど確実に脈打っている。


「そう、そうなのね!ご飯作っとくから、帰ったら、待ってるから一緒に食べましょ!」


母さんは何度も頷き、早々と料理の準備を始めた。


僕は自室に戻り、クローゼットの扉に手をかけた。扉がギィと音を鳴らして開く。一番奥、古着の山の底に眠っていた冷たく重い感触。警察官を辞める際に手元に残してしまった、折り畳みナイフだ。


チキリ、と硬質な音が静寂を切り裂く。その刃は、スマートフォンの光を鈍く跳ね返し、僕の顔を縦に両断しているかのように反射していた。


僕はそれを右ポケットに滑り込ませ、玄関へ向かった。そこには、一足の靴があった。母さんが、僕がいつか外へ出ると信じて、毎日毎日、正気を失いながらも磨き続けた、黒い革靴。母さんの肉を売った金で輝く、呪わしいほどに美しい靴。


母さんを売った金で得たエネルギーが、足の裏から全身へ駆け巡る。この靴は、僕を正しい場所へ運ぶためのものではない。地獄の底まで踏み抜くための足枷だ。


「行ってくるよ」


母さんの、希望に満ちた微笑みを背に、僕はドアを閉めた。


一歩、踏み出す。


八月の夜の熱気が、暴力的な塊となって僕を襲った。


僕は予備のスマートフォンを握りしめた。画面には、掲示板の最新情報が更新され続けている。



【新泥市】ガールズバー客刺傷事件・コア生存確認スレ28


502:名無しさん@風吹くなボンバー

スネークしてたけど、今日はLANCA確定。さっき入店した。4階の個室みたい。今夜は外に出ないつもりなのかも



夜の街へと歩き出す。磨かれた靴が、アスファルトを叩くたびに硬い音を立てる。


母さんの嘘の微笑みを守るために。そして、あの少女が世界に撒き散らした、嘘を終わらせるために。


暮根戸駅北口。青白いネオンが、闇の中に毒々しく浮き上がっている。僕の右ポケットの中で、ナイフが体温を吸って熱を帯びていた。




第五章 終焉


かつては正義を背負ってパトロールしたこの街は、今や巨大な情報の腐敗臭を放つ怪物のように見えた。


ネットカフェ”LANCA”の自動ドアが開くと、芳香剤と、澱んだ体臭が混ざり合った、あの部屋と同じ匂いが僕を歓迎した。


受付には、金髪の根元が黒く染まりかけた若い店員が、気だるげに座っていた。彼は僕がカウンターの前に立っても、スマートフォンの画面を指で弾き続けている。僕の存在など、視界の端のノイズに過ぎないらしい。


「完全個室、空いてますか」


僕の声は、喉の奥で小石が擦れるような不快な音を立てた。店員は、ようやく顔を上げたが、その瞳に宿っているのは、面倒くさいという剥き出しの感情だけだった。


「あー、今、何部屋かしか空いてないっすけど。いいっすか。一人ならいいか。三時間千五百円」


「それでいい」


「ハイハイ。会員証。え?持ってない?じゃあ、そこの新規用紙に適当に書いて。名前と住所。身分証は、適当に免許証とか見せてくれればいいっす。番号控えるのダルいんで」


店員は、汚れの目立つクリップボードを投げ出した。僕は偽の住所を書き込み、身分証を指で隠しながら一瞬だけ見せた。店員は、内容を確認することさえしなかった。


「あ、ハイハイ。じゃぁ、404号室ね。四階の案内、あっちのエレベーターから。一応、防犯カメラ回ってるんで、変なことしないでくださいね」


彼は、監視モニターの四分割された画面を見ることさえせず、再び自分のスマホの世界へ戻っていった。


この怠慢。この無関心。人々が他人の不幸をエンターテインメントとして消費する一方で、目の前の異変には一切の関心を払わない。この無機質な空洞こそが、心愛という怪物を育み、さまざまな人間の心を殺した正体なのだと、僕は確信した。


エレベーターに乗り込む。四階に降りると、そこは三階までのオープン席とは異なり、重苦しい沈黙が支配していた。僕は自分のブースに入るふりをして、スマートフォンを取り出す。掲示板の、コア生存確認スレの熱狂は、今や臨界点に達していた。



932:名無しさん@風吹くなボンバー

例のネカフェ来てみたけど、コア、412号室。おっさんと二人で入ってった。廊下ですれ違った時にブースの隙間から見えたけど、あいつ、おっさんの腕に抱きついてたぞw



掲示板の書き込みと、目の前の廊下を照らし合わせる。突き当たりの左側。412号室。僕は、廊下の壁に埋め込まれた非常ボタンの前に立ち、深呼吸をした。


かつて市民を守るための訓練で叩き込まれた、ビル管理システムの知識、パニックオープン。災害時、パニックを防ぐために全ての電子ロックを一斉に解錠する、安全のためのシステム。


僕は今、その安全を、彼女の安全を破壊するために行使する。右ポケットの中のナイフが、僕の体温を奪って熱を帯びている。


「これで、全部終わりだ」


僕は、赤いプラスチックのカバーを押し破り、ボタンを深く、底まで叩き込んだ。


ジリリリリリリリリリリリッ!


静寂が、暴力的な警報音によって一瞬で粉砕された。非常灯が血のように赤く点滅し、機械的な合成音声が、火事です、避難してください。と無機質に繰り返す。


直後、廊下に、ガチャン!という、何十もの電子ロックが同時に外れる乾いた音が響き渡った。


「なんだ!?」「火事か!?」「おい、逃げろ!」


個室の扉が次々と開き、半裸の男や、虚ろな目の女たちが廊下に溢れ出した。彼らは僕の脇を、獣のような悲鳴を上げながら通り過ぎ、非常階段へと殺到していく。


受付のあの店員は、今頃、誘導も忘れて真っ先に外へ逃げ出しているだろう。


僕は、その喧騒の逆流に身を任せながら、412号室の前に立ち、扉を開けた。赤く明滅する非常灯の光が、ブースの中を地獄の業火のように照らし出していた。


そこには、僕の期待した絶望などなかった。あったのは、ただただ吐き気のするような、卑俗で生々しい事後の光景だった。


「ひっ、あ…っ!」


中年男が、情けない声を上げて後ずさる。慌ててズボンを引き上げようとした彼の股間には、白濁した液の詰まったコンドームが滑稽に揺れ、太腿を汚していた。


その下で、心愛は、乱れた服を直そうともせず、ただ虚ろな目で僕を見ていた。


「誰だお前! 何しに来た!」


男が叫んだが、僕はその体を革靴の先で力任せに蹴り抜いた。男は呻き声を上げていたが、廊下へと引きずり出した。逃げ惑う客たちの群れに踏まれ、男の叫び声はすぐに遠ざかった。


個室に残されたのは、僕と心愛だけだ。考える間もなく、僕は右ポケットから折り畳みナイフを引き抜き、刃を静かに展開した。


心愛は、僕を見つめていた。だが、その瞳に再会の驚きはない。かつて自分を保護し、自分の嘘を信じたふりをして人生を棒に振った男が目の前にいることに、彼女は気づきもしない。彼女にとって僕は、名前も顔もない、ただの通りすがりの何者かに過ぎなかった。


「火事だよ。逃げなくていいの?」


彼女は平然と言った。僕が手に持つナイフを見ても、その声は凪いでいた。その瞬間、僕の中で何かが静かに、けれど決定的に壊れた。僕が半年間、自室で死ぬほど苦しみ、母がその身を削ってまで繋ぎ止めてきた絶望は、彼女にとっては、認識する価値すらない砂粒のようなものだったのだ。


僕は無言で彼女の上に跨り、左手でその顎を固定した。指先に触れる彼女の肌は、驚くほど冷たい。


「ぁ」


彼女が短く息を漏らした瞬間、僕はナイフの刃をその首筋に深く、迷いなく食い込ませた。


確かな手応え。熱い液体が僕の手を、そして白いシャツの胸元を汚していく。心愛の身体が一度だけ大きく痙攣し、やがて指先から力が抜けていった。彼女の漆黒の瞳は、最後まで僕を誰だと思い出すこともなく、ただ焦点を失い、天井の非常灯を映すだけのガラス玉に変わった。


世の中の人間を狂わせ、母を壊した嘘の根源は、いまやただの物言わぬ肉の塊だ。警報音は鳴り止まない。僕は返り血を拭うこともせず、彼女の死体の横に崩れ落ちた。


足元の革靴は、彼女の血と体液でどろどろに汚れ、その輝きを失っている。僕は、血に濡れたナイフを持ち直した。


警察官だった頃、自死を選んだ者の遺体を何度か視たことがある。どこを切り、どの角度で刺せば、意識が速やかに遠のくか。その忌まわしい知識が、今の僕には唯一の道標だった。


僕はナイフを自分の喉元、頸動脈の真上に当てた。母さんは今頃、スーパーで買ってきた食材で、僕の好きな煮物を作っているだろう。


「帰ったら、待ってるから一緒に食べましょ!」


その最後の微笑みが、網膜の裏に焼き付いて離れない。


「ごめん」


僕は一気に刃を突き立て、真横になぎ払った。喉の奥でゴボリと音がして、酸素を求めて肺が虚しく鳴動する。視界が急激に暗転していく。


床に沈み込む僕の意識の中で、警報音は次第に遠ざかり、逃げ場のない静寂が僕を包み込んでいった。母が磨き続けてくれた靴は、もう、二度と歩き出すことはなかった。




『犠牲と偽聖』完結

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