9話
その日の夕方、屋敷の空気は穏やかなままだった。日が傾き、障子越しの光が柔らかく部屋に差し込む。誰かの笑い声、食事の支度の音、何気ない会話。何も知らなければ、ただの静かな時間にしか見えない。けれど今は違う。見えないだけで、確実に準備が進んでいる。人の動きに無駄がない。さりげなく配置が変わっている。普段なら気づかないような違いが、はっきりと分かる。
(もう戻れない)
最初にここへ来たときの、何も分からず焦っていた自分とは違う。今は知っている。この場所で何が起きるのか。この時間がどれだけ脆いのか。それを知った上で、ここにいる。
廊下を歩いていると、数人の隊員が集まっていた。さっきまでと同じように談笑している。けれど、その立ち位置が微妙に違う。死角を作らない配置。誰かが必ず入口を見ている。
(変わってる)
表面はそのままでも、中身は違う。土方の指示が回っているのだとすぐに分かる。
「お、来た」
声をかけられる。いつも通りの軽い調子。
「飯、もうすぐだぞ」
「……ああ」
自然に返す。少しずつ、このやり取りにも慣れてきている自分がいる。
「今日はやけに静かだな」
別の隊員が言う。
「そうか?」
「なんつーか、変な感じしねぇ?」
何気ない会話。でも、その言葉に反応してしまう。
(気づいてる……?)
完全じゃない。でも、何かを感じ取っている。
「気のせいだろ」
別の隊員が笑う。
「せっかくの休みだぞ」
その言葉で、空気が少しだけ軽くなる。
(……違う)
違和感は確かにある。でも、それを深く考えないようにしているだけだ。知らない方が楽だから。気づかないふりをしている。
その優しさが、やっぱり重い。
食事の時間になると、いつも通り人が集まる。広間に座り、料理が運ばれる。変わらない光景。でも、今はこの場所が“戦場になる”と知っている。
(ここで……)
視線が自然と入口に向く。出口の数、位置、人の流れ。無意識に確認している。
「どうした?」
隣の隊員が覗き込む。
「……何でもない」
すぐに視線を戻す。
「そうか」
それ以上は聞かない。
食事が始まる。箸を動かしながらも、意識は完全に別のところにある。音、動き、配置。全部が気になる。
(まだ大丈夫)
今はまだ平和だ。あの日はまだ来ていない。
そのとき、視線の端に土方の姿が入る。少し離れた位置で座っている。普段と変わらないように見える。でも、その目は全体を見ている。会話にはほとんど参加していない。ただ観察している。
(全部見てる)
安心と同時に、緊張が走る。
食事が進むにつれて、空気はさらに柔らかくなる。酒が入る者も出てきて、笑い声が大きくなる。
「お前も飲めよ」
杯を差し出される。
「……いらない」
即答する。
「固いなぁ」
笑われる。
(飲んでる場合じゃない)
そう思う。でも、それを言うわけにはいかない。
「体調でも悪いのか?」
別の隊員が気遣う。
「……問題ない」
短く返す。
そのとき、ふと気づく。視線が集まっている。違和感のある視線ではない。心配するような、柔らかい視線。
(……やめて)
胸が少し痛む。
優しくされるほど、苦しくなる。
そのとき。
「……下がれ」
低い声が落ちる。
一瞬で空気が変わる。
視線が一斉に向く。
土方が立っていた。
「酒は控えろ」
短い指示。
誰も反論しない。
「……どうしたんだよ」
軽く聞く者もいる。
「念のためだ」
それだけ。
でも、その一言で空気が締まる。
(始まってる)
まだ何も起きていない。でも、確実に“準備”の段階から“対応”の段階に変わっている。
食事はそのまま続く。けれど、さっきまでの緩さは消えている。酒の量が減る。声のトーンが少し下がる。何も言わなくても、全員が理解している。
(すごい……)
統率されている。無理に押さえつけているわけじゃない。ただ、一言で空気が変わる。
これが、この人たちの強さだと分かる。
食事が終わり、自然と人が散っていく。表面上はいつも通り。でも、その裏で動きがある。配置が変わる。見えないところで、人が動く。
私はその場に少しだけ残っていた。立ち上がるタイミングを逃している。
「来い」
後ろから声がかかる。
振り返る。
土方が立っていた。
「……ああ」
立ち上がり、ついていく。
廊下に出ると、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに静かだった。人の気配はある。でも、音が少ない。
「今夜は警戒を上げる」
歩きながら言う。
「……来るのか」
思わず聞く。
「まだだ」
即答。
「だが、近い」
その言葉で、背筋が冷える。
「兆しはある」
淡々と続ける。
「外の動きが妙だ」
自分には分からない部分。でも、確実に何かを掴んでいる。
「……そうか」
それしか言えない。
「お前はそのままでいい」
いつもの指示。
「妙なことはするな」
「……ああ」
頷く。
「だが」
一拍置く。
「何か感じたら、すぐ言え」
視線が向く。
「どんな小さなことでもだ」
「……わかった」
はっきりと答える。
そのとき、風が吹いた。廊下の端の障子がわずかに揺れる。ほんの小さな変化。
でも。
(……今の)
何か引っかかる。
理由は分からない。ただ、違和感がある。
「……どうした」
土方がすぐに気づく。
「……今」
言葉を探す。
「……風」
曖昧な説明。
「……おかしい」
自分でも何がどうおかしいのか分からない。でも、確実に引っかかる。
土方はすぐに障子の方を見る。
静かに近づき、手をかける。
開く。
外は暗い。風は確かに吹いている。でも、それだけだ。
「……気のせいか」
そう言いかけた瞬間。
土方の目がわずかに細くなる。
「……いや」
空気が変わる。
「……人の気配がねぇ」
その一言で、背筋が凍る。
(さっきまで……)
確かにあった。外にも人がいたはずだ。
でも、今は。
静かすぎる。
音が、ない。
「……下がれ」
低い声。
体が勝手に動く。
一歩、後ろに下がる。
心臓が強く打つ。
(来る)
まだ見えない。
まだ何も起きていない。
でも。
確実に。
「……始まるぞ」
土方の声が、静かに落ちた。
その言葉と同時に、空気が完全に変わる。
平和な時間は、終わった。
ここから先は。
本当に、命をかけた時間になる。




