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「嘘から始まる一週間」  作者: 柑橘みかん


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9/24

9話

 その日の夕方、屋敷の空気は穏やかなままだった。日が傾き、障子越しの光が柔らかく部屋に差し込む。誰かの笑い声、食事の支度の音、何気ない会話。何も知らなければ、ただの静かな時間にしか見えない。けれど今は違う。見えないだけで、確実に準備が進んでいる。人の動きに無駄がない。さりげなく配置が変わっている。普段なら気づかないような違いが、はっきりと分かる。


 (もう戻れない)


 最初にここへ来たときの、何も分からず焦っていた自分とは違う。今は知っている。この場所で何が起きるのか。この時間がどれだけ脆いのか。それを知った上で、ここにいる。


 廊下を歩いていると、数人の隊員が集まっていた。さっきまでと同じように談笑している。けれど、その立ち位置が微妙に違う。死角を作らない配置。誰かが必ず入口を見ている。


 (変わってる)


 表面はそのままでも、中身は違う。土方の指示が回っているのだとすぐに分かる。


 「お、来た」


 声をかけられる。いつも通りの軽い調子。


 「飯、もうすぐだぞ」


 「……ああ」


 自然に返す。少しずつ、このやり取りにも慣れてきている自分がいる。


 「今日はやけに静かだな」


 別の隊員が言う。


 「そうか?」


 「なんつーか、変な感じしねぇ?」


 何気ない会話。でも、その言葉に反応してしまう。


 (気づいてる……?)


 完全じゃない。でも、何かを感じ取っている。


 「気のせいだろ」


 別の隊員が笑う。


 「せっかくの休みだぞ」


 その言葉で、空気が少しだけ軽くなる。


 (……違う)


 違和感は確かにある。でも、それを深く考えないようにしているだけだ。知らない方が楽だから。気づかないふりをしている。


 その優しさが、やっぱり重い。


 食事の時間になると、いつも通り人が集まる。広間に座り、料理が運ばれる。変わらない光景。でも、今はこの場所が“戦場になる”と知っている。


 (ここで……)


 視線が自然と入口に向く。出口の数、位置、人の流れ。無意識に確認している。


 「どうした?」


 隣の隊員が覗き込む。


 「……何でもない」


 すぐに視線を戻す。


 「そうか」


 それ以上は聞かない。


 食事が始まる。箸を動かしながらも、意識は完全に別のところにある。音、動き、配置。全部が気になる。


 (まだ大丈夫)


 今はまだ平和だ。あの日はまだ来ていない。


 そのとき、視線の端に土方の姿が入る。少し離れた位置で座っている。普段と変わらないように見える。でも、その目は全体を見ている。会話にはほとんど参加していない。ただ観察している。


 (全部見てる)


 安心と同時に、緊張が走る。


 食事が進むにつれて、空気はさらに柔らかくなる。酒が入る者も出てきて、笑い声が大きくなる。


 「お前も飲めよ」


 杯を差し出される。


 「……いらない」


 即答する。


 「固いなぁ」


 笑われる。


 (飲んでる場合じゃない)


 そう思う。でも、それを言うわけにはいかない。


 「体調でも悪いのか?」


 別の隊員が気遣う。


 「……問題ない」


 短く返す。


 そのとき、ふと気づく。視線が集まっている。違和感のある視線ではない。心配するような、柔らかい視線。


 (……やめて)


 胸が少し痛む。


 優しくされるほど、苦しくなる。


 そのとき。


 「……下がれ」


 低い声が落ちる。


 一瞬で空気が変わる。


 視線が一斉に向く。


 土方が立っていた。


 「酒は控えろ」


 短い指示。


 誰も反論しない。


 「……どうしたんだよ」


 軽く聞く者もいる。


 「念のためだ」


 それだけ。


 でも、その一言で空気が締まる。


 (始まってる)


 まだ何も起きていない。でも、確実に“準備”の段階から“対応”の段階に変わっている。


 食事はそのまま続く。けれど、さっきまでの緩さは消えている。酒の量が減る。声のトーンが少し下がる。何も言わなくても、全員が理解している。


 (すごい……)


 統率されている。無理に押さえつけているわけじゃない。ただ、一言で空気が変わる。


 これが、この人たちの強さだと分かる。


 食事が終わり、自然と人が散っていく。表面上はいつも通り。でも、その裏で動きがある。配置が変わる。見えないところで、人が動く。


 私はその場に少しだけ残っていた。立ち上がるタイミングを逃している。


 「来い」


 後ろから声がかかる。


 振り返る。


 土方が立っていた。


 「……ああ」


 立ち上がり、ついていく。


 廊下に出ると、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに静かだった。人の気配はある。でも、音が少ない。


 「今夜は警戒を上げる」


 歩きながら言う。


 「……来るのか」


 思わず聞く。


 「まだだ」


 即答。


 「だが、近い」


 その言葉で、背筋が冷える。


 「兆しはある」


 淡々と続ける。


 「外の動きが妙だ」


 自分には分からない部分。でも、確実に何かを掴んでいる。


 「……そうか」


 それしか言えない。


 「お前はそのままでいい」


 いつもの指示。


 「妙なことはするな」


 「……ああ」


 頷く。


 「だが」


 一拍置く。


 「何か感じたら、すぐ言え」


 視線が向く。


 「どんな小さなことでもだ」


 「……わかった」


 はっきりと答える。


 そのとき、風が吹いた。廊下の端の障子がわずかに揺れる。ほんの小さな変化。


 でも。


 (……今の)


 何か引っかかる。


 理由は分からない。ただ、違和感がある。


 「……どうした」


 土方がすぐに気づく。


 「……今」


 言葉を探す。


 「……風」


 曖昧な説明。


 「……おかしい」


 自分でも何がどうおかしいのか分からない。でも、確実に引っかかる。


 土方はすぐに障子の方を見る。


 静かに近づき、手をかける。


 開く。


 外は暗い。風は確かに吹いている。でも、それだけだ。


 「……気のせいか」


 そう言いかけた瞬間。


 土方の目がわずかに細くなる。


 「……いや」


 空気が変わる。


 「……人の気配がねぇ」


 その一言で、背筋が凍る。


 (さっきまで……)


 確かにあった。外にも人がいたはずだ。


 でも、今は。


 静かすぎる。


 音が、ない。


 「……下がれ」


 低い声。


 体が勝手に動く。


 一歩、後ろに下がる。


 心臓が強く打つ。


 (来る)


 まだ見えない。


 まだ何も起きていない。


 でも。


 確実に。


 「……始まるぞ」


 土方の声が、静かに落ちた。


 その言葉と同時に、空気が完全に変わる。


 平和な時間は、終わった。


 ここから先は。


 本当に、命をかけた時間になる。


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