8話
木刀を握る手にじんわりと汗が滲む。さっきまでの軽い打ち合いとは違う、明確な緊張が場に落ちていた。目の前に立つ土方は一切の無駄がない。構えも視線も、何もかもが整っている。対して自分は形だけの構えで、どこから崩れてもおかしくない状態だと分かっている。それでも逃げる気はなかった。逃げたところで、何も変わらないと知っているからだ。
「構えが甘い」
低い声が落ちる。
「……どこがだ」
反射で返すが、自分でも分かっている。全部だ。
「全部だ」
やはりそう返ってくる。
土方は一歩踏み込む。距離が一気に詰まる。視界が揺れる。
「力を入れすぎだ」
言われた瞬間、握り込んでいた手の力に気づく。無意識に強く握りすぎている。
「……」
力を抜こうとするが、うまくいかない。怖さが先に立つ。
「抜け」
短く言われる。
意識して、少しだけ力を緩める。木刀の重さが変わる。
「構え直せ」
言われた通りに動く。ぎこちない。形になっているかも分からない。
土方は何も言わず、こちらを見ている。その沈黙が、さっきよりも重い。
(見られてる)
ただ見ているだけなのに、逃げ場がない感覚になる。
「……来るぞ」
その一言の直後、動いた。速い。さっきよりも明らかに速い。反応が遅れる。咄嗟に木刀を上げるが、軌道がずれている。軽く弾かれる。衝撃が腕に伝わる。
「遅い」
すぐに次が来る。今度は少しだけ見えた。さっきよりも、ほんの少しだけ。体が勝手に動く。受ける。ぶつかる音が鳴る。
「今のは悪くねぇ」
短い評価。ほんのわずかでも、言葉が返ってくるだけで感覚が変わる。
(できた)
ほんの一瞬でも、防げた。それだけで違う。
「だが、続かねぇ」
すぐに現実に引き戻される。次の一撃。今度は受けきれない。木刀が押し切られる。体勢が崩れる。
「……っ」
踏みとどまるので精一杯。
「足だ」
土方の声。
「上ばっか見てんじゃねぇ」
言われて初めて気づく。視線が完全に木刀だけに向いていた。足が見えていない。
(だから遅れる)
理解する。頭では。でも体が追いつかない。
「もう一度」
構え直す。呼吸を整える。浅い呼吸を無理やり深くする。
(見る)
今度は足も視界に入れる。全部を見る。無理でも、やるしかない。
土方が動く。さっきと同じようで、少し違う軌道。迷う。どこを見るべきか一瞬で判断できない。結果、遅れる。受けきれない。
衝撃。
腕が痺れる。
「判断が遅ぇ」
当然の指摘。
(分かってる)
悔しさが込み上げる。でも止まらない。
「続けるぞ」
その一言で、休みはないと理解する。
何度も繰り返す。打ち込まれて、受けて、崩れて、立て直して。また打ち込まれる。体がついていかない。腕が重い。呼吸が乱れる。それでも止まらない。
「止まるな」
短く言われる。
止まりそうになるたびに、その声で繋ぎ止められる。
(やるしかない)
理由はもう十分だ。守るため。変えるため。そのために必要なら、どれだけでもやる。
何度目かの打ち込みで、ようやく一瞬だけ流れが読めた。完全じゃない。でも、ほんの少しだけ先が見えた。体がそれに合わせて動く。受ける。ずれる。完全には防げないが、さっきよりも崩れない。
「……今のだ」
土方の声が少しだけ変わる。
「感覚を覚えろ」
その言葉が、強く残る。
(今の)
さっきの動き。完全じゃなかった。でも、見えた。初めて“追いついた”感覚があった。
「もう一度」
自分から言う。言葉が自然に出る。
土方は一瞬だけこちらを見る。
「……ああ」
短く答える。
再び構える。さっきよりも、少しだけ視界が広い。全部は見えない。でも、何も見えなかった最初よりは確実に違う。
動きが来る。今度は足を見る。重心を見る。完全には分からない。でも、方向は読める。体が先に動く。受ける。衝撃が走る。でも、崩れない。
(いける)
ほんの少しだけ、自信が生まれる。
その瞬間。
別の角度から来る。
対応できない。
崩れる。
「甘ぇ」
即座に落とされる。
でも、それでいい。
(まだ足りない)
分かっている。最初から完璧なんて無理だ。でも、さっきよりは確実に前に進んでいる。
気づけば、息が上がっていた。腕も足も重い。体が限界に近い。
「……今日はここまでだ」
土方が木刀を下ろす。
終わった瞬間、力が抜ける。膝が少しだけ揺れる。なんとか立つ。
「……」
言葉が出ない。ただ呼吸を整えるので精一杯。
「最低限は教えた」
淡々とした声。
「忘れんな」
「……ああ」
かすれた声で返す。
悔しさもある。できないことの多さに対する苛立ちもある。でも、それ以上に。
(できた)
ほんの少しだけでも、できた感覚がある。それが大きい。
「……ありがとう」
思わず出た言葉に、自分でも驚く。
土方は一瞬だけこちらを見る。
「礼はいらねぇ」
短く言う。
「使えるようになれ」
それだけ。
でも、それで十分だった。
(なる)
その言葉が、そのまま目標になる。
木刀を握り直す。さっきよりも重さが違って感じる。ただの重さじゃない。意味のある重さ。
(守るための力)
まだ弱い。でも、ゼロじゃない。
空を見上げる。日が少し傾いている。時間は確実に進んでいる。
(間に合う)
根拠はない。でも、そう思わないと前に進めない。
だから信じる。
このままじゃ終わらない。
変えられる。
そのために、ここにいる。
そのために、動いている。
そのために――強くなる。
胸の奥に、静かに火が灯る感覚があった。




