7話
準備に入ると決めた瞬間から、屋敷の空気は少しずつ変わり始めた。表向きは何も変わらない。笑い声もあるし、食事も出るし、誰も慌てている様子はない。けれど、よく見れば分かる。人の動きが微妙に変わっている。立ち位置、視線の配り方、会話の間。表に出さないだけで、確実に何かが始まっている。
(動いてる)
自分の知らないところで、でも確実に。
私はいつも通りを装って廊下を歩く。低い声を意識しながら、堂々と。最初よりも慣れてきている自分に気づく。違和感はある。でも、それを押し込めることに少しずつ慣れている。
(これでいい)
変に崩れる方が危険だ。
すれ違う隊員たちは、相変わらず優しい。話しかけてくるし、気遣ってくる。でも、その中にほんの少しだけ違うものが混ざっている。視線の奥にある、観察。気づいている上での距離。
「よく寝れたか?」
「……問題ない」
「そうか」
それ以上は聞かない。踏み込まない。その優しさが、逆に重い。
(守られてる)
そう思ってしまう。知らないふりをされている。見逃されている。
その事実が、少しだけ胸に刺さる。
廊下を抜けて外に出る。空気が少し冷たい。日差しはあるのに、どこか落ち着かない。時間が進んでいる。確実に、あの日に近づいている。
庭の端で、数人の隊員が木刀を持っていた。軽い打ち合いをしている。訓練というほどでもない、遊びに近い空気。でも、その動きは無駄がない。
「お、来た」
一人がこちらに気づく。
「やるか?」
軽く木刀を振る。
(やばい)
一瞬で理解する。これは無理だ。自分は剣なんてまともに扱えない。
「……いい」
短く断る。
「遠慮すんなって」
近づいてくる。
「軽くだけだ」
逃げ場がない。
(どうする)
断り続けるのは不自然。でも、やれば一瞬でバレる。
「……見てる」
なんとか言葉を絞り出す。
「今はな」
それっぽく聞こえるかは分からない。
隊員は一瞬考えたあと、肩をすくめた。
「そっか」
あっさり引く。
「じゃあ、見てろ」
そのまま木刀を構える。
(助かった……)
内心で大きく息を吐く。でも同時に、強く思う。
(このままじゃダメだ)
戦えない。守ると言っておきながら、何もできない。
視線を向けると、隊員たちは軽やかに動いている。無駄がない。速い。強い。
(全然違う)
自分との差を突きつけられる。
そのとき。
「……逃げる気か」
後ろから声が落ちる。
振り返る。
土方が立っていた。
「……違う」
即座に返す。でも説得力はない。
「そうか」
短く言うだけ。
その視線は、木刀ではなくこちらに向いている。
「やれ」
言われる。
「……は?」
思考が止まる。
「軽くでいい」
逃げ場を塞ぐ言葉。
「……」
断れない。
木刀を受け取る。重い。慣れていない重さ。
(無理)
でも、やるしかない。
構える。見よう見まね。形だけ。
向かいに立つ隊員が、少しだけ動きを緩める。
「いくぞ」
軽い声。
次の瞬間、踏み込まれる。
速い。
反応が遅れる。
咄嗟に振る。
当たらない。
逆に、軽く叩かれる。
「……っ」
衝撃が腕に走る。
(弱い)
自分でも分かる。
もう一度来る。
今度は少し見える。
でも体が追いつかない。
受けるだけで精一杯。
「……」
数合で、完全に差が出る。
息が乱れる。
腕が重い。
止められない。
最後に軽く弾かれ、木刀が手から離れる。
地面に落ちる音。
静寂。
「……悪い」
相手が気まずそうに言う。
「……いや」
声がかすれる。
悔しい。
何もできない。
守るどころじゃない。
(こんなんで……)
視線が下がる。
そのとき。
「……そんなもんだ」
土方の声。
顔を上げる。
「最初からできるやつはいねぇ」
淡々とした口調。
でも、否定ではない。
「だが」
一歩近づく。
「できねぇままなら、意味はねぇ」
真っ直ぐな言葉。
逃げ道がない。
「……ああ」
小さく頷く。
悔しさが、そのまま力に変わる。
「……教えろ」
気づけば、そう言っていた。
自分でも驚く。
でも、言わないと進めない。
土方は一瞬だけ目を細めた。
「……言うじゃねぇか」
わずかに口元が動く。
「いい」
短く答える。
「最低限でいいならな」
それで十分だ。
「……頼む」
はっきりと言う。
もう逃げない。
その意思だけは、ちゃんと伝えたかった。
土方は木刀を拾い、こちらに渡す。
「構えろ」
その一言で、空気が変わる。
さっきまでの軽い空気とは違う。
本物の空気。
(始まる)
怖さもある。
でも、それ以上に。
(やっと進める)
そう思えた。
ぎこちなく構える。
土方が正面に立つ。
視線がぶつかる。
逃げ場はない。
でも。
逃げない。
その覚悟だけは、もう決まっていた。




