6話
屋敷に戻ってから、空気の見え方が変わった。同じ廊下、同じ柱、同じ笑い声なのに、どこを見ても「終わり」の形が重なって見える。ここで倒れていた、ここで誰かが叫んでいた、ここで血が跳ねていた。さっきまで曖昧だった記憶が、場所と結びついていく。現実としての重さが増していく。
(時間はまだある)
そう思い込むしかない。焦れば崩れる。崩れたら何もできない。
土方はそのまま奥の部屋に入った。私も続く。中は簡素な造りで、余計なものは置かれていない。机と座布団、壁際に地図のような紙が広げられている。さっきまでここで何かをしていたのか、筆が置かれたままだった。
「座れ」
短く言われる。
「……ああ」
向かいに座ると、土方は紙を広げ直した。屋敷の見取り図だとすぐに分かる。細かく描かれているわけではないが、主要な部屋や通路は把握できる程度には整っている。
「お前の記憶、ここに当てはめる」
指で紙の上をなぞる。
「曖昧でもいい。位置を絞る」
「……わかった」
自分の頭の中にある断片を、無理やり引きずり出す。曖昧な輪郭を、現実の線に重ねる。
「……ここ」
広間の位置を指す。
「……人が集まる」
土方は頷き、そこに印をつける。
「次」
「……こっちの通路」
逃げようとしていた場所。袋小路になるところ。
「……詰まる」
「誘導路だな」
迷いなく書き込む。
「他」
促されるたびに、記憶を絞り出す。曖昧で、断片的で、それでも確かに見たもの。
「……裏」
さっきの扉の方向を指す。
「……あそこ、最初じゃない」
言いながら、自分でも確信が強くなる。
「……最後のあとに見た」
つまり、あの場所は結果の集積だ。最初の戦場ではない。
土方の動きが一瞬止まる。
「……運ばれてる、ってことか」
「……たぶん」
完全ではない。でも繋がる。
「なら、主戦場は別だ」
紙の上で線が引かれる。広間と通路、その間の動線。
「囲んで、追い込む形になる」
現実的な戦術として整理されていく。自分の曖昧な恐怖が、形を持った情報に変わっていく。
(すごい……)
ただ見ていただけの断片が、ここまで整理される。自分一人では絶対にできなかった。
「……ここは」
思わず別の場所を指す。あまりはっきりしていない部分。
「……音がした」
「どんなだ」
「……重い」
言葉にしにくい感覚。でも、確かにあった。
「……壁の向こう」
土方はその位置を見て、周囲を確認する。
「……隠し通路か」
小さく呟く。
「ある可能性は高いな」
紙に新たな線が加わる。
「全部、繋がる」
そう言ったとき、自分でも驚くほど声がはっきりしていた。怖さよりも、理解が先に来ている。
「……いい」
土方は一度手を止める。
「ここまでで十分だ」
紙を軽く叩く。
「これで動ける」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。まだ何も解決していないのに、確かに前に進んでいる感覚がある。
「……あとは」
土方が顔を上げる。
「人数とタイミングだ」
そこが一番分からない部分。
「……覚えてないか」
「……」
首を振るしかない。そこだけはどうしても抜けている。
「……そうか」
短く言って、視線を外す。
「なら、こっちで拾う」
その一言で、役割が分かれる。
(任せるしかない)
悔しさもある。でも現実的に考えれば、それが正しい。
「……俺は何をすればいい」
自然とその言葉が出る。
土方は少しだけこちらを見た。
「“俺”な」
わずかに口元が動く。
「……何だ」
反射的に返す。
「いや、いい」
それ以上は言わない。
(……やっぱり)
気づいている。確信に変わる。でも、それでも何も言わない。
「お前はそのまま動け」
話を戻す。
「今まで通りでいい」
「……いいのか」
「変に変わる方が目立つ」
合理的な判断。
「それと」
一拍置く。
「気づいたことは全部言え」
視線がまっすぐ向けられる。
「どんな小さなことでもいい」
「……わかった」
はっきりと頷く。
そのとき、襖の向こうで足音が止まった。
「土方さん」
軽い声。
「入るぞ」
返事を待たずに開く。
沖田が顔を出した。
「……話、終わった?」
視線がこちらに向く。相変わらず穏やかで、どこか底が見えない。
「……ああ」
土方が短く答える。
「ふーん」
ゆっくりと中に入ってくる。
「その子、どうするの」
言い方は柔らかいのに、内容ははっきりしている。
「……使う」
即答。
沖田の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「へぇ」
興味深そうにこちらを見る。
「信用したの?」
「してねぇ」
間を置かない。
「だが、捨てる理由もねぇ」
それだけ。
沖田は数秒、こちらを見つめたあと、ふっと笑った。
「いいよ」
軽く言う。
「面白そうだし」
その一言に、背筋がわずかに冷える。
(やっぱり、見られてる)
全部、見透かされている気がする。
「でもさ」
一歩近づいてくる。
「嘘は下手だよね」
心臓が跳ねる。
「……何のことだ」
低い声を維持するのがやっと。
沖田は少しだけ首を傾ける。
「そのままでいいと思うけど」
意味深な言い方。
「無理してる方がバレるよ」
にこっと笑う。
何も否定しない。
何も断定しない。
でも全部言っている。
「……」
言葉が出ない。
土方は何も言わない。ただ、そのやり取りを見ている。
「ま、いいや」
沖田はあっさり引く。
「土方さんがいいなら、それでいい」
くるりと背を向ける。
「遊びすぎないでね」
最後にそれだけ言って、部屋を出ていった。
襖が閉まる。
静寂が戻る。
(……終わった)
いろんな意味で。
完全に、バレている。
それでも、何も変わらない。
「……気にすんな」
土方の声が落ちる。
顔を上げる。
「……」
何を言えばいいかわからない。
「今さらだ」
それだけ言う。
確かにそうだ。昨日からずっと、違和感はあった。気づいていないのは自分だけだったのかもしれない。
「……ああ」
小さく返す。
不思議と、少しだけ楽になっている自分がいた。
隠しきれていないなら、最初から全部見られている。
なら。
(やることは変わらない)
守る。
変える。
それだけだ。
土方は再び紙に視線を落とした。
「準備に入る」
その言葉で、空気が変わる。
遊びは終わり。
本番が始まる。
私は深く息を吸った。
怖さは消えない。
でも、それでも。
ここにいる理由は、もうはっきりしている。
逃げるためじゃない。
戦うためでもない。
変えるために、ここにいる。
その覚悟だけが、静かに胸の中に根を張っていた。




