5話
扉が閉まったあとも、胸の奥に残った感触は消えなかった。鉄の匂い、湿った空気、重なった人の形。目を閉じても焼き付いて離れない。けれど歩き出さなければならない。土方は何も言わずに前を進む。その背中は変わらず無駄がなく、迷いもない。さっきまでと同じようでいて、どこか違う。ほんのわずかに、速度が落ちている気がした。こちらに合わせているのか、それとも考えているのかは分からない。
(信じた……わけじゃない)
そう思う。完全に信じたわけではない。けれど、完全に否定もしなかった。その“中間”が、今の自分にとっては何より大きい。ここに残れる理由ができた。動ける理由ができた。
屋敷の表側に戻ると、さっきまでと同じように人の気配が戻ってくる。笑い声、足音、何気ない会話。あの扉の向こうと同じ場所とは思えないほど、空気が違う。平和で、軽くて、現実感が薄い。
(この人たちが……)
胸の奥が締めつけられる。今見た光景と、目の前の光景が繋がらない。けれど繋がっている。全部、同じ場所で起きる。
「おい」
低い声に引き戻される。
「……ああ」
顔を上げると、土方がこちらを見ていた。
「今から少し動く」
短く告げられる。
「……何をする」
問いながらも、心の中では予想がついている。準備だ。何かしら動き始める。
「まずは確認だ」
視線が屋敷の方へ向く。
「人の流れ、配置、出入り口」
淡々とした口調。でも、その内容は現実的で、具体的だ。
「お前の話が本当だとしても、場所も時間も曖昧じゃ意味がねぇ」
その通りだと思う。自分でもわかっている。情報が足りない。
「……ああ」
素直に頷く。
「覚えてる範囲でいい、違和感があれば全部言え」
命令というより、確認に近い言い方。
「……わかった」
そう返しながら、頭の中を必死に探る。夢の断片。繰り返し見た光景。どこまで役に立つかは分からない。でも出せるものは全部出さないといけない。
屋敷の中を歩きながら、視線を巡らせる。廊下、柱、障子、部屋の配置。見覚えがあるものと、曖昧なものが混ざっている。
(ここは……)
角を曲がった先の広間。夢で見た。人が集まっていた場所。笑っていた場所。
「……ここ」
足を止める。
土方も立ち止まる。
「……何だ」
「……人が集まる」
言葉を選びながら答える。
「……夜」
断片的でもいい。思い出せる限りを繋ぐ。
「……最後の前に、ここにいた」
完全な確証はない。でも、強く残っている記憶。
土方はその場を見渡す。広さ、柱の位置、出入口の数。
「……囲まれたら終わるな」
短く呟く。
その一言で、現実に引き戻される。ここはただの広間じゃない。戦場になる場所だ。
「他は」
次を促される。
歩きながら、さらに思い出す。
(廊下……逃げようとして)
「……あっち」
別の通路を指す。
「……走ってた」
「誰がだ」
「……みんな」
曖昧な答え。でも、あの光景ははっきりしている。必死に逃げていた。叫びながら。
土方はその通路を見て、少しだけ目を細める。
「……袋小路か」
奥を確認するように歩く。その先は行き止まり。確かに、逃げ場がない。
「……誘導された可能性があるな」
静かな声。分析している。
(ちゃんと考えてる)
その事実が、少しだけ安心になる。自分一人じゃない。この人は現実的に動いている。
「……まだあるか」
問われる。
「……」
必死に思い出す。でも、ここから先はぼやけている。血と音と恐怖で、細かい部分はほとんど残っていない。
「……ない」
悔しいけど、それが限界だった。
土方は少しだけ息を吐いた。
「十分だ」
短く言う。
「……は?」
思わず声が漏れる。
「これだけ分かりゃ、動きようはある」
当たり前のように言う。
「……本気で」
言いかけて、言葉が詰まる。
「……やるのか」
確認するように問う。
土方は一瞬だけこちらを見た。
「やらねぇ理由があるか」
その目に迷いはない。
「何もねぇまま死ぬよりは、動いた方がましだ」
当たり前のことを、当たり前に言う。
その言葉が、胸の奥に強く響く。
(この人……)
やっぱり、この人はそういう人だ。合理的で、冷静で、それでも止まらない。
「……ああ」
小さく頷く。
気づけば、少しだけ呼吸が楽になっていた。
「戻るぞ」
土方が踵を返す。
再び廊下を歩きながら、さっきまでとは違う感覚があった。怖さは消えていない。むしろ、現実を知った分だけ増えている。でも、それだけじゃない。
(変えられるかもしれない)
ほんのわずかだけど、そう思える。
そのとき、向こうから隊員たちがやってくる。さっきと同じように、柔らかい空気。
「お、戻ってきた」
「どうだった?」
気軽に声をかけてくる。
(この人たちも……)
胸が締めつけられる。
「……問題ない」
いつも通りの低い声で返す。
隊員たちはそれ以上深く聞かない。ただ、少しだけ安心したように笑う。
その笑顔が、やけに刺さる。
(守らないと)
強く思う。
理由なんてもういらない。
この人たちが、ここで笑っているこの時間を。
壊したくない。
そのためなら。
(偽物でもいい)
胸の奥で、静かに決意が固まる。
土方の背中を追いながら、私は一歩ずつ前に進んだ。
逃げるためじゃない。
変えるために。




