10話
土方の「始まるぞ」という一言が落ちた瞬間、屋敷の空気は音もなく張り詰めた。誰かが叫んだわけでも、鐘が鳴ったわけでもない。ただ、見えない糸が一斉に引かれたみたいに、人の気配が静かに整っていく。廊下の向こうで足音が変わる。歩幅が揃う。立ち位置がわずかにずれる。普段なら気づかないはずの変化が、はっきりと分かる。
(来る)
頭ではなく、体がそう理解していた。夢で何度も見た“直前の空気”と同じだ。何も起きていないのに、すべてが終わりに向かって収束していく感覚。逃げ場がなくなる前の、最後の静けさ。
土方は障子を閉め、こちらに一瞬だけ視線を向けた。その目に迷いはない。状況を受け入れ、すでに次の動きを決めている目だ。
「ついて来い」
短く言う。
「……ああ」
声が少しだけ震える。でも止まらない。
廊下を進む。さっきまで人の気配があった場所が、不自然に静かだ。完全にいなくなったわけじゃない。見えない位置に移動しているだけだと分かる。配置が変わった。見えないところで、囲う形に。
(準備できてる)
夢の中ではなかった動きだ。あのときはもっと無防備だった。笑って、油断して、そのまま崩れた。でも今は違う。明らかに違う。
角を曲がった先、広間の手前で数人の隊員が待機していた。視線が一斉に土方に向く。言葉はない。頷きだけで意思が通じる。
「配置そのまま」
土方が低く言う。
「不用意に動くな」
「了解」
短い返答。無駄がない。
そのやり取りを見て、胸の奥に少しだけ熱が灯る。
(いけるかもしれない)
まだ何も始まっていない。でも、この動きなら、あの結末を変えられる可能性がある。
そのとき。
外から、わずかな音がした。
足音。
でも、普通じゃない。揃いすぎている。隠そうとしているのに、完全には消しきれていない音。
「……来たな」
土方が呟く。
空気が一段階、重くなる。
「数は」
隊員の一人が小さく問う。
「まだ見えねぇ」
即答。
「だが、複数だ」
その言葉で、緊張がさらに増す。
(どこから来る)
視線を巡らせる。入口、窓、廊下の奥。全部が危険に見える。
夢の中の光景が蘇る。突然、どこからともなく現れた影。誰も対応できず、一気に崩れた。
(違う)
今は違う。分かっている。準備している。
それでも、怖い。
心臓の音がうるさい。呼吸が浅くなる。
「……落ち着け」
土方の声が落ちる。
自分に向けられたものじゃない。でも、はっきりと届く。
「焦るな」
その一言で、呼吸を無理やり整える。
(見る)
全部を見る。音、気配、動き。逃げずに。
次の瞬間。
屋敷の外から、乾いた音が響いた。
破壊音。
どこかの扉が破られた音。
「南だ」
誰かが言う。
「……動くな」
土方が即座に制する。
「引き込め」
短い指示。
その意味がすぐに分かる。迎え撃つんじゃない。中に入れて、囲む。
(あのときは……)
夢では、外で対応しようとして崩れた。だから今回は逆だ。
足音が近づく。複数。速い。迷いがない。場所を知っている動き。
(やっぱり……)
敵も、この屋敷を把握している。
廊下の奥に影が見えた。
一人じゃない。
二人、三人。
暗がりの中から現れる。
顔は見えない。でも、動きが異様に揃っている。
「……やれ」
土方の声。
その瞬間、空気が弾けた。
隊員たちが一斉に動く。無駄のない踏み込み。狙いを絞った一撃。
衝突音。
金属がぶつかる音。
短い叫び。
一瞬で戦闘になる。
(速い)
目で追うのがやっとだ。さっきの訓練とは比べ物にならない。動きが違う。重さが違う。命がかかっている。
敵の動きも異様だった。無駄がない。迷いがない。まるで何度も同じ動きを繰り返しているみたいに、正確に動く。
(これ……)
嫌な予感が強くなる。
ただの敵じゃない。
この戦いを、知っている動き。
「下がれ」
土方の声。
気づけば、自分は少し前に出ていた。無意識に。
「……ああ」
一歩下がる。
でも目は離せない。
戦いは一瞬で決着がついた。数では敵の方が少なかった。囲まれた時点で勝負は決まっていた。
最後の一人が倒れる。
静寂。
息を整える音だけが残る。
「……終わりか?」
誰かが言う。
「まだだ」
土方が即座に否定する。
「これは様子見だ」
その言葉で、背筋が冷える。
(やっぱり)
これで終わるわけがない。あの夢の規模じゃない。
「引き締めろ」
土方が周囲を見渡す。
「ここからが本番だ」
誰も返事はしない。でも、全員が理解している。
私はその場に立ったまま、呼吸を整えながら考える。
(変わってる)
確実に。
夢では、ここでもう崩れ始めていた。でも今は、まだ保っている。
(間に合う)
可能性がある。
そのとき。
足元に転がっていた敵の一人に目がいく。
顔が、少しだけ見える。
見覚えがある気がした。
(……?)
違和感。
夢で見た顔。
でも、違う。
完全には一致しない。
「……どうした」
土方の声。
「……こいつ」
指を差す。
「……見たことある」
言いながら、自分でも曖昧だと分かる。
「どこでだ」
「……夢で」
その言葉に、土方の目がわずかに細くなる。
「……そうか」
それだけ言う。
完全には信じていない。でも、無視もしない。
「覚えとけ」
短く言う。
「似たやつが来る」
その一言で、理解する。
(繰り返してる)
敵も。
この戦いも。
全部。
だから。
(まだ終わらない)
むしろ、ここからだ。
土方が前を向く。
「配置、再確認」
声が落ちる。
動きが再び始まる。
私はその場に立ちながら、拳を握った。
怖い。
でも。
(逃げない)
もう決めた。
ここで終わらせる。
あの結末を、絶対に変える。
そのために、ここにいる。
その意思だけが、はっきりと胸の中で燃えていた。




