42話
夜明けが近づいていた。
東の空がゆっくりと白み始める。
長かった六日目の夜。
悪夢の終着点。
本来なら誰も生き残らなかった朝。
その境界線に、私たちは立っていた。
偽物の近藤は刀を下ろしたまま動かない。
敵軍もざわめいている。
誰も理解できていないのだ。
なぜ男が止まったのか。
なぜ戦うのをやめたのか。
私も分からない。
ただ。
男の顔から、あの不気味な余裕だけが消えていた。
疲れたような。
長い旅を終えたような。
そんな顔だった。
「終わりか」
男がぽつりと呟く。
誰へ向けた言葉でもない。
独り言みたいだった。
土方は答えない。
刀を構えたまま。
視線を逸らさない。
男はそんな土方を見て小さく笑う。
「お前らしいな」
その声に敵意はなかった。
「最後まで疑う」
「当たり前だ」
土方が言う。
「お前を信用する理由がねぇ」
男は肩を揺らす。
少しだけ笑った。
そして。
ゆっくりこちらを見る。
私を。
真っ直ぐ。
「怖かったか」
突然だった。
何を聞かれたのか分からない。
男は続ける。
「何度も」
静かな声。
「何度も死ぬ未来を見て」
胸が締めつけられる。
思い出す。
最初の夢。
何もできなかった夜。
死んでいく人たち。
土方の背中。
血。
炎。
全部。
怖かった。
泣きそうになるほど。
逃げたかったほど。
「……怖かった」
小さく答える。
男は頷く。
まるでそれで満足したみたいに。
「そうだろうな」
風が吹く。
夜の冷たさが少しずつ消えていく。
男は空を見る。
そして。
初めて寂しそうに笑った。
「私は超えられなかった」
誰に言うでもなく。
ぽつりと。
その言葉に。
私は何かを感じる。
この男は。
本当にただの悪人だったのだろうか。
いや。
やったことは許されない。
たくさんの人を死なせた。
苦しめた。
でも。
どこか壊れていた。
最初から。
ずっと。
男が一歩下がる。
敵軍がざわつく。
「お頭!」
誰かが叫ぶ。
男は振り返らない。
ただ。
静かに言う。
「終わりだ」
その一言で。
敵軍が揺れた。
信じられないものを見る顔。
動揺。
困惑。
怒り。
様々な感情が広がっていく。
「何を……」
「馬鹿な!」
叫び声が飛ぶ。
男は笑う。
そして。
月明かりの消えかけた空の下で。
初めて本物らしい顔をした。
近藤の顔じゃない。
誰かの真似でもない。
一人の人間の顔だった。
「負けだ」
静かな声。
それだけだった。
土方がゆっくり刀を下ろす。
周囲の隊士たちも理解できずにいる。
だが。
もう終わったのだと分かった。
男の目から戦意が消えていた。
完全に。
その時だった。
男の姿が揺らぐ。
私は目を見開く。
近藤の顔が崩れる。
輪郭が歪む。
霧みたいに。
光みたいに。
何かが剥がれていく。
周囲が息を呑む。
誰も動けない。
やがて。
そこに立っていたのは。
見たことのない男だった。
若い。
けれど妙に疲れた目をしている。
「……誰」
思わず呟く。
男は少しだけ笑った。
「ただの失敗作だ」
それだけだった。
そして。
夜明けの光が差し込む。
東の空から。
まっすぐ。
男へ。
その姿が薄れていく。
霧が晴れるみたいに。
「待っ……!」
思わず声が出る。
何を聞きたいのかも分からない。
でも。
終わらせたくなかった。
男は最後にこちらを見る。
優しく。
どこか救われたみたいな顔で。
「ありがとう」
そう言った。
そして。
消えた。
完全に。
朝日だけが残る。
静寂。
長い沈黙。
誰も言葉を失っていた。
やがて。
遠くで鳥が鳴く。
朝だった。
七日目の朝。
夢の中では訪れなかった朝。
私は立ち尽くしたまま空を見る。
終わった。
本当に。
全部。
気づいた瞬間。
全身から力が抜けた。
足が崩れる。
倒れそうになる。
でも。
地面へ落ちる前に支えられる。
分かっていた。
誰か。
振り返らなくても。
「終わったな」
土方だった。
低い声。
でも。
どこか安堵している。
私は頷く。
涙が出る。
今度は我慢できなかった。
怖かった。
苦しかった。
嬉しかった。
全部が溢れる。
土方は何も言わない。
ただ。
肩を抱く。
強く。
離さないように。
朝日が二人を照らす。
長かった悪夢は終わった。
そして。
ここから先は。
誰も知らない未来だった。




