3話
翌朝、目が覚めた瞬間にここが現実だと理解してしまう自分がいた。畳の硬さ、障子越しの柔らかい光、遠くから聞こえる人の気配。夢だった頃はもっと曖昧で、触れた感触もすぐに消えていたのに、今は全部がはっきりしている。逃げ場がないという意味での現実感が、じわじわと胸の奥に広がる。けれど同時に、まだ始まったばかりだという感覚もあった。あの惨劇までは時間がある。だからこそ、今のうちに動かなければならない。
体を起こしながら、昨日のことを思い返す。潜入は一応成功した。処分もされていないし、部屋も与えられた。土方の目の届くところに置かれているという状況も、逆に考えれば“自由に動ける範囲が保証されている”とも言える。問題は、ここからどうやって未来を変えるかだ。
(情報が足りない)
夢で見ていたのは断片的な光景だけだ。いつ、どこから、どれくらいの規模で敵が来るのか。具体的なことはほとんどわからない。ただ「全員死ぬ」という結果だけが、異様に鮮明に残っている。
そのとき、廊下から声が聞こえた。
「起きてるか?」
びくりと肩が揺れる。反射的に声を整える。
「……ああ」
襖が開き、若い隊員が顔を出した。昨日、声をかけてきた男だ。相変わらず表情は柔らかい。
「朝餉、できてるぞ」
「……そうか」
短く返すと、隊員は少しだけ笑った。
「無理して低い声出してるだろ」
一瞬、思考が止まる。
「……は?」
完全に素の反応が出かけるのを、なんとか抑える。
「いや、なんでもねぇ」
そう言って、くるりと背を向ける。
「早く来いよ」
軽い調子。そのまま去っていく。
取り残された空気が、妙に静かだった。
(……え)
今の、どういう意味。
頭の中で言葉を反芻する。無理して低い声。つまり――
(気づいてる……?)
心臓が一気に速くなる。いや、でも違う。あの言い方は、決定的な指摘ではなかった。軽口の延長みたいなものだ。からかわれただけかもしれない。
(大丈夫、大丈夫……)
自分に言い聞かせる。まだバレてない。たぶん。きっと。
そう思い込まないと、足が動かない。
部屋を出て食堂へ向かうと、すでに何人かの隊員が集まっていた。賑やかな空気。笑い声。夢で見た“平和な時間”そのものだ。
「お、来た」
「こっち座れよ」
自然に席を空けられる。断る理由もなく、そこに腰を下ろす。
(なんでこんな普通なの)
違和感が強くなる。昨日からずっと感じている、あの優しさ。怪しいはずなのに、誰も深く追及しない。むしろ、受け入れているような空気すらある。
食事が運ばれてくる。湯気の立つ味噌汁、白いご飯、焼き魚。普通の朝の光景。こんな時間が、このあと壊れるなんて信じられないくらい、穏やかだ。
「口に合うかわかんねぇけどな」
隣の隊員がそう言う。
「……問題ない」
箸を持つ手が、わずかに震える。気づかれないようにゆっくりと口に運ぶ。味はちゃんとする。現実だ。
「へぇ、ちゃんと食うんだな」
「当たり前だ」
少しだけ強めに返してしまう。しまった、と思った瞬間、隊員がくすっと笑った。
「怒んなって」
空気が柔らかい。あまりにも普通すぎて、逆に怖い。
そのとき、向かい側に座った男と目が合った。鋭い視線。笑っていない目。
沖田だ、と直感する。
「……ねえ」
穏やかな声なのに、どこか底が冷たい。
「君さ」
言葉が続く前に、喉が締まる。
「どこから来たの?」
周りの空気が、ほんの少しだけ静まる。試されている。そう直感する。
「……上だ」
またそれを言うのかと、自分でも思う。でも他に出てこない。
沖田は数秒、こちらを見つめたまま動かなかった。
やがて、ふっと笑う。
「そっか」
それ以上は何も言わない。
けれど、その視線だけはしばらく離れなかった。
(絶対、気づいてる……)
確信に近いものが胸に落ちる。昨日までの「もしかして」が、「やっぱり」に変わる。
でも、誰も言わない。
誰も追い詰めない。
それが逆に、怖い。
食事が終わり、自然と人が散っていく。私はその場に少しだけ残っていた。立ち上がるタイミングを見失っている。
そのとき、後ろから声が落ちた。
「……食ったか」
振り返らなくてもわかる。
「……ああ」
立ち上がると、すぐ近くに土方が立っていた。いつの間にいたのか分からない。気配が薄いわけじゃないのに、気づけなかった。
「来い」
短い一言。拒否する余地はない。
そのまま外へ連れ出される。庭に出ると、空気が一気に広がる。朝の光が眩しい。
「……どう思う」
突然の問いに、思考が止まる。
「……何がだ」
反射で返すと、土方は庭を見渡した。
「ここだ」
意味を考える。どう思うか。この場所を。
夢の光景が頭をよぎる。血に染まる庭。倒れている人影。
「……静かすぎる」
気づけば、そう答えていた。
土方の視線が、ゆっくりこちらに向く。
「ほう」
興味を持ったような、わずかな反応。
「理由は」
問われる。言葉を探す。嘘と本音が混ざる。
「……人が多い割に、音が軽い」
自分でも曖昧な説明。でも、完全な嘘ではない。
土方は少しだけ考え込むように目を細めた。
「……面白いこと言うじゃねぇか」
そう言って、ふっと息を吐く。
「しばらく付き合え」
それだけ言って、歩き出す。
また、ついていくしかない。
隣を歩きながら、胸の奥がざわつく。
(試されてる)
確実に。
それでも、逃げるわけにはいかない。
ここで引いたら、全部終わる。
あの結末も、変わらない。
だから。
(やるしかない)
恐怖も、不安も、全部抱えたまま。
私は、その背中を追い続けた。




