2話
廊下に戻った瞬間、空気が少しだけ変わっているのがわかった。視線の数が増えている。さっきまでと同じ場所なのに、どこか“見られている”感覚が強い。けれど私はそれを深く考えないようにした。考えたら崩れる。今はとにかく、バレていない前提で動き続けるしかない。
「……ああ」
低く声を出して、わざとらしく顎を引く。自分ではそれなりに様になっているつもりだった。実際のところ、喉は乾いていて、声は少し震えている。でも周りは何も言わない。むしろ、妙に静かに道を空ける。その反応を見て、内心で小さく息をついた。
(いけてる……?)
そう思った瞬間、少しだけ余裕が生まれる。さっきまでの焦りが、ほんのわずかに緩む。いけるかもしれない。このまま押し切れば、上手くやれるかもしれない。そう思ってしまったのが、たぶん最初の勘違いだった。
廊下の端で、数人の隊員がこちらを見てひそひそと話している。
「……誰だ、あれ」
「見ねぇ顔だな」
「いや、それより……」
声が小さくなって、続きを聞き取れない。けれど視線だけははっきり感じる。警戒、ではない。戸惑いと、少しの……好奇心?
(やっぱり怪しまれてる……?)
胸の奥がざわつく。けれど止まるわけにはいかない。ここで立ち止まったら終わりだ。私は視線を逸らさず、そのまま歩き続けた。
「おい」
横から声がかかる。反射的に肩が跳ねるのを必死に抑える。振り向くと、若い隊員が立っていた。表情は柔らかい。警戒している様子はない。
「……どこの隊の人だ?」
質問に、一瞬だけ言葉に詰まる。考えていなかった。設定が甘い。どうする。
「……上だ」
咄嗟に出た言葉に、自分でも意味がわからない。けれど隊員は一瞬きょとんとしたあと、なぜか納得したように頷いた。
「……ああ、そうか」
(そうか、じゃないでしょ)
内心で全力でツッコミを入れる。けれど表には出さない。むしろ軽く頷いてみせる。
「……ああ」
すると隊員は、それ以上何も聞いてこなかった。どころか、少しだけ姿勢を正す。
「何か用があれば呼んでくれ」
「……ああ」
なぜか通じている。いや、通じてないはずなのに、通じている風になっている。この状況が逆に怖い。でも助かっているのも事実だった。
(なんでこんなに……)
違和感がじわじわ広がる。でも考えるのは後だ。今はとにかく動く。
しばらく歩いていると、視線の質が変わっていることに気づいた。さっきまでの「怪しい」ではない。どちらかというと――やたら優しい。話しかけてくる隊員も、どこか気遣うような態度を取る。
「……疲れてないか?」
「部屋、案内しようか?」
「飯、もうすぐだぞ」
(え、なんでこんな優しいの……)
警戒されるどころか、妙に丁寧に扱われている。意味がわからない。でも悪い気はしない。むしろ少しだけ、安心してしまう自分がいる。
そのとき、後ろから静かな足音が近づいてきた。
「……随分、馴染んでるじゃねぇか」
振り返るまでもなくわかる声。背筋が伸びる。
土方歳三が、すぐ後ろに立っていた。
「……」
何か言わなきゃいけない。でも言葉が出てこない。さっきのやり取りを見られていたのかもしれない。そう思うと、急に不安が込み上げる。
「……悪くねぇ」
ぽつりと落ちた言葉に、思考が止まる。
「……は?」
思わず素が出そうになるのを、なんとか飲み込む。
「妙な真似さえしなきゃ、そのままでも問題ねぇ」
土方はそう言って、少しだけ目を細める。その視線は相変わらず鋭いままだが、さっきのような殺気はない。むしろ、どこか観察するような色が強い。
「……ついてこい」
短く言われ、反射的に頷く。
「……ああ」
土方の後ろを歩きながら、胸の鼓動が少しずつ落ち着いていくのを感じる。さっきまでの張り詰めた感覚が、わずかに緩む。
案内されたのは、一つの部屋だった。他の部屋よりも少しだけ奥まっていて、人の出入りが少なそうな場所。
「ここ使え」
「……いいのか」
思わず聞いてしまう。すると土方は肩をすくめた。
「どうせ空いてる」
それだけ言って、襖に手をかける。
「……逃げんなよ」
振り返らずに落とされた言葉に、心臓が強く跳ねた。
「逃げる気があるなら、とっくにやってるだろ」
その一言で、完全に見透かされている気がした。逃げない理由も、ここにいる理由も、全部。
でも、それでも何も言わない。
「……わかったな」
「……ああ」
声が少しだけかすれる。土方はそれ以上何も言わず、そのまま部屋を出ていった。
襖が閉まる音が、やけに大きく響く。
一人になった瞬間、力が抜けた。畳に座り込む。手が震えている。喉が乾いている。今さらになって、怖さが一気に押し寄せてくる。
(生きてる……)
とりあえず、今はまだ大丈夫だ。処分されていない。追い出されてもいない。ここにいられる。
それだけで、少しだけ救われる。
でも同時に、違和感も消えない。
(なんで……こんなに優しいの)
怪しいはずだ。どう考えてもおかしい存在だ。それなのに、誰も強く問い詰めない。むしろ、気遣うような態度ばかり。
思い出すのは、夢の中の光景だ。笑っていた人たち。普通に話していた人たち。その全員が、最後には――
胸が締めつけられる。
助けないと。
その思いだけは、はっきりしている。
けれど、その方法がわからない。
(このままじゃ……)
焦りが戻ってくる。時間はあるようで、ない。確実にあの日は近づいている。
そのとき、ふと気づく。
部屋の隅に、見覚えのある傷跡があった。
畳の端、柱の根元。小さなえぐれたような跡。
夢で見た。
ここに、血が飛んでいた。
息が止まる。
ゆっくりと近づいて、指で触れる。乾いた木の感触。血はない。でも、この場所だ。間違いない。
(……本当に起きる)
現実なんだと、突きつけられる。
怖い。
逃げたい。
でも、それ以上に。
(変えないと)
強く、そう思った。
誰も死なせたくない。
あの光景を、もう見たくない。
そのためなら、嘘でもなんでも使う。
偽物でもいい。
それでも。
「……やるしかない」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
けれどその決意だけは、確かに胸の中に残った。




