1話
夢だと、ずっと思っていた。
広い屋敷だった。木の軋む音、笑い声、酒の匂い。見知らぬはずの人たちが当たり前のようにそこにいて、私はその中に紛れている。ただ眺めているだけの夢。けれど最後だけは、いつも同じだった。
夜。静かすぎるほど静かな闇の中で、突然、すべてが壊れる。
悲鳴。血の匂い。刃が振り下ろされる音。
逃げ場はなく、助けも来ない。
そして、誰もいなくなる。
――そこで、いつも目が覚めていた。
はずだった。
目を開けたとき、最初に感じたのは畳の匂いだった。鼻の奥に入り込むような、乾いた草の匂い。ゆっくりと視界が開けると、見覚えのある天井がそこにある。夢で何度も見た、あの屋敷の天井。
心臓が嫌な音を立てた。
嘘でしょ。
起き上がる。手をつく。足を動かす。全部、ちゃんと動く。夢特有のふわふわした感じはない。現実みたいに、はっきりしている。
外から、笑い声が聞こえた。
あの声だ。何度も夢で聞いた声。
ぞっとする。
ここ、あの夢の中だ。
頭の中で、最後の光景が鮮明に蘇る。血、悲鳴、倒れていく人たち。全員、死ぬ。あの人たち、全員。
――まだ、間に合う。
立ち上がる。足が少し震える。でも止まれない。ここで何もしなかったら、また同じ結末になる。
助けないと。
私が、知ってる。
廊下に出ると、予想通りそこには人がいた。羽織を着た男たち。夢の中で何度も見た顔が混ざっている。胸の奥がざわつく。やっぱり、ここはあの場所だ。
新選組。
名前を思い出した瞬間、さらに現実味が増す。
どうする。どうする。
このままじゃ、ただの部外者だ。話も聞いてもらえない。下手をすれば追い出される。
――なら。
咄嗟に思いついたのは、最悪で最高の方法だった。
紛れ込めばいい。
上の立場の人間のフリをして、動かす。
できるわけない。でも、やるしかない。
私は踵を返して、浴場へ向かった。
男湯に入ると、当然誰もいない。昼間でよかったと、心底思う。並べられた隊服の一つを掴んで、急いで身につける。髪をまとめて、できるだけそれっぽく整える。
鏡に映った自分を見て、息を呑んだ。
……いける、かも。
いや、無理だろ。でも今はこれしかない。
喉を整える。できるだけ低く。
「……よし」
自分に言い聞かせて、外に出た。
廊下に戻ると、さっきより人が増えている。何人かの視線が、一斉にこちらに向いた。
やばい。
心臓が跳ねる。でも止まるな。
「……ああ」
とりあえず、低い声を出してみる。
沈黙。
(え、どう?いけてる?)
「……誰だ、あれ」
ひそひそ声が聞こえる。
バレた?
いや、まだだ。まだいける。
私は視線を逸らさず、堂々と歩いた。とにかく“それっぽく”。自分は偉い人間だと信じ込む。
そのまま角を曲がった瞬間、目の前に人影が立っていた。
「……止まれ」
低く、静かな声。
反射的に足が止まる。
顔を上げると、そこにいたのは、ひと目でわかるほど空気の違う男だった。
整った顔立ち。鋭い目。無駄のない立ち姿。
夢の中でも、何度も見た。
土方歳三。
「見ねぇ顔だな」
射抜くような視線が、まっすぐこちらに向けられる。
喉が詰まる。
でも、ここで引いたら終わる。
「……俺だ」
言ってから、一瞬遅れて気づく。
何言ってるんだ私。
「……は?」
空気が一段、冷えた。
「信長だ」
もう引き返せない。
沈黙。
数秒。
その後、土方の眉がわずかに動いた。
「……意味がわからねぇな」
当然だ。
わかるわけない。
でも、その視線は逸れない。値踏みするように、じっとこちらを見ている。
殺されるかもしれない。
そう思った瞬間、背中に冷たい汗が流れた。
「……処分するか」
ぽつりと落ちた言葉に、心臓が止まりかける。
やばい。
そのとき。
「……いや」
土方が、ほんの少しだけ目を細めた。
「……やめとくか」
予想外の言葉に、思考が止まる。
「どうせ旅行だ。余計な揉め事は面倒だしな」
そう言って、視線を外す。
「おい」
再び呼ばれ、びくりと体が揺れる。
「妙な真似すんな。しばらく、俺の目の届くとこにいろ」
命令口調。でも、さっきまでの殺気は薄れている。
「……わかったな」
頷くしかなかった。
「……ああ」
かすれた低い声が出る。
(……よし)
内心、安堵が広がる。
(上手くいった)
――その判断が、どれだけ甘かったのか。
このときの私は、まだ知らない。




