29話
屋敷の朝は、戦いの痕跡を残したまま静かに明けていった。
壊れた障子、焦げた柱、散乱した器。昨夜ここで命のやり取りがあったことを、朝日がやけに鮮明に照らしている。けれど人の顔には、夜の絶望ではなく、生き延びた者の疲れと安堵があった。
私は広間の端で、借りた浴衣の袖をいじりながらぼんやり座っていた。風呂で汗と煤を流したせいか、体は少し軽い。けれど頭の中は逆に落ち着かない。
土方に額へ口づけられたこと。
鼻先が触れたこと。
「続きは落ち着いてから」と言われたこと。
思い出すたび顔が熱くなる。
(落ち着けるわけない……)
「おい、信長殿」
声をかけられ、飛び上がりそうになる。
振り向くと、隊士の一人が湯飲みを持って立っていた。昨夜から何度か見た若い隊員だ。こちらを面白そうに見ている。
「……その名で呼ぶな」
「では何と?」
「……好きにしろ」
もはや訂正する気力もない。
隊士は笑いながら湯飲みを差し出した。
「副長からです。倒れる前に飲ませろと」
胸がまた騒ぐ。
「……あの人は」
「風呂です」
隊士はわざとらしく声を潜めた。
「朝から機嫌が良いので、皆びびっております」
「機嫌いいの?」
「ええ。怖い顔のまま機嫌がいい時が一番分かりづらいですが」
思わず笑ってしまう。
周囲を見ると、隊員たちがこちらをちらちら見ては目を逸らしていた。何人かは露骨ににやついている。
「……何」
「いえ」
隊士が真顔になる。
「副長が人前で女の手を引いて歩く日が来るとは思いませんでした」
「っ……!」
熱い湯より顔が熱くなる。
「ち、違うし」
「何がです?」
「……何でもない」
墓穴しか掘れない気がして黙る。
隊士は声を立てず笑い、去っていった。
(全部見られてる……)
穴があったら入りたい。
そのとき、昨夜からずっと頭の隅にあった疑問が浮かぶ。
(……何日目?)
そうだ。この旅行は一週間ほどの予定だったはずだ。夢では、終盤――確か六日目か七日目あたりで襲撃が本格化し、皆死んだ。
昨夜の騒ぎがその夜だったのか。
それともまだ途中なのか。
そこへ、風呂上がりの土方が戻ってきた。
濡れた髪を手拭いで乱暴に拭きながら歩いてくる。着流し姿で、いつもの隊服よりずっと無防備なのに、逆に色気があって困る。
(朝から刺激が強い)
土方は私の前に立つと、当然のように隣へ座った。
「何赤い顔してる」
「朝日」
「便利な言い訳だな」
低く笑う。
近い距離に座るだけで、さっきまで静まりかけていた心臓がまた忙しくなる。
「聞きたいことがある」
真面目な声で言うと、土方も表情を少し改めた。
「何だ」
「今日って、何日目?」
土方は一瞬考える。
「旅に出て……五日目の朝だ」
胸が強く鳴る。
五日目。
つまり夢で惨劇が起きた終盤より、少し早い段階で昨夜の襲撃が始まったことになる。
「あと二日……」
思わず漏れる。
土方の視線が鋭くなる。
「何かあるのか」
「夢では、最後に皆死んだのは……たぶん六日目か七日目だった」
広間の空気が少し変わる。近くにいた隊士たちも無言になる。
土方は即座に周囲へ言った。
「聞いたな。警戒は解くな」
「はっ!」
命令が飛び、空気が締まる。
私を見る目は責めるものではなかった。
「昨夜で終わりとは限らねぇ」
「……うん」
「だが昨夜で流れは変わった」
低く、確かな声。
その一言で落ち着く。
「お前の夢が全てその通りになるわけじゃねぇ」
「……ああ」
そうだ。もう昨夜、かなり変わった。地下室も見つけた。人も救った。
未来は固定じゃない。
そのとき、土方の手が膝の上に置かれた私の手へ触れた。人目があるので、ほんの軽く指先だけ。
「顔戻せ」
小声で言う。
「すぐ沈むな」
「……誰のせい」
「俺のせいか」
「だいたい」
口ではそう言いながら、土方の指先がそっと絡んでくる。袖の陰で、誰にも見えないように。
(器用すぎる……)
「副長!」
別の隊士が駆けてくる。
「町役人が到着しました。捕えた者の引き渡しを」
「すぐ行く」
土方は立ち上がり、私の手を離した。離れた途端、少し物足りない。
数歩進んでから振り返る。
「お前は飯食え」
「子ども扱い」
「昨夜まともに食ってねぇだろ」
図星だった。
「食ったら寝ろ」
「命令多い」
「従え」
そう言って去っていく背中に、周囲の隊士たちがなんとも言えない顔をしていた。
「副長、甘……」
「聞こえてるぞ」
土方の一喝で全員が散る。
思わず吹き出す。
やがて朝餉が運ばれてきた。温かい粥と汁物。昨夜から張り詰めていた胃に、ようやく食べ物が落ちていく。
(あと二日)
まだ終わっていないかもしれない。
夢の残り時間が本当にあるなら、次の一手もある。
けれど昨夜までと違うのは、一人で怯えていないことだった。
土方がいる。
隊士たちもいる。
そして、この屋敷にはもう「死ぬしかない空気」はない。
食べ終えた頃、土方が戻ってくる。周囲の目も気にせず、私の後ろに立つと濡れた髪をひと房つまんだ。
「まだ乾いてねぇな」
「自分でやる」
「遅い」
そのまま手拭いで髪を拭かれる。
周囲から小さなどよめきが起こる。
「ちょ、やめ……人いる」
「知ってる」
昨日も聞いた台詞だった。
耳元に低い声が落ちる。
「あと二日あるなら」
髪を拭く手が止まり、少しだけ近づく。
「その間、離さねぇ」
心臓が跳ねる。
「……何を」
分かっていて聞く。
土方は肩越しに口元を寄せ、囁いた。
「お前をだ」
朝の光の中で、また顔が真っ赤になる。
周囲の隊士たちは、今度こそ堪えきれず吹き出していた。




