28話
夜明けの光は、ゆっくりと屋敷の障子を白く染めていった。長い夜だった。火の匂いも、血の気配も、まだそこかしこに残っている。けれど闇だけは確かに退いていた。
広間では捕えた敵が引き渡しの準備をされ、押収した武器は一か所へ集められている。宿の者たちは壊れた柱や散らばった器を片づけながら、何度も隊員たちへ頭を下げていた。誰かが泣きながら笑っている声も聞こえる。
悪夢の結末にはなっていない。
その現実が、ようやく胸へ落ちてきた。
私はまだ土方の肩へ寄りかかったまま、ぼんやりその光景を見ていた。袖の下で繋がれた手は離れない。むしろさっきよりしっかり握られている。
「……もう離してもいいけど」
小声で言う。
「嫌だ」
即答だった。
思わず顔を見る。土方は前を向いたまま、平然とした顔をしている。
「……人いるよ」
「知ってる」
「見られる」
「見せとけ」
耳まで熱くなる。
(この人、たまに急に強い)
ぶっきらぼうなくせに、こういう時だけ妙に真っ直ぐだ。
「土方さん!」
隊員の一人が駆け寄ってくる。私は慌てて手を離そうとしたが、逆に握る力が強くなった。
「……ちょっと」
「動くな」
小声で言われる。
隊員は何も気づかないふりで報告を始めた。
「地下の武器、数え終わりました。かなりの量です。各地へ流すつもりだったかと」
「証拠は全部押さえろ。関係者も洗え」
いつもの鋭い声に戻っている。なのに袖の下では指先が絡んだまま。
(器用すぎる)
報告が終わり、隊員が去ると、ようやく手が離された。
離れた瞬間、少しだけ寂しい。
「行くぞ」
土方が立ち上がる。
「どこに」
「風呂場」
「……え?」
変な声が出た。
土方は少し眉をひそめる。
「煤だらけだろ。湯も張り直させた」
そう言われて自分の袖を見る。煙と埃、返り血までついていた。確かに酷い。
「一人で行ける」
「知ってる」
「じゃあ何で」
「ついてく」
「なんで!?」
思わず声が大きくなる。
周囲の隊員がちらりとこちらを見て、すぐ視線を逸らした。気まずい。
土方は平然としている。
「お前、倒れそうだからだ」
「倒れないし」
「さっき三回ふらついた」
数えられていた。
結局、そのまま連れて行かれる形になった。廊下を歩く間、隊員たちの生ぬるい視線を感じて穴に入りたい気分になる。
風呂場は戦いの騒ぎから少し離れていて静かだった。大きな湯舟に湯気が立ちのぼっている。宿の者が気を利かせて整えてくれたらしい。
「入れ」
「……あんたは」
「外にいる」
当たり前のように答える。
「覗くなよ」
言い返すと、土方が本気で呆れた顔をした。
「誰がするか」
「分かんないじゃん」
「お前、俺を何だと思ってる」
「時々危ない人」
鼻で笑われた。
私は湯舟へ入り、ようやく全身の力が抜けていくのを感じた。熱い湯が足の疲れも、腕の痛みも、少しずつほどいていく。
(終わったんだ……)
そう思った瞬間、涙が出そうになる。
怖かった。ずっと。
夢を信じてもらえなかったらどうしよう。間に合わなかったらどうしよう。土方が死んだらどうしよう。
そこまで考えて、自分で驚く。
(この人が死ぬのが、一番怖かった)
湯気の向こうで襖越しに声がした。
「のぼせるなよ」
外に、本当にいるらしい。
「……いるんだ」
「いると言った」
低い声が少し柔らかい。
「……あんたも入れば」
冗談半分で言うと、外がしんと静かになった。
しまった、と思った時。
「お前がそう言うなら考える」
真顔の声で返ってきた。
「冗談!」
慌てて叫ぶと、外で小さく笑う気配がした。
(からかわれた……)
湯から上がり、着替えを借りて出ると、廊下の柱にもたれて土方が待っていた。目を閉じていたが、足音で気づいたのかすぐに顔を上げる。
その視線が一瞬止まる。
「……何」
「いや」
珍しく言葉を探すように間が空く。
「似合ってる」
宿の簡素な浴衣姿を見てのことだと分かる。
たったそれだけで、顔が熱くなる。
「……あんたも入ってきなよ」
「そうする」
立ち上がった土方の肩へ、思わず手が伸びた。
「傷、沁みるでしょ」
「平気だ」
「強がり」
言いながら、帯を少し緩めてやる。傷に当たらないように。胸元が少し開き、鍛えられた鎖骨が覗いてしまって慌てて視線を逸らす。
「……お前」
低い声が落ちる。
「何」
「そういう顔するな」
「どんな」
「襲いたくなる顔」
思考が止まる。
次の瞬間、腕を引かれ、柱と胸の間に閉じ込められるような体勢になった。
近い。湯気と朝の冷気の間で、土方の体温だけがやけに近い。
「じょ、冗談でしょ」
「半分な」
口元が少し笑っている。
顎へ指が触れ、顔を上げさせられる。唇が触れそうなところで止まり、代わりに鼻先が軽く当たった。
「続きは落ち着いてからだ」
またそれだった。
でも今度は、声がずっと甘い。
「待てるか」
試すように聞かれる。
「……待たせる気?」
言い返すと、土方が珍しく声を立てて笑った。
「生意気だな」
そのまま額へ短く口づけられる。
「すぐ戻る」
そう言って離れていく背中を、私は呆然と見送った。
悪夢の朝だったはずの日に、こんな未来が来るなんて思ってもいなかった。
胸の奥はまだ騒がしいままなのに、不思議と何も怖くなかった。




