27話
地上へ戻ると、夜の空気は地下よりずっと冷たかった。煙の匂いはまだ残っているが、火の勢いは完全に抑えられている。広間の周囲では隊員たちが捕縛した敵をまとめ、宿の者たちは散乱した道具や倒れた行灯を片づけ始めていた。騒ぎの名残はある。けれど、もう崩壊の気配ではない。夜明け前の疲労と安堵の空気だった。
私は土方に手を引かれたまま階段を上がり、広間の入口でようやく現実感が戻ってくる。
(終わった……)
長かった。悪夢の記憶に追われ、走って、叫んで、震えて、それでもここまで来た。
土方が手を離す。
その瞬間、指先が妙に寂しくなる。
「座ってろ」
短く言い残し、土方は隊員たちの輪へ向かった。指示を飛ばし、負傷者の確認をし、捕えた敵の数を数え、押収品の管理まで一気に決めていく。疲れているはずなのに、声に迷いがない。
(すごい人だ)
戦いの時だけじゃない。終わった後まで、この人は誰より先に立っている。
私は柱のそばへ腰を下ろし、その背中をぼんやり見つめた。肩の手当てはまた少し緩んでいる。足も引きずらないようにしているけれど、よく見れば疲労が隠しきれていない。
(無理してる)
でも誰も止められないのだろう。この人自身が止まらないから。
やがて一通り指示を終えた土方が戻ってくる。近づくほど、疲れた顔をしているのが分かった。
「何だ、その顔」
座った私を見下ろして言う。
「……あんたこそ」
言い返すと、鼻で笑われた。
「似てきたな」
そのまま隣へ腰を下ろす。肩が触れそうな距離だった。広間にはまだ人がいるのに、なぜかそこだけ別の空間みたいに感じる。
しばらく二人とも黙った。周囲の声、片づける音、誰かの笑い声。戦いの後に戻ってきた日常の音が遠く聞こえる。
「……怖かった」
気づけば口にしていた。
土方は前を見たまま答える。
「知ってる」
「何回も、もう駄目だと思った」
「だろうな」
短い返事なのに、ちゃんと聞いてくれていると分かる。
「でも」
喉が詰まりそうになる。
「あんたがいたから、最後まで立てた」
土方の呼吸がわずかに止まる。
「……またそれ言うか」
低く、少し掠れた声だった。
「本当のことだし」
言い返すと、土方がこちらを見る。その目はいつもの鋭さより、もっと静かで深かった。
「俺もだ」
また短い言葉。
でも今度は意味を聞き返さなかった。分かるから。
私がいたから、この人も一人じゃなかったのだと。
胸がいっぱいになる。
そのとき、不意に体がぐらついた。緊張が切れたせいか、眠気と疲労が一気に押し寄せる。
「おい」
土方がすぐ支える。肩を抱かれ、そのまま引き寄せられるように体勢を直される。
「……平気」
「平気な顔してねぇ」
低い声と同時に、額へ手が当てられる。熱を測るみたいな仕草だった。
大きな手のひらがひんやりして、心地いい。
「熱はねぇな」
「子ども扱いしないで」
「子どもより手がかかる」
失礼なことを言いながら、手は額から髪へ移る。乱れた前髪を指ですくい、耳にかけられた。
その何気ない仕草に、息が詰まる。
「……そういうの、ずるい」
思わず漏れる。
「何がだ」
「自然に触るとこ」
土方が一瞬黙る。
それから少しだけ口元を上げた。
「嫌か」
試すような声。
「……嫌じゃない」
正直に答えると、今度は土方の方が黙った。
耳が少し赤い。
(この人、分かりやすい時ある)
可笑しくて、愛しくて、笑いそうになる。
「なら黙ってろ」
ぶっきらぼうに言いながら、肩へ腕を回された。そのまま軽く引き寄せられる。
頭が土方の肩へ触れる。
「ちょ、ちょっと」
「眠そうだ」
「そうだけど」
「寄りかかっとけ」
強引で、優しい。
肩越しに感じる体温。呼吸の上下。着物越しでも分かる硬い身体。戦い続けてきた人の体だと実感して、別の意味で鼓動が速くなる。
「……心臓うるさい」
ぽつりと言うと、土方が小さく笑う。
「どっちのだ」
「……両方」
答えると、肩がわずかに揺れた。笑っているらしい。
こんな風に笑う人だったんだ、とまた思う。
しばらくそのまま寄りかかっていると、土方の手が私の手を探るように触れた。指先が絡み、静かに握られる。
誰にも見えないよう、袖の陰で。
「……何してるの」
小声で聞く。
「黙ってろ」
またそれだった。
でも今度の声は、少し照れている。
手のひらは熱く、しっかりしていて、逃がさないみたいに握られていた。
「上戻ったら話があるって言ってた」
思い出して囁く。
土方の視線が前を向いたまま止まる。
「覚えてたか」
「忘れるわけない」
「……そうか」
少し間が空く。
それから、低い声が落ちた。
「この騒ぎが全部片づいたら、お前を連れてく」
「どこに」
「俺の隣に決まってる」
一瞬、意味が分からなかった。
理解した途端、顔が熱くなる。
「そ、それって」
「察しろ」
また逃げるような言い方だ。
でも、握る手には力がこもっていた。
「返事は」
珍しく少し不安そうな声だった。
こんな人でも、そんな声を出すのかと思う。
私は繋いだ手を握り返した。
「……もう、とっくに決まってる」
土方の肩越しに、小さく息を吐く気配がした。
安心したような、照れたような、そんな息だった。
夜明けの光が障子越しに薄く差し込む。
悪夢の終わりと、新しい始まりを告げるみたいに。




