26話
地下室を制圧したあとも、すぐに安堵は訪れなかった。捕えた者たちを縛り、武器や火薬を確認し、救い出した人々を地上へ上げる。やるべきことはいくらでもある。夢の惨劇を止めた実感は、忙しさの中ではまだ遠かった。
それでも、空気は変わっていた。
さっきまで漂っていた「いつ崩れるか分からない緊張」ではなく、「終わらせられる」という確かな手応えがあった。隊員たちの顔にも疲労はあれど、敗色はない。
私は地下室の入口近くで壁にもたれ、呼吸を整えていた。全身が重い。足も腕も、ようやく痛みを思い出したみたいにじわじわ訴えてくる。
「座れ」
低い声が頭上から落ちた。
見上げると土方だった。いつの間にか戻ってきていたらしい。肩の手当ては少し緩み、着物もあちこち乱れている。髪も汗で額に張りついていた。
「……あんたこそ」
言い返すと、土方は鼻で笑った。
「俺は後だ」
そう言いながら、半ば強引に私の肩を押して座らせる。自分はその前にしゃがみ込んだ。
「足、見せろ」
「え?」
「さっき捻っただろ」
見抜かれていた。階段で踏み外しかけた時、ひねっていたのだと思い出す。
「平気」
「嘘だな」
即答だった。
有無を言わせず足首へ手が伸びる。着物の裾を少し持ち上げられ、素足に近いところまで空気が触れた。そこへ土方の指が触れる。
「っ……」
思わず肩が跳ねる。
「痛いか」
「……違う」
「じゃあ何だ」
「……冷たい」
苦し紛れに答えると、土方が少しだけ口元を歪めた。
「そうか」
絶対に分かっていて言っている顔だった。
指先が足首の骨を確かめ、腫れを探るようにゆっくり動く。戦場で敵を捌く手と同じ手なのに、今は驚くほど丁寧だった。
(だめだ……)
こんな状況なのに、触れられていることばかり意識してしまう。
「少し腫れてる」
土方が言う。
「歩けるが、無理はするな」
自分の帯紐をまた裂き、足首へ巻き始める。膝を軽く支えられ、その顔が近い。伏せられた睫毛や真剣な横顔まで見えてしまい、別の意味で呼吸が浅くなる。
「……何でそんな慣れてるの」
気を紛らわせるように尋ねる。
「怪我人は山ほど見てきた」
淡々とした返答だった。
その言葉の裏にある時間を思う。斬り合い、死傷、仲間の血。私の知らない日々。
胸が少し痛くなる。
「……あんたも、こうやって誰かに手当てされたことあるの」
土方の手が一瞬止まった。
「ねぇな」
短く答える。
「大抵、自分で済ませる」
その言い方が妙に寂しく聞こえた。
「……じゃあ今度、私がやる」
思わず口にしていた。
土方が顔を上げる。
目が合う。
「今度?」
「……怪我したら」
「しない方がいいだろ」
「そうだけど」
言いながら顔が熱くなる。何を言っているんだろうと思う。
土方は数秒こちらを見て、それから小さく息を吐いた。
「……そういう先の話をするな」
「なんで」
「妙に嬉しくなる」
心臓が止まりそうになる。
そんなことを、この人が言うなんて。
巻き終えた足首を軽く叩き、土方は立ち上がろうとした。けれど私の手が先に伸びていた。袖を掴む。
「……肩」
「何だ」
「手当て、やり直す」
さっき地下で動き回ったせいで、巻いた布がずれている。血も少し滲んでいた。
土方は少し黙り、それから無言で隣に座った。
肩口へ手を伸ばし、布をほどく。着物を少し開くと、鍛えられた肩と胸元が灯りに浮かぶ。思っていた以上に近く、色気という言葉が頭をよぎって慌てて打ち消す。
「手、震えてるぞ」
低い声が降る。
「……寒いだけ」
「地下でか」
また笑われた。
傷口を拭き、新しく巻き直す。筋肉が動くたびに体温が指先へ伝わる。触れないようにしても触れてしまう距離だった。
「痛い?」
「お前が触ると少しな」
「え?」
思わず顔を上げる。
土方の口元がわずかに上がっていた。
「嘘だ」
「……最低」
悔しいのに、笑ってしまう。
結び終えると、土方がふいにこちらの手首を掴んだ。
「今度は俺の番だ」
「何が」
引き寄せられる。体が近づき、そのまま肩へ額を預けられた。
「少しだけ休む」
低い声が耳元に落ちる。
土方が、誰かにもたれるなんて想像していなかった。
「……重い?」
「別に」
嘘だった。重さはある。でも嫌じゃない。むしろ、その重さごと預けられていることが嬉しい。
「……疲れてたんだ」
ぽつりと漏らすと、肩越しに小さく笑う気配がした。
「当たり前だ」
「強そうなのに」
「強くても疲れる」
少し間を置いて、続ける。
「だが、お前の前だと弱音吐きたくなる」
胸がいっぱいになる。
この人はきっと、誰にでもこんなことは言わない。
「……私も」
小さく返す。
「怖かったし、疲れた」
「知ってる」
「でも、あんたがいたから頑張れた」
土方の呼吸が一瞬止まる。
ゆっくり顔が上がる。距離が近い。さっき地下で額を合わせた時より、ずっと近い。
「……そういうことを、不意に言うな」
また同じ台詞。
でも今度の声は、少し甘かった。
顎へ指が触れ、顔を上げさせられる。視線が絡む。唇が触れそうなところで止まり、代わりに額へ軽く口づけられた。
柔らかく、短い接触。
「続きは全部終わってからだ」
囁くように言う。
顔が熱くて、まともに見返せない。
そのとき階段の上から隊員の声がした。
「土方さん! 地上、片付きました!」
現実が戻る。
土方は名残惜しそうに離れ、立ち上がる。
「行くぞ」
手が差し出される。
私は迷わず掴んだ。
悪夢は終わった。けれど、この夜が終わった先には、きっと新しい始まりが待っている。
そう思えた。




