22話
西の棟へ向かう廊下には、すでに薄い煙が流れ込み始めていた。鼻を刺す焦げた匂い。木が焼ける乾いた音。火はまだ小さいと聞いたが、古い屋敷にとって小火ほど危険なものはない。一気に回れば、人も道も飲み込む。
土方は迷いなく先頭を進む。後ろには数人の隊員、そして私。いつものように「下がってろ」とは言わなかった。その代わり、振り返りもせずに歩幅だけ少し落としている。私がついて来られる速さに、自然と合わせているのが分かった。
(気づいてる)
こういう人だ。優しいことを優しい言葉で言わない。
西の棟に近づくと、柱の根元から火が回っていた。油を撒いた痕がある。誰かが意図的に点けた火だ。
「水を回せ! 壁じゃなく根元だ!」
土方の声が飛ぶ。隊員たちが桶を運び、手際よく消火に入る。慌てる者がいない。火の怖さも、対処も知っている動きだった。
私は周囲を見回す。煙、影、物音。火だけに気を取られると危ない。敵の狙いはそこだ。
「……裏口」
小さく呟く。
西の棟の裏手へ続く細道。夢で見た断片が蘇る。煙の中、そこから影が入ってきた。
土方が即座に反応する。
「二人、裏へ」
隊員が走る。
「お前はこっちだ」
言うと同時に、手首を掴まれた。強く、でも急がせるための力だ。そのまま柱の陰へ引き寄せられる。
「え、何――」
言い終わる前に、目の前の壁へ片手をつかれ、逃げ道を塞ぐ形になる。土方の体が近い。煙の中で距離感が狂うほど近い。
「喋るな」
低い声が耳元で落ちる。
次の瞬間、裏口の方から足音が走り抜けた。三人。こちらに気づかず通り過ぎる。火に紛れて侵入するつもりだったのだろう。
(だから隠したのか)
理解した瞬間、さらに胸が跳ねる。土方の腕が壁際にあり、自分はその内側にいる。守られるような、閉じ込められるような姿勢。
敵の足音が遠ざかるまで、動けなかった。
近い。煙の匂いの奥に、汗と鉄と木の匂いがする。戦い続けてきた人の熱が、そのまま伝わってくる。
「……もういい」
囁くように言われ、腕が退く。
空気が戻る。なのに少しだけ名残惜しいと思ってしまった自分に驚く。
「顔、赤いぞ」
「煙のせい」
即答すると、土方がわずかに口元を上げた。
「そうか」
絶対に分かっている顔だった。
その直後、裏手で金属音が鳴る。配置した隊員と敵がぶつかったのだ。
「行くぞ」
今度は手首ではなく、手そのものを掴まれた。走り出す勢いで自然に絡む形になる。数歩だけ。すぐ離れた。けれど、その一瞬でまた心臓が忙しくなる。
裏口へ回ると、敵二人はすでに押さえられていた。残る一人が逃げようと身を翻す。
「止めろ!」
土方の声。
私は反射的に足元の桶を蹴り出した。水の入った桶が転がり、敵の足にぶつかる。体勢が崩れる。そこへ隊員が飛び込み、取り押さえた。
「……やるじゃねぇか」
土方が言う。
褒められた嬉しさと、役に立てた安堵で胸がいっぱいになる。
「たまたま」
「そういうことにしといてやる」
ぶっきらぼうなのに、声が柔らかい。
敵の一人を引き起こした隊員が叫ぶ。
「こいつら、宿の間取りを知ってます!」
捕えた男の懐から、簡単な見取り図が出てきた。廊下、広間、裏口、隠し通路まで記されている。
空気が変わる。
内部の情報が漏れている。
土方の目つきが鋭くなる。
「誰が渡した」
男は口を割らない。ただ薄く笑う。
その顔を見た瞬間、背筋が冷えた。
(夢で見た)
この笑い方。この、何度も勝ってきた者みたいな余裕。
「……こいつ、まだある」
思わず言う。
「何がだ」
「次の手」
確信に近かった。ここで終わる顔ではない。
土方は数秒だけ男を見つめ、すぐに判断する。
「縛って奥へ。口を割らせる」
隊員が動く。
火はほぼ消えた。だが、煙と焦げ臭さが屋敷全体に広がっている。人心を乱すには十分だ。
「戻る」
土方が言う。
歩き出したところで、ふいに足元が滑った。濡れた床に煙で視界が悪い。体が傾く。
「っ」
転ぶと思った瞬間、腰を抱き寄せられた。
強い腕が背中と腰を支え、身体が完全に土方へ預けられる形になる。顔が胸元すれすれに近づいた。
「何回危なっかしいんだ、お前は」
呆れた声が頭上から落ちる。
「……床が悪い」
「人のせいにするな」
そう言いながらも、すぐには離されない。足元が安定するまで支えられたままだった。
背中に回る手の熱。腰を包む指の強さ。着物越しでもはっきり伝わる。
(だめ……)
煙で苦しいはずなのに、別の意味で息が苦しい。
ようやく離されると、今度は少し寂しい。
「歩けるか」
「……歩ける」
「ほんとか」
「……たぶん」
土方が笑う。今度ははっきり分かるくらい、短く。
「じゃあ、離れるな」
そのまま手を取られる。今度は周囲に人もいるのに、自然な顔で。
隊員たちは見て見ぬふりをしている。いや、少し笑っている気もする。
広間へ戻る途中、煙の薄い廊下で土方がぽつりと言った。
「さっき、お前がいなきゃ裏は抜かれてた」
足が止まりそうになる。
「……私が?」
「桶蹴っただろ」
そんなことかと思う。でも、この人が口にするなら意味がある。
「助かった」
短い、けれどまっすぐな言葉。
胸の奥が熱くなる。
「……あんたも、さっき助けてくれた」
腰を抱かれたことを思い出し、急に声が小さくなる。
土方は前を向いたまま答える。
「当たり前だ」
その言葉に、心臓がまた大きく鳴った。
守るのが当たり前だと言われたみたいで。
広間の灯りが見えてくる。まだ夜は続く。敵の企みも終わっていない。見取り図がある以上、内部に繋がる何かも暴かなければならない。
それでも今は、恐怖だけではなかった。
この人と並んで歩けることが、確かな力になっていた。




