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「嘘から始まる一週間」  作者: 柑橘みかん


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22/24

22話

 西の棟へ向かう廊下には、すでに薄い煙が流れ込み始めていた。鼻を刺す焦げた匂い。木が焼ける乾いた音。火はまだ小さいと聞いたが、古い屋敷にとって小火ほど危険なものはない。一気に回れば、人も道も飲み込む。


 土方は迷いなく先頭を進む。後ろには数人の隊員、そして私。いつものように「下がってろ」とは言わなかった。その代わり、振り返りもせずに歩幅だけ少し落としている。私がついて来られる速さに、自然と合わせているのが分かった。


 (気づいてる)


 こういう人だ。優しいことを優しい言葉で言わない。


 西の棟に近づくと、柱の根元から火が回っていた。油を撒いた痕がある。誰かが意図的に点けた火だ。


 「水を回せ! 壁じゃなく根元だ!」


 土方の声が飛ぶ。隊員たちが桶を運び、手際よく消火に入る。慌てる者がいない。火の怖さも、対処も知っている動きだった。


 私は周囲を見回す。煙、影、物音。火だけに気を取られると危ない。敵の狙いはそこだ。


 「……裏口」


 小さく呟く。


 西の棟の裏手へ続く細道。夢で見た断片が蘇る。煙の中、そこから影が入ってきた。


 土方が即座に反応する。


 「二人、裏へ」


 隊員が走る。


 「お前はこっちだ」


 言うと同時に、手首を掴まれた。強く、でも急がせるための力だ。そのまま柱の陰へ引き寄せられる。


 「え、何――」


 言い終わる前に、目の前の壁へ片手をつかれ、逃げ道を塞ぐ形になる。土方の体が近い。煙の中で距離感が狂うほど近い。


 「喋るな」


 低い声が耳元で落ちる。


 次の瞬間、裏口の方から足音が走り抜けた。三人。こちらに気づかず通り過ぎる。火に紛れて侵入するつもりだったのだろう。


 (だから隠したのか)


 理解した瞬間、さらに胸が跳ねる。土方の腕が壁際にあり、自分はその内側にいる。守られるような、閉じ込められるような姿勢。


 敵の足音が遠ざかるまで、動けなかった。


 近い。煙の匂いの奥に、汗と鉄と木の匂いがする。戦い続けてきた人の熱が、そのまま伝わってくる。


 「……もういい」


 囁くように言われ、腕が退く。


 空気が戻る。なのに少しだけ名残惜しいと思ってしまった自分に驚く。


 「顔、赤いぞ」


 「煙のせい」


 即答すると、土方がわずかに口元を上げた。


 「そうか」


 絶対に分かっている顔だった。


 その直後、裏手で金属音が鳴る。配置した隊員と敵がぶつかったのだ。


 「行くぞ」


 今度は手首ではなく、手そのものを掴まれた。走り出す勢いで自然に絡む形になる。数歩だけ。すぐ離れた。けれど、その一瞬でまた心臓が忙しくなる。


 裏口へ回ると、敵二人はすでに押さえられていた。残る一人が逃げようと身を翻す。


 「止めろ!」


 土方の声。


 私は反射的に足元の桶を蹴り出した。水の入った桶が転がり、敵の足にぶつかる。体勢が崩れる。そこへ隊員が飛び込み、取り押さえた。


 「……やるじゃねぇか」


 土方が言う。


 褒められた嬉しさと、役に立てた安堵で胸がいっぱいになる。


 「たまたま」


 「そういうことにしといてやる」


 ぶっきらぼうなのに、声が柔らかい。


 敵の一人を引き起こした隊員が叫ぶ。


 「こいつら、宿の間取りを知ってます!」


 捕えた男の懐から、簡単な見取り図が出てきた。廊下、広間、裏口、隠し通路まで記されている。


 空気が変わる。


 内部の情報が漏れている。


 土方の目つきが鋭くなる。


 「誰が渡した」


 男は口を割らない。ただ薄く笑う。


 その顔を見た瞬間、背筋が冷えた。


 (夢で見た)


 この笑い方。この、何度も勝ってきた者みたいな余裕。


 「……こいつ、まだある」


 思わず言う。


 「何がだ」


 「次の手」


 確信に近かった。ここで終わる顔ではない。


 土方は数秒だけ男を見つめ、すぐに判断する。


 「縛って奥へ。口を割らせる」


 隊員が動く。


 火はほぼ消えた。だが、煙と焦げ臭さが屋敷全体に広がっている。人心を乱すには十分だ。


 「戻る」


 土方が言う。


 歩き出したところで、ふいに足元が滑った。濡れた床に煙で視界が悪い。体が傾く。


 「っ」


 転ぶと思った瞬間、腰を抱き寄せられた。


 強い腕が背中と腰を支え、身体が完全に土方へ預けられる形になる。顔が胸元すれすれに近づいた。


 「何回危なっかしいんだ、お前は」


 呆れた声が頭上から落ちる。


 「……床が悪い」


 「人のせいにするな」


 そう言いながらも、すぐには離されない。足元が安定するまで支えられたままだった。


 背中に回る手の熱。腰を包む指の強さ。着物越しでもはっきり伝わる。


 (だめ……)


 煙で苦しいはずなのに、別の意味で息が苦しい。


 ようやく離されると、今度は少し寂しい。


 「歩けるか」


 「……歩ける」


 「ほんとか」


 「……たぶん」


 土方が笑う。今度ははっきり分かるくらい、短く。


 「じゃあ、離れるな」


 そのまま手を取られる。今度は周囲に人もいるのに、自然な顔で。


 隊員たちは見て見ぬふりをしている。いや、少し笑っている気もする。


 広間へ戻る途中、煙の薄い廊下で土方がぽつりと言った。


 「さっき、お前がいなきゃ裏は抜かれてた」


 足が止まりそうになる。


 「……私が?」


 「桶蹴っただろ」


 そんなことかと思う。でも、この人が口にするなら意味がある。


 「助かった」


 短い、けれどまっすぐな言葉。


 胸の奥が熱くなる。


 「……あんたも、さっき助けてくれた」


 腰を抱かれたことを思い出し、急に声が小さくなる。


 土方は前を向いたまま答える。


 「当たり前だ」


 その言葉に、心臓がまた大きく鳴った。


 守るのが当たり前だと言われたみたいで。


 広間の灯りが見えてくる。まだ夜は続く。敵の企みも終わっていない。見取り図がある以上、内部に繋がる何かも暴かなければならない。


 それでも今は、恐怖だけではなかった。


 この人と並んで歩けることが、確かな力になっていた。


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