19話
握った手は一瞬で離れたのに、その熱だけがいつまでも残った。指先がじんとする。戦いの緊張とは別の震えがそこから腕へ広がっていく。
(こんな時に)
自分でも呆れる。次の敵が来る。まだ夜は終わっていない。命のやり取りの最中だというのに、頭のどこかがその一瞬を何度もなぞってしまう。
土方は何事もなかったように前へ進む。背筋は真っ直ぐで、歩幅も乱れない。けれど、さっきよりほんの少し呼吸が深い。疲労は確実に積み重なっているはずだ。それでも弱さを見せない。
(この人も人間なんだ)
当たり前のことを、今さら強く思う。強くて冷静で、何でも見通しているように見える。でも痛みも疲れもある。その上で立っている。
それが胸に刺さった。
屋敷の奥へ進むにつれ、人の気配が薄くなる。さっきまで隊員たちが散っていた場所も静かだ。配置を変えたのか、別の場所へ誘導されたのか。灯りはところどころ消えていて、廊下の先は闇に沈んでいる。
「……妙だな」
土方が低く言う。
「静かすぎる」
「……ああ」
自分も同じことを感じていた。さっきまで敵は波のように押してきていた。それが急に止んだ。撤退にしては整いすぎている。
「集めてる」
口から出た。
土方がわずかに視線を向ける。
「どこかに人を寄せてる」
夢の記憶が胸の奥でざわつく。広間。叫び声。逃げ場を失った人の群れ。
土方は一瞬だけ考え、踵を返した。
「戻るぞ」
迷いがない。
二人で来た道を駆ける。さっきまでの静けさが、今は不吉な予兆にしか思えない。廊下を曲がるたび、夢の断片が頭をよぎる。遅れたら間に合わない。あの光景になる。
(間に合って)
願うように足を動かす。
広間に近づくにつれ、ざわめきが聞こえてきた。人の声。複数の足音。隊員たちだけじゃない。宿の者や、避難してきた民間人の声も混ざっている。
「……やっぱり」
胸が冷える。
広間の前に着くと、そこには人が集められていた。隊員たちが守るように周囲を固め、宿の者たちを中へ入れている。安全な場所へ避難させる判断としては自然だ。自然すぎる。
夢と同じ流れだ。
「土方さん!」
隊員の一人が駆け寄る。
「外周が崩されかけてます。ここにまとめた方が守りやすいかと――」
「散らせ」
土方が即座に言った。
相手が目を見開く。
「……え?」
「ここは駄目だ」
低く鋭い声だった。
「出入口が多い。囲われる」
その一言で、周囲の空気が変わる。隊員たちもすぐに理解し始める。
「二手に分けろ。奥の部屋と北側の棟へ」
「はっ!」
指示が飛び、人が動き出す。迷っている暇はない。宿の者たちも不安げな顔で移動を始める。
私はその光景を見ながら、足の力が抜けそうになった。
(変わった)
あのまま集められていたら、夢の通りになっていたかもしれない。今、確かに流れが変わった。
そのとき、ふらついた体を後ろから支えられた。
「しっかり立て」
土方の声だった。
肩に置かれた手が熱い。強くはないのに、立ち直るには十分な力だった。
「……ああ」
小さく答える。
「顔色悪いぞ」
「……普通だ」
「嘘だな」
こんな時でも見抜かれる。
けれど責める響きではない。気遣いが先にある声だった。
「水、飲め」
また差し出される。さっきと同じ水筒。
受け取って口をつける。冷たさが喉を通り、ようやく息ができる気がした。
「……助かった」
思わず漏れる。
「何がだ」
土方は前を見たまま問う。
「……みんな」
言葉が詰まる。
「集められてたら……」
その先は言えなかった。夢の惨状が脳裏に浮かぶ。
土方はしばらく黙っていた。
「お前が気づいた」
短く言う。
「だから変わった」
それだけだった。
胸が熱くなる。自分一人では何もできないと思っていた。守られてばかりだと思っていた。でも、確かに今、自分の見た悪夢が誰かを救った。
「……あんたが信じたからだ」
自然と返していた。
土方が初めて、はっきりこちらを見る。
その目は強いのに、さっきまでより少し柔らかい。
「信じちゃいねぇ」
ぶっきらぼうに言う。
「だが、お前の顔は嘘つけねぇ」
不意打ちみたいな言葉だった。
「……何それ」
思わず笑いそうになる。
「そのままだ」
それ以上は言わない。
でも、十分だった。
外から大きな破壊音が響く。障子か扉が破られた音。次の波が来る。
広間の周囲に緊張が走る。隊員たちが構え直す。避難する人々の悲鳴が小さく上がる。
土方は前へ出ようとして、ふと止まった。
振り返り、こちらを見る。
「怖いなら下がれ」
静かな声だった。
命令ではなく、選ばせる声。
その優しさが胸に沁みる。
「……怖い」
正直に言う。
「でも下がらない」
土方の目が細くなる。
「なんでだ」
前にも聞かれた問い。今度は、少しだけ答えが違った。
「……あんた一人にしたくない」
言ってから、心臓が跳ねる。
土方は数秒黙った。騒がしい周囲の音が遠くなる。
やがて、低い声が落ちる。
「俺を誰だと思ってる」
呆れたような口調。
でも次の言葉は、想像していなかった。
「……だが、悪くねぇ」
胸の奥が一気に熱くなる。
土方はそれ以上何も言わず、こちらの頭を軽く小突いた。
「離れるな」
ぶっきらぼうな命令。
それが、今は何より嬉しかった。
次の瞬間、扉が破られ、敵の影がなだれ込んでくる。
戦いは終わらない。
それでももう、ただ恐れているだけではなかった。
守りたい人がいる。
その人の隣にいたい。
その気持ちが、恐怖よりも確かな力になり始めていた。




