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「嘘から始まる一週間」  作者: 柑橘みかん


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16話

 敵が一度引いたあとも、屋敷の空気は緩まなかった。誰も勝った顔をしない。終わっていないと全員が分かっている。短い呼吸の乱れを整え、位置を直し、次の気配に耳を澄ませている。灯りに照らされた廊下には乱れた足跡と、薄く伸びた血の筋が残っていた。さっきまでそこが戦場だった証拠だ。


 (怖い)


 正直な気持ちはそれだった。足もまだ少し震えている。喉も乾いている。何度覚悟を決めても、恐怖はなくならない。なくならないまま、次へ進くだけだ。


 けれど、怖さと同じくらい別の感情が強くなっていた。


 土方の存在だ。


 少し離れた場所で刀を拭っている横顔に、視線が勝手に向いてしまう。乱れた前髪、汗で濡れた首筋、呼吸に合わせてわずかに上下する肩。戦いの熱がまだ抜けきっていない体から、近づくだけで熱気が伝わってきそうだった。


 (見すぎ……)


 自分で分かっているのに、やめられない。


 「また見てるな」


 低い声がして、心臓が跳ねる。


 いつの間にか目の前に来ていた。


 「……見てない」


 反射で返す。


 「学ばねぇな」


 呆れたように言いながら、土方は手にしていた布をこちらへ投げた。慌てて受け取る。


 「顔、拭け」


 「……え?」


 「煤と血がついてる」


 言われて頬に触れると、ざらついた感触がある。戦いの最中に飛んだものだろう。全然気づいていなかった。


 「……ああ」


 布で拭こうとするが、緊張してうまくできない。頬をこすりすぎて少し痛い。


 「貸せ」


 短く言われ、布ごと手首を取られる。


 次の瞬間、顔を少し上げられた。


 「じっとしてろ」


 近い。


 土方の顔がすぐ目の前にある。真剣な目つきのまま、頬を丁寧に拭っていく。乱暴そうに見えて、触れ方は驚くほど慎重だった。親指が顎の近くを支え、布越しに頬をなぞるたび、そこだけ熱くなる。


 (無理……)


 呼吸の仕方が分からない。


 「赤いな」


 ぼそりと言われる。


 「……血?」


 「違う」


 即答だった。


 余計に顔が熱くなる。


 やっと手が離れたと思ったら、今度は髪に触れられる。耳の横に貼りついていた乱れた髪を、指先で払われた。


 「邪魔だ」


 それだけの理由で触れただけなのに、全身が変に意識してしまう。


 「……終わったか」


 なんとか平静を装って言う。


 「まだだ」


 土方は短く返し、そのまま視線を廊下の奥へ向けた。


 その横顔を見て、急に現実へ引き戻される。


 そうだ。まだ終わっていない。


 そのとき、遠くで障子が破れる音がした。


 「来たぞ!」


 隊員の声が飛ぶ。


 空気が一瞬で切り替わる。全員が持ち場へ動く。土方もすぐに前へ出る。その速さに迷いはない。


 「ついてこい」


 振り返らずに言う。


 「……ああ」


 さっきまで別の意味で乱れていた心臓が、今度は戦いの鼓動に変わる。


 廊下を駆ける。途中、足元の板が少し浮いているのが見えた。夢で見た断片が蘇る。ここで誰かが転び、流れが崩れていた。


 「……そこ!」


 叫ぶ。


 土方が即座に止まり、別の踏み場へ体をずらす。直後、板が沈み、足元が崩れた。落とし穴ほどではないが、足を取られれば致命的な隙になる。


 「……よく見てる」


 低く言われる。


 褒められた喜びと、役に立てた安堵が一気に押し寄せる。


 そのまま奥へ出ると、敵が三人、こちらへ突っ込んできた。狭い通路での乱戦。土方が一人目を受け流し、二人目の腕を払う。三人目が横から抜けてこちらへ向かってきた。


 (やばい)


 木刀を構える。怖い。でも逃げられない。


 相手が振り下ろす。咄嗟に受ける。衝撃で腕が痺れる。


 「下げろ!」


 土方の声。


 次の瞬間、腰を強く引かれた。体が後ろへ流れ、そのまま土方の背中にぴたりと当たる。守るように前へ出た土方が、相手を一気に崩した。


 背中越しに感じる熱。呼吸の振動。肩甲骨の動きまで伝わってくる。


 (近すぎる……)


 なのに嫌じゃない。むしろ安心する自分がいる。


 「離れるな」


 短い命令。


 「……ああ」


 声が少し掠れる。


 そのまま背中で庇われながら数歩移動する。土方は戦いながら、自分の位置まで把握している。ぶつからないよう自然に誘導されているのが分かる。


 (この人、すごい)


 強いだけじゃない。周り全部を見ている。


 敵が退いた隙に、土方がこちらを振り向く。


 「怪我は」


 「……ない」


 「ほんとか」


 「……たぶん」


 土方が眉を寄せる。


 次の瞬間、帯のあたりに手が伸びた。


 「っ!」


 思わず声が出る。


 着物の脇に裂け目ができていた。そこを確認しただけだった。肌が少し見えていたらしい。


 「切れてるだけだ」


 淡々と言う。


 でも手が腰の近くにあるという事実だけで、頭が真っ白になる。


 「……さわるな」


 反射的に言ってしまう。


 土方が一瞬止まり、次に少しだけ口元を上げた。


 「今さらだろ」


 「今さらじゃない」


 思わず言い返す。


 そのやり取りの最中にも、遠くで刃音が鳴る。現実と感情が忙しすぎる。


 「あとで直せ」


 そう言って手が離れる。離れたことにほっとして、同時に少し惜しいと思ってしまった自分に驚く。


 (何考えてるの……)


 土方が再び前を向く。


 「次、右から来る」


 「……なんで分かる」


 「音だ」


 即答。


 耳を澄ますと、確かに板の軋み方が違う。


 (この人の隣にいたら、もっと見えるようになるのかな)


 そんなことを思う。


 「行くぞ」


 「……ああ」


 並んで走り出す。戦いの最中なのに、隣を走れることが少し嬉しい。


 怖い。痛い。苦しい。


 それでも。


 この人の近くにいられるなら、もう少しだけ頑張れると思ってしまう自分がいた。


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