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「嘘から始まる一週間」  作者: 柑橘みかん


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15/29

15話

 次の波は、前よりも速かった。足音が近づいたと思った瞬間には、もう影が廊下の奥を埋めている。数も多い。先ほどの探り合いではなく、明確に押し潰しに来ている圧だった。空気そのものが重くなる。呼吸をするだけで喉が乾く。


 「来る」


 土方の声が低く落ちる。


 その一言だけで、全身の意識が研ぎ澄まされる。不思議だった。怖いはずなのに、声を聞くと落ち着く。隣にいるだけで、心臓の暴れ方が少しだけ整う。


 (なんでこんなに……)


 考える余裕なんてないはずなのに、そんなことばかり思ってしまう。


 敵が踏み込んでくる。先頭の二人が同時に間合いを詰め、その後ろが続く。連携された動き。迷いがない。


 「右見るな、前だ」


 土方が短く言う。


 「……ああ」


 視線を前に戻す。さっきまでなら焦って全部見ようとしていた。でも今は分かる。全部見ようとすると何も見えなくなる。


 刃音が弾ける。隊員たちが受け流し、横から崩す。こちらもさっきより動きが良い。けれど敵も強い。押し込まれる感覚がある。


 土方が一歩前へ出た。その背中が視界いっぱいに入る。広い肩、迷いなく踏み込む足、振り抜かれる腕。無駄がない。見惚れるくらい綺麗な動きだった。


 (かっこいい……)


 思った瞬間、自分で呆れる。今そこじゃない。


 敵が左から回り込む気配。


 「左!」


 叫ぶ。


 土方が振り向きもせず体をひねる。紙一重でかわし、そのまま相手の体勢を崩す。次の一撃で沈む。


 「いい」


 短い声。


 それだけなのに胸が熱くなる。


 (褒められた……)


 戦闘中に何を喜んでいるのかと思う。でも嬉しいものは嬉しい。


 次の瞬間、別の敵が間合いを詰めてきた。こちらに気づいている。戦えないと判断されたのか、真っ直ぐ狙ってくる。


 体が固まる。


 (やばい)


 反応が遅れる。


 その前に、腕を強く引かれた。


 視界が揺れ、体が後ろへ引き寄せられる。背中が硬いものにぶつかった。違う。壁じゃない。土方の胸だった。


 「下がれ」


 耳元で低い声が響く。


 近すぎる。


 息が止まる。


 そのまま片腕で庇われる形になり、目の前で土方が敵を捌く。腕一本でこちらを押さえたまま、もう片方で戦っている。


 (無理、近い)


 肩越しに伝わる体温。戦いで上がった熱。汗と木と鉄の匂い。胸板の硬さまで分かってしまう距離。


 心臓が敵の足音よりうるさい。


 「ぼーっとするな」


 また耳元で声。


 「……してない」


 かろうじて返す。


 「してる」


 即答だった。


 悔しい。でもその通りだった。


 土方が敵を弾き飛ばし、ようやく腕が離れる。離れた瞬間、空気が冷たく感じた。


 (なんで離れて寂しいの)


 頭がおかしい。


 「こっち来い」


 手首を掴まれる。


 強引に見えて、ちゃんと痛くない力加減。引かれるまま位置を移す。柱の陰、視界が確保しやすい場所。


 「ここなら見える」


 「……ああ」


 掴まれた手首が熱い。離されたあとも感覚が残っている。


 「顔、赤いぞ」


 不意に言われる。


 「……戦ってるから」


 苦し紛れに返す。


 「そうか」


 声が少しだけ面白がっている気がした。


 (絶対分かってる)


 でも今は言い返せない。


 再び敵が押し寄せる。今度は別方向から。隊員たちも少し疲れが見え始めている。息が荒い。動きが重い。


 (このままだと)


 焦りが走る。


 そのとき、夢の断片が蘇った。奥の部屋。障子。そこから回り込まれていた。


 「……奥!」


 声が裏返りそうになる。


 「部屋の中!」


 土方の視線が走る。即座に二人へ合図が飛ぶ。


 「潰せ!」


 隊員が駆ける。直後、障子が破られ、中から敵が飛び出した。もし遅れていれば背後を取られていた。


 「……助かったな」


 土方が横目で言う。


 「……ああ」


 「お前がな」


 その言葉に、一瞬意味が遅れる。


 私が助かった。


 守られる側だった自分が、今度は少しだけ役に立てた。


 胸がいっぱいになる。


 その隙に足元がもつれた。


 「っ」


 転びかけた瞬間、腰に腕が回る。強く引き寄せられ、そのまま体勢を立て直される。


 「危なっかしいな」


 低い声が真上から落ちる。


 腰に回された腕が熱い。着物越しでも分かる体温。手の位置に意識が集中してしまう。


 「……わざとじゃない」


 「知ってる」


 すぐに離される。でも離れたあとも、その場所だけ熱が残る。


 (だめだ)


 戦いの最中なのに、そこばかり気になる。


 土方が前に出る。


 「次で切る」


 短く言う。


 何を、とは聞かなくても分かった。敵の流れを断つ。


 「見てろ」


 その言葉に、思わず息を呑む。


 次の瞬間だった。土方が踏み込む。速い。今までより一段深く、鋭く。敵の中心へ真っ直ぐ入り、流れそのものを断ち切るように動く。連携が崩れる。隊員たちがそこへ畳みかける。


 一気に押し返した。


 (すごい……)


 見惚れるしかない。


 戦いの中なのに、こんなにも綺麗で、強くて、目が離せない人がいるなんて知らなかった。


 敵がついに引き始める。足音が遠ざかる。波が切れた。


 その場に残るのは荒い呼吸と、静かな勝利の余韻。


 土方が戻ってくる。汗が額を伝っている。少し乱れた髪が、いつもよりずっと色っぽく見えてしまう。


 「……見るな」


 また言われた。


 「……見てない」


 反射で返す。


 「見てる」


 近づきながら即答する。


 そして不意に、親指で私の頬をなぞった。


 「血」


 そこに付いていた返り血を拭っただけ。たったそれだけ。


 なのに全身が熱くなる。


 「……あ」


 声にもならない。


 土方は何事もなかったように手を離した。


 「まだ終わってねぇ」


 いつもの低い声。


 「顔、戻せ」


 からかわれているのか、本気なのか分からない。


 でも、その口元がほんの少しだけ笑って見えた。


 (もう無理……)


 敵より、この人の方が心臓に悪い。


 それでも。


 次が来るなら、またこの人の隣にいたい。


 そう思ってしまう自分を、もう否定できなかった。


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