15話
次の波は、前よりも速かった。足音が近づいたと思った瞬間には、もう影が廊下の奥を埋めている。数も多い。先ほどの探り合いではなく、明確に押し潰しに来ている圧だった。空気そのものが重くなる。呼吸をするだけで喉が乾く。
「来る」
土方の声が低く落ちる。
その一言だけで、全身の意識が研ぎ澄まされる。不思議だった。怖いはずなのに、声を聞くと落ち着く。隣にいるだけで、心臓の暴れ方が少しだけ整う。
(なんでこんなに……)
考える余裕なんてないはずなのに、そんなことばかり思ってしまう。
敵が踏み込んでくる。先頭の二人が同時に間合いを詰め、その後ろが続く。連携された動き。迷いがない。
「右見るな、前だ」
土方が短く言う。
「……ああ」
視線を前に戻す。さっきまでなら焦って全部見ようとしていた。でも今は分かる。全部見ようとすると何も見えなくなる。
刃音が弾ける。隊員たちが受け流し、横から崩す。こちらもさっきより動きが良い。けれど敵も強い。押し込まれる感覚がある。
土方が一歩前へ出た。その背中が視界いっぱいに入る。広い肩、迷いなく踏み込む足、振り抜かれる腕。無駄がない。見惚れるくらい綺麗な動きだった。
(かっこいい……)
思った瞬間、自分で呆れる。今そこじゃない。
敵が左から回り込む気配。
「左!」
叫ぶ。
土方が振り向きもせず体をひねる。紙一重でかわし、そのまま相手の体勢を崩す。次の一撃で沈む。
「いい」
短い声。
それだけなのに胸が熱くなる。
(褒められた……)
戦闘中に何を喜んでいるのかと思う。でも嬉しいものは嬉しい。
次の瞬間、別の敵が間合いを詰めてきた。こちらに気づいている。戦えないと判断されたのか、真っ直ぐ狙ってくる。
体が固まる。
(やばい)
反応が遅れる。
その前に、腕を強く引かれた。
視界が揺れ、体が後ろへ引き寄せられる。背中が硬いものにぶつかった。違う。壁じゃない。土方の胸だった。
「下がれ」
耳元で低い声が響く。
近すぎる。
息が止まる。
そのまま片腕で庇われる形になり、目の前で土方が敵を捌く。腕一本でこちらを押さえたまま、もう片方で戦っている。
(無理、近い)
肩越しに伝わる体温。戦いで上がった熱。汗と木と鉄の匂い。胸板の硬さまで分かってしまう距離。
心臓が敵の足音よりうるさい。
「ぼーっとするな」
また耳元で声。
「……してない」
かろうじて返す。
「してる」
即答だった。
悔しい。でもその通りだった。
土方が敵を弾き飛ばし、ようやく腕が離れる。離れた瞬間、空気が冷たく感じた。
(なんで離れて寂しいの)
頭がおかしい。
「こっち来い」
手首を掴まれる。
強引に見えて、ちゃんと痛くない力加減。引かれるまま位置を移す。柱の陰、視界が確保しやすい場所。
「ここなら見える」
「……ああ」
掴まれた手首が熱い。離されたあとも感覚が残っている。
「顔、赤いぞ」
不意に言われる。
「……戦ってるから」
苦し紛れに返す。
「そうか」
声が少しだけ面白がっている気がした。
(絶対分かってる)
でも今は言い返せない。
再び敵が押し寄せる。今度は別方向から。隊員たちも少し疲れが見え始めている。息が荒い。動きが重い。
(このままだと)
焦りが走る。
そのとき、夢の断片が蘇った。奥の部屋。障子。そこから回り込まれていた。
「……奥!」
声が裏返りそうになる。
「部屋の中!」
土方の視線が走る。即座に二人へ合図が飛ぶ。
「潰せ!」
隊員が駆ける。直後、障子が破られ、中から敵が飛び出した。もし遅れていれば背後を取られていた。
「……助かったな」
土方が横目で言う。
「……ああ」
「お前がな」
その言葉に、一瞬意味が遅れる。
私が助かった。
守られる側だった自分が、今度は少しだけ役に立てた。
胸がいっぱいになる。
その隙に足元がもつれた。
「っ」
転びかけた瞬間、腰に腕が回る。強く引き寄せられ、そのまま体勢を立て直される。
「危なっかしいな」
低い声が真上から落ちる。
腰に回された腕が熱い。着物越しでも分かる体温。手の位置に意識が集中してしまう。
「……わざとじゃない」
「知ってる」
すぐに離される。でも離れたあとも、その場所だけ熱が残る。
(だめだ)
戦いの最中なのに、そこばかり気になる。
土方が前に出る。
「次で切る」
短く言う。
何を、とは聞かなくても分かった。敵の流れを断つ。
「見てろ」
その言葉に、思わず息を呑む。
次の瞬間だった。土方が踏み込む。速い。今までより一段深く、鋭く。敵の中心へ真っ直ぐ入り、流れそのものを断ち切るように動く。連携が崩れる。隊員たちがそこへ畳みかける。
一気に押し返した。
(すごい……)
見惚れるしかない。
戦いの中なのに、こんなにも綺麗で、強くて、目が離せない人がいるなんて知らなかった。
敵がついに引き始める。足音が遠ざかる。波が切れた。
その場に残るのは荒い呼吸と、静かな勝利の余韻。
土方が戻ってくる。汗が額を伝っている。少し乱れた髪が、いつもよりずっと色っぽく見えてしまう。
「……見るな」
また言われた。
「……見てない」
反射で返す。
「見てる」
近づきながら即答する。
そして不意に、親指で私の頬をなぞった。
「血」
そこに付いていた返り血を拭っただけ。たったそれだけ。
なのに全身が熱くなる。
「……あ」
声にもならない。
土方は何事もなかったように手を離した。
「まだ終わってねぇ」
いつもの低い声。
「顔、戻せ」
からかわれているのか、本気なのか分からない。
でも、その口元がほんの少しだけ笑って見えた。
(もう無理……)
敵より、この人の方が心臓に悪い。
それでも。
次が来るなら、またこの人の隣にいたい。
そう思ってしまう自分を、もう否定できなかった。




