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「嘘から始まる一週間」  作者: 柑橘みかん


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14/25

14話

 再び足音が遠くで鳴り始めたのに、不思議とさっきほど取り乱さなかった。怖さが消えたわけじゃない。むしろ次はもっと激しいと分かっている分、現実的な恐怖は増している。けれど胸の奥に、別の熱が残っていた。土方に水を渡されたときの指先の感触。ぶっきらぼうな声。短い言葉の中にあった確かな評価。それらがまだ消えずに、自分の中に残っている。


 (こんな時に……)


 場違いだと思う。命がかかっている場面で、そんなことを考えている余裕なんてないはずなのに、頭の片隅が妙にそこばかり覚えている。


 土方は廊下の先を見たまま動かない。わずかに肩で呼吸しているだけで、表情は崩れない。戦いの直後だというのに、乱れた様子すら見せない。その横顔に見入ってしまい、慌てて視線を逸らす。


 (見すぎ)


 自分に言い聞かせる。けれどまた見てしまう。顎の線、真っ直ぐ通った鼻筋、少し汗で乱れた髪。普段は近寄りがたい冷たさがあるのに、今は生身の人間らしさが見えて、余計に落ち着かない。


 「……何だ」


 低い声が落ちる。


 心臓が跳ねる。


 「……何でもない」


 反射で答える。


 「見てただろ」


 ばれている。


 「……見てない」


 苦しすぎる言い訳だった。


 土方はわずかに息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか分からないくらい小さな反応。


 「嘘が下手だな」


 その言葉に、胸が熱くなる。


 (またそれ言う……)


 からかわれているわけでもない。ただ事実を言われているだけなのに、妙に意識してしまう。


 「……そっちこそ」


 思わず言い返す。


 「何だ」


 「……優しすぎる」


 言ってしまってから、自分で何を言っているのかと思う。今この状況で、そんなことを口にするなんて。


 土方は数秒黙った。


 「気のせいだ」


 短く返す。


 でも、耳の先がほんの少し赤く見えた気がして、余計に鼓動が速くなる。


 (気のせいじゃない)


 そう思う。


 そのとき、足元がふらついた。緊張と疲労が一気に来たらしい。体勢が崩れそうになる。


 「おい」


 次の瞬間、腕を掴まれた。


 強く、でも乱暴ではない力で引き寄せられる。視界が近づく。胸元がすぐ目の前に来る。咄嗟に土方の着物を掴んでしまう。


 「……っ」


 息が止まる。


 近い。


 近すぎる。


 男の人の体温と、汗と木の匂いが混ざった匂いがする。さっきまで戦っていた熱が、そのまま残っているみたいだった。


 「立てるか」


 頭のすぐ上から声が落ちる。


 低くて、近くて、胸に響く。


 「……た、てる」


 声が裏返りそうになるのを必死に抑える。


 「ほんとか」


 「……ほんと」


 でも、まだ離れられない。自分の手が着物を掴んだままだと気づき、慌てて離す。


 「……悪い」


 「別にいい」


 土方はそう言いながらも、すぐには手を離さなかった。腕を支えたまま、こちらの足元を見る。


 「力入ってねぇな」


 「……今戻った」


 苦し紛れに答える。


 「嘘だな」


 即答。


 またその言葉に、悔しいのか照れているのか分からない感情になる。


 やがて土方が手を離す。離れた瞬間、さっきまであった体温が消えて、妙に寒く感じた。


 (何これ……)


 自分がおかしい。


 戦いの最中だ。もっと考えることがあるはずなのに、頭の中がその一瞬でいっぱいになる。


 土方は何事もなかったように前を向いた。


 「無理なら下がれ」


 「……やだ」


 即答だった。


 自分でも驚くほど迷いがなかった。


 「ここにいる」


 土方が少しだけこちらを見る。


 「なんでだ」


 試すような問い。


 答えは、いくつもあった。未来を変えたい。この人たちを守りたい。あの惨劇を止めたい。


 でも、一番先に口をついたのは。


 「……あんたの隣にいたい」


 言ってから固まる。


 (何言ってるの私)


 終わった。いろんな意味で終わった。


 顔が熱い。今すぐ消えたい。


 土方もさすがに黙った。数秒、時間が止まったみたいに感じる。


 やがて、低い声が落ちる。


 「……そうか」


 それだけ。


 怒られもしない。笑われもしない。


 ただ、その声が少しだけ掠れていた。


 「なら、離れるな」


 短く続く。


 心臓が痛いほど鳴る。


 (ずるい)


 そんな返し方、反則だと思う。


 遠くの足音がまた近づいてくる。現実が戻る。


 けれどもう、さっきまでとは違う。


 怖さの中に、確かな熱がある。


 土方が木刀を握り直す。こちらに視線だけ向ける。


 「来るぞ」


 「……ああ」


 頷く声が、今度は震えていなかった。


 「下がるなよ」


 「……そっちこそ」


 思わず返すと、土方の口元がほんのわずかに動いた。笑った、と言っていいか分からないほど小さな変化。でも確かにそう見えた。


 それだけで胸がいっぱいになる。


 戦いの前だというのに、こんな気持ちになるなんて思っていなかった。


 土方が一歩前へ出る。


 今度は迷わず、その背中のすぐ後ろにつく。


 隣にいたいと言ってしまった以上、もう引けない。


 でも後悔はなかった。


 この人の近くにいると、不思議なくらい怖さが薄れる。


 その代わりに、別の意味で心臓はずっと忙しいままだった。


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