14話
再び足音が遠くで鳴り始めたのに、不思議とさっきほど取り乱さなかった。怖さが消えたわけじゃない。むしろ次はもっと激しいと分かっている分、現実的な恐怖は増している。けれど胸の奥に、別の熱が残っていた。土方に水を渡されたときの指先の感触。ぶっきらぼうな声。短い言葉の中にあった確かな評価。それらがまだ消えずに、自分の中に残っている。
(こんな時に……)
場違いだと思う。命がかかっている場面で、そんなことを考えている余裕なんてないはずなのに、頭の片隅が妙にそこばかり覚えている。
土方は廊下の先を見たまま動かない。わずかに肩で呼吸しているだけで、表情は崩れない。戦いの直後だというのに、乱れた様子すら見せない。その横顔に見入ってしまい、慌てて視線を逸らす。
(見すぎ)
自分に言い聞かせる。けれどまた見てしまう。顎の線、真っ直ぐ通った鼻筋、少し汗で乱れた髪。普段は近寄りがたい冷たさがあるのに、今は生身の人間らしさが見えて、余計に落ち着かない。
「……何だ」
低い声が落ちる。
心臓が跳ねる。
「……何でもない」
反射で答える。
「見てただろ」
ばれている。
「……見てない」
苦しすぎる言い訳だった。
土方はわずかに息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか分からないくらい小さな反応。
「嘘が下手だな」
その言葉に、胸が熱くなる。
(またそれ言う……)
からかわれているわけでもない。ただ事実を言われているだけなのに、妙に意識してしまう。
「……そっちこそ」
思わず言い返す。
「何だ」
「……優しすぎる」
言ってしまってから、自分で何を言っているのかと思う。今この状況で、そんなことを口にするなんて。
土方は数秒黙った。
「気のせいだ」
短く返す。
でも、耳の先がほんの少し赤く見えた気がして、余計に鼓動が速くなる。
(気のせいじゃない)
そう思う。
そのとき、足元がふらついた。緊張と疲労が一気に来たらしい。体勢が崩れそうになる。
「おい」
次の瞬間、腕を掴まれた。
強く、でも乱暴ではない力で引き寄せられる。視界が近づく。胸元がすぐ目の前に来る。咄嗟に土方の着物を掴んでしまう。
「……っ」
息が止まる。
近い。
近すぎる。
男の人の体温と、汗と木の匂いが混ざった匂いがする。さっきまで戦っていた熱が、そのまま残っているみたいだった。
「立てるか」
頭のすぐ上から声が落ちる。
低くて、近くて、胸に響く。
「……た、てる」
声が裏返りそうになるのを必死に抑える。
「ほんとか」
「……ほんと」
でも、まだ離れられない。自分の手が着物を掴んだままだと気づき、慌てて離す。
「……悪い」
「別にいい」
土方はそう言いながらも、すぐには手を離さなかった。腕を支えたまま、こちらの足元を見る。
「力入ってねぇな」
「……今戻った」
苦し紛れに答える。
「嘘だな」
即答。
またその言葉に、悔しいのか照れているのか分からない感情になる。
やがて土方が手を離す。離れた瞬間、さっきまであった体温が消えて、妙に寒く感じた。
(何これ……)
自分がおかしい。
戦いの最中だ。もっと考えることがあるはずなのに、頭の中がその一瞬でいっぱいになる。
土方は何事もなかったように前を向いた。
「無理なら下がれ」
「……やだ」
即答だった。
自分でも驚くほど迷いがなかった。
「ここにいる」
土方が少しだけこちらを見る。
「なんでだ」
試すような問い。
答えは、いくつもあった。未来を変えたい。この人たちを守りたい。あの惨劇を止めたい。
でも、一番先に口をついたのは。
「……あんたの隣にいたい」
言ってから固まる。
(何言ってるの私)
終わった。いろんな意味で終わった。
顔が熱い。今すぐ消えたい。
土方もさすがに黙った。数秒、時間が止まったみたいに感じる。
やがて、低い声が落ちる。
「……そうか」
それだけ。
怒られもしない。笑われもしない。
ただ、その声が少しだけ掠れていた。
「なら、離れるな」
短く続く。
心臓が痛いほど鳴る。
(ずるい)
そんな返し方、反則だと思う。
遠くの足音がまた近づいてくる。現実が戻る。
けれどもう、さっきまでとは違う。
怖さの中に、確かな熱がある。
土方が木刀を握り直す。こちらに視線だけ向ける。
「来るぞ」
「……ああ」
頷く声が、今度は震えていなかった。
「下がるなよ」
「……そっちこそ」
思わず返すと、土方の口元がほんのわずかに動いた。笑った、と言っていいか分からないほど小さな変化。でも確かにそう見えた。
それだけで胸がいっぱいになる。
戦いの前だというのに、こんな気持ちになるなんて思っていなかった。
土方が一歩前へ出る。
今度は迷わず、その背中のすぐ後ろにつく。
隣にいたいと言ってしまった以上、もう引けない。
でも後悔はなかった。
この人の近くにいると、不思議なくらい怖さが薄れる。
その代わりに、別の意味で心臓はずっと忙しいままだった。




