第83話:再点火
ファロスα、C-02長期滞在区画。
朝と定められた時刻になると、夜間照明へ落とされていた通路が少しずつ明るさを取り戻していった。
まだ全ての天井灯が復旧したわけではない。何枚かおきに暗い照明が残り、壁面表示にも反応しない箇所がある。それでも空調は一定の音を保ち、時刻表示は動き、遠くからは小さな機械の駆動音まで聞こえていた。
その音が近づいてくる。白い、古い清掃ドローンだった。
ティルザがファロスαへ来たばかりの頃から動き続けている機体で、今朝も機体下部の清掃器具を床へ当てながら、一定の速度で通路を進んでいる。
《指定区画――清掃継続》
ちょうどその時。
《ROOM-11》
扉が開いた。
「おっと」
寝起きのレンが一歩出たところで、清掃ドローンと鉢合わせる。
機体が停止した。
正面のセンサーがレンを向く。
《進路上に人員を確認》
「ああ、ごめん」
レンが横へ退く。
《清掃を継続します》
「どうぞ」
短い電子音を返し、白い機体は再び進み始めた。
その少し先で、
《ROOM-12》
隣の扉も開く。
エメリだった。
すでに作業着へ着替え、片手には携行端末を持っている。清掃ドローンを見て足を止めたが、向こうはそのまま彼女の前を通り過ぎていった。
「朝から働いてるよ」
レンが言う。
「清掃機だから」
「そうなんだけどさ」
エメリは自分の部屋を振り返った。
「部屋も綺麗だった」
「昨日こいつらが掃除してたからな」
「寝具もよかった」
「気に入ったんだ?」
「うん」
「俺もよく寝られたけど、逆に静かすぎて一回起きた」
エメリがレンを見る。
「変」
「自分でも思うよ」
工房には工房の音がある。
船には船の振動がある。
自由港には自由港の喧騒がある。
普段なら気にも留めないものがなくなると、それはそれで落ち着かないらしい。
そこで三つ目の扉が開いた。
《ROOM-13》
クロンが出てくる。
「朝からなんの話をしてるんだ」
「部屋ですよ。親方はよく寝られました?」
「寝られりゃ何でもいい」
「昨日ベッド見た時、結構気に入ってたじゃないですか」
「寸法見てただけだ」
「ベッドの?」
「悪いか」
レンが笑う。
エメリは少し考えてから訊いた。
「お風呂は?」
「何が」
「長かった」
「お前らが早かっただけだ」
レンもすぐに続く。
「その後、海もずっと見てましたよね」
「あれは設備を見てたんだ」
「波まで?」
「朝からうるせえな、お前は」
昨夜。
復旧したR-03では、何十年ぶりかに温浴設備へ湯が満たされた。
まだ限定運用ではあるものの、入浴するには問題なく、環境演出も海岸のプリセットだけは正常に動いた。
青い空。
砂浜。
その向こうに広がる海。
人工的に再現された潮騒と、微かな潮風。
ファロスαの内部にいると分かっていても、長い作業の後に湯へ浸かりながら眺めるには悪くなかった。
その後、三人は用意された個室へ戻り、初めてそこで一晩を過ごした。
レンの部屋には工具鞄と着替え。
エメリの机には携行端末と小型の診断器具が、昨夜のうちにきちんと並べられていた。
クロンの部屋だけは持ち込んだ荷物が壁際へまとめて置かれたままで、それでもベッドだけはしっかり使った跡が残っている。
昨日まで誰も暮らしていなかった三つの部屋に、早くもそれぞれの癖が出始めていた。
通路の奥では、先ほどの清掃ドローンが変わらず床を磨いている。
その向こうからは別の駆動音が近づいてきた。
今度は整備支援機だった。一機、その後ろにもう一機と続き、交換用の空調フィルターと工具箱を載せた二機が三人の前を通り過ぎていく。
《C-02空調設備――保守作業》
《作業経路――確保》
「良く動いてますね」
レンがその背中を見る。
「働いてる」
エメリが言った。
「こっちも行くぞ」
クロンは歩き出す。
「今日は主推進見るんですよね」
「ああ」
「ドローンが入った道、生きてたんですかね」
「どうだろうな」
「朝食はどうします?」
レンが訊く。
クロンが振り返った。
「先に食ってからだ」
「ですよね」
エメリが頷く。
「お腹空いた」
三人が歩き出す。
その後ろを、清掃を終えた白い機体がゆっくりと別の通路へ曲がっていった。
◇
朝食を済ませて中央管制へ入ると、そこでもすでに機械達が動いていた。
壁際では復旧した整備支援機が開いた端末盤の前に止まり、一機が内部を診断し、その横でもう一機が交換部品を保持している。
少し離れた搬送口からは、工具や資材を載せた別の機体が出入りしていた。
以前なら広い管制区画の中で聞こえる音といえば、空調と古い機器の駆動音くらいだった。
今は違う。
機械が動き、物が運ばれ、使えるようになった設備から次の設備へと作業が移っていく。
中央卓では、カイン達が昨日の先行調査結果を確認していた。
カイン。
アイリス。
ティルザ。
少し離れた端末にミラ。
壁面表示の一角には、アドミラルの黄金の単眼が浮かんでいる。
「来ましたね」
ティルザが顔を上げた。
「通路はどうだ?」
クロンは中央卓へ近づく。
「通れます。ただ、真っ直ぐとはいきません」
施設図が拡大される。
《P系統接続通路》
《先行調査――完了》
《気密――維持》
《環境値――許容範囲》
《構造損傷――二箇所》
《主搬送路――一部閉塞》
《迂回経路――確認》
ファロスα後部。
P-17からP-24へ続く区画に、一本の経路が表示されていた。
「先行した整備支援機は、途中から保守通路へ入っています」
ティルザが経路を切り替える。
「私達が使うなら、こちらです。少し遠回りになりますけど、大型の工具や交換部品も運べます」
「そっちでいい」
クロンが答える。
カインが施設図を見る。
「環境は」
『有人作業可能範囲にある』
アドミラルが応じた。
『ただし長期間閉鎖されていた区画だ。局所的な腐食、構造材の劣化、堆積物には注意が必要だ』
「保護装備は用意してあります」
ミラが付け加える。
「先に入った整備支援機からも、大気に重大な異常は報告されていません」
「なら行けるな」
カインが言う。
ティルザはP系統の表示をもう一度確認した。
「主推進区画の状態は、中央からではほとんど分かりません。昔の記録と、昨日送った機体からの外観確認だけです」
「十分だ」
クロンが言った。
「中まで分かってたら、俺らが行く必要もねえ」
「それもそうですね」
ティルザが携行端末を外す。
アイリスも立ち上がった。
「私も行く」
カインが横を見る。
「長いぞ」
「知ってる。でも気になるし」
「ならいい」
「私も行きます」
ティルザが続いた。
「ここの設備ですから。自分の目で見ておきたいです」
クロンは誰が来るかについて特に何も言わず、レンとエメリへ目を向ける。
「工具持てよ」
「もう持ってます」
レンが腰の工具を軽く叩く。
「私も大丈夫」
エメリも短く返す。
「なら行くぞ」
◇
ファロスα後部下層。
居住区や管制区画から離れるにつれ、内部の景色は少しずつ変わっていった。
壁の中へ隠されていた配管はむき出しになり、天井には何本もの電力幹線と冷却管が走っている。
床には大型機材を搬送するためのレールが残り、その横を先行する整備支援機が進んでいた。
一機は照明。
もう一機は簡易診断器を動かしながら、昨日記録した経路を再確認している。
途中の分岐では別の作業機とすれ違った。
壁面を開き、停止していた電力盤の状態を調べている。
「ここにもいた……」
アイリスが横目で見る。
「昨日から順番に回してます」
ティルザが答えた。
「起こした機体を遊ばせておく余裕はありませんから」
「今何機くらい動いてるの?」
「この区画の整備支援機だけなら、かなり戻りました。ほかの区画で見つかった作業機も含めれば、動いている機体はもっとあります」
「増えたね」
「はい。それは間違いないです」
先頭の機体が曲がる。
一行も後に続いた。
「これ全部、主推進用の?」
アイリスが上を見る。
「全部じゃねえな」
クロンが答える。
「冷却もある。電力もある。補機もある。基地一個動かすんだ。エンジンだけ置いときゃ済む話じゃねえ」
「確かエーテル系統はないんだよね」
「ああ」
カインが答える。
「こいつが造られた時代には、今みたいなエーテル推進はない」
現在なら結晶制御やエーテル機器へ置き換えられている部分も、ファロスαではもっと物理的な形で残っている。
そこには大きな電力設備があり、熱を逃がす冷却系と推進剤を送る配管、それらを個別に管理する制御機器が、それぞれ独立した形で残されていた。
しばらく進んだところで、先頭の整備支援機が停止した。
正面に、大型隔壁。
残っている文字の一部は薄れている。
「ここです」
ティルザが認証情報を送った。
一度目。
反応なし。
二度目。
壁面の小さな表示灯が弱く点く。
内部で古い機構が動き始めた。
隔壁が左右へ開く。
しかし、半分ほどで止まった。
「行けるかな」
レンが隙間を覗く。
「人は通れる」
エメリが言う。
「機材は無理だな」
クロンが右側の保守盤を見る。
ミラが古い設備図を開いた。
「手動解放があります。その盤の内部です」
「レン」
「了解っす」
クロンとレンが保守盤を開く。
中には電動系とは別に、機械式の解除機構が残っていた。
レンが工具を差し込む。
「……重い」
「無理に回すな。噛んだら余計面倒になる」
少し戻す。
位置を変える。
もう一度。
鈍い音を立て、機構が動いた。
「来た」
「そのまま」
二人が力を掛けると、隔壁が再びゆっくりと開いていく。
大型機材を通せる程度まで広がったところで止めた。
その先へ照明を向けたアイリスが、少しだけ目を見開く。
暗闇の奥まで、機械が続いていた。
最初に並んでいるのは大型の電力変換設備だった。
人の身体より大きな変換器。
太い導体。
機械式の遮断装置。
現在のエーテル機器なら見慣れた結晶制御部は、どこにもない。
クロンは最も近い機器へ寄り、表面へ指を走らせた。
薄い埃の下から金属の地肌が現れる。
「なかなか古いですね」
レンが言う。
「見りゃ分かる」
「いや、思ってたよりですよ」
「その割には悪くねえ」
クロンは接点と外装を確かめる。
エメリはすでに隣の制御盤を開いていた。
「電源、来てない」
「来てたら逆に怖えよ」
「局所電源探す」
「はいよ」
エメリは端末を繋ぐ。
一つ目。
反応なし。
二つ目。
微弱な応答。
もう一度接続を確かめる。
「いる」
レンが振り返った。
「何が?」
「制御器。まだ返事する」
「読めそう?」
「少し」
クロンが横から言う。
「壊すなよ」
「壊さない」
エメリは気にせず作業を続ける。
そこから先には一次、二次の冷却設備をはじめ、大型ポンプや熱交換器、推進剤供給系が順に並んでいた。
設備そのものは形を保っていても、シール材が硬化している場所がある。外観上は無傷でも軸が固着したポンプもあれば、逆に電力さえ入ればまだ使えそうな制御器も残っていた。
さらに奥へ進み、最後の隔壁を抜けた時。
空間が一気に広がった。
アイリスが足を止める。
「……大きいね」
ファロスαの後部構造へ沿うように、巨大な主推進設備が並んでいた。
現在の艦艇であればもっと小さくまとめられる機能が、一つ一つ独立した機械として据え付けられている。
太い配管が主機へ入り、床下からは大電力用の幹線が伸び、上部には冷却設備が走っていた。
「ああ」
クロンは主機を見上げた。
そこからしばらく、何も言わない。
新しい機械を見た時とは違う。
古い設備が何を目的として、どういう考えで造られたのかを読み取るように、一つずつ視線を動かしていく。
やがて大型の外殻を軽く叩いた。
「古いが、悪くねえ作りだ」
「動くか?」
カインが訊く。
「まだ聞くな」
「そう言うと思った」
「なら聞くなよ」
クロンは主機そのものより、その周囲を見る。
「本体が完全に死んでる感じじゃねえな。先に駄目になってるのは……周りか」
「冷却ですかね?」
レンが訊く。
「冷却、電力、制御。あと配管。まずそっちだ」
エメリが古い制御盤を見る。
「これ、替えたい」
「全部か?」
「できれば」
「駄目だ」
「まだ何も言ってない」
「全部替えるつもりだろ」
少し間があった。
「……できれば」
「同じじゃねえか」
レンが笑う。
「エメリ、まず一つから」
「古いよ」
「古いのは見れば分かるって」
「不安」
「動いてから替えればいいって」
エメリはしばらく制御盤を見た。
「じゃあ後で」
「後ではやるんだな」
クロンが工具義肢を軽く鳴らした。
「一系統だけ起こす。状態が一番ましな主機を一つ選んで、そこへ電気を通す。冷却も一系統。制御は生きてるところを残して、駄目なところだけ今の機材に繋ぎ直す」
「全部直さないの?」
アイリスが訊く。
「全部直してから動くか確かめるなんてやってたら、いつまで経っても終わらねえ」
クロンは主機を見上げる。
「まず、こいつが自分で押せるか。それが分かれば次を考える」
カインが頷いた。
「それでいこう」
ティルザも施設図へ対象系統を記録する。
「必要な区画と電力は、こちらで優先します。整備支援機も回します」
「頼む」
「はい」
それだけで方針は決まった。
◇
そこから数日。
ファロスαでは、いくつもの作業が同時に進んでいった。
主推進区画では、選び出した一系統を中心に、冷却と電力設備の復旧が始まった。
固着したポンプは取り外され、保管庫に残っていた同規格品と比較される。使えるものはそのまま使い、劣化したシール材やセンサーだけを交換する。
古い規格のままでは現在の診断機器を繋げない場所には、エーテル・ガイストの工廠で作った変換部品を挟んだ。
作業をしているのは人間だけではなかった。クロン・ワークスから持ち込んだ作業ドローン《UNIT-KW01》と《UNIT-KW02》に加え、復旧したファロスαの整備支援機も各区画へ散っている。工具を運ぶ機体がいれば、取り外した部品を回収する機体もあり、別の一機は配管内部へ診断器を差し込んでいた。昨日修理を終えたばかりの機体が、今日は別の機体を直すための部品を運んでいる。
中央管制の施設図にも、そうした機体を示す識別表示が少しずつ増えていた。
その一方で、あの古い白い清掃ドローンは何も変わらない。
朝になればC-02の通路を掃除し、昼には共用区画へ移り、作業機が汚した床があれば指定された場所へ向かう。
《通路清掃を継続します》
「してください」
通り掛かったティルザが答える。
《了解しました》
白い機体はそのまま仕事へ戻る。
ティルザは少しだけその背中を見てから、自分も次の区画へ向かった。
以前なら、動いている機械といえばあの清掃ドローンくらいだった。
今はその向こうを、交換部品を積んだ整備支援機が二機続けて通り過ぎていく。
第二整備区画でも、帰投した旧所属船の修理が進んでいた。
船体そのものは使える部分を残し、長く放置されていた配線や制御系へ優先的に手を入れる。
ファロスαの保管庫から出てきた古い部品。
クロン達が持ち込んだ現行部品。
エーテル・ガイストで製作した代替品。
それらを組み合わせながら、少しずつ機能が戻されていった。
必要だが今すぐ用意できない消耗品については、クロン・ワークスを通して自由港側へ注文だけを出している。
今あるものだけでも、できることは多かった。
数日前まで完全に沈黙していた旧所属船には再び主電源が入り、姿勢制御まで反応するようになった。
まだ遠距離を飛ばせる状態ではない。
それでも固定具を解除し、整備区画の中で数メートルだけ自力移動して、もう一度同じ位置へ戻る。
そこまで確認できた時、レンは船を見上げてしばらく黙っていた。
「どうしたんだ」
クロンが訊く。
「いや」
レンは船体を見たまま答える。
「帰ってきて、ちゃんと直ったんだなと思って」
「まだ途中だがな」
エメリが端末から顔を上げる。
「でも動いた」
「ね」
「うん」
クロンは二人を見たあと、それ以上は何も言わず次の作業へ戻った。
◇
復旧が進むにつれ、人間の動ける範囲も広がっていった。
広いファロスαの中を毎回歩いて移動するのは効率が悪い。そこで。
「もう少し速度落とせ」
「落としてるよ」
「まだ速い」
「これ以上落としたら止まるんだけど」
広域搬送路を、ランタンがゆっくりと走っていた。
操縦しているのはアイリス。
少し後ろをカインが歩いている。
サイドカーは外してある。
アイリスが自分から乗ってみたいと言い出したのが始まりだった。
「曲がるよ」
「ああ」
「……どうするんだっけ」
「身体ごとだ」
「そうだった」
ランタンが緩く傾く。
車体もそれに合わせて曲がる。
少し曲がりすぎた。
「戻せ」
姿勢補助が働き、車体が揺れながら直線へ戻った。
アイリスは少し先で停止する。
「……難しい」
「最初はそんなもんだ」
「カインは簡単そうに乗るのに」
「慣れてるからな」
「またそれ」
遠くから、整備支援機が一機近づいてくる。
アイリスはそれに気づくと、今度は早めにランタンを通路の端へ寄せた。
工具を積んだ機体が横を通過していく。
《通行ありがとうございます》
アイリスが振り返る。
「今、お礼言われた」
「言うようにしてあるんじゃないか」
「ちょっと嬉しい」
「そうか」
「……そこはもう少し何かないの?」
「何かって何が?」
「……もう一回やるね」
もう一度アクセルを開く。
二周目は、一周目より滑らかだった。
数日後には、居住区と工廠区画の間くらいなら一人で走れるようになっていた。
◇
ヴィジルにも手が入った。
自由港で修復した車体自体は問題なく動いていたが、空いていた武装基部にはまだ本格的な装備が載っていなかった。
そこでエーテル・ガイストの工廠を使い、車体の出力と重量に合わせた遠隔武装ユニットを製作する。
無理に大火力を載せるのではなく、ヴィジル本来の運用を邪魔しないことを優先した構成だった。
搭載後。
旋回。
照準追従。
姿勢補正。
安全装置。
そこまで確認したところで、実射試験は後回しになった。
ファロスα内部で撃つ理由はない。
代わりに走行試験を兼ねて、主推進区画へ交換部品を運ぶことになった。
操縦席にはカイン。
その隣にティルザ。
後部には修理を終えた冷却ポンプと配管部品が固定されている。
「先輩」
「何だ」
「これ、試運転ですよね?」
「ああ」
「完全に荷を運んでますけど」
「ついでだ」
「武装車両ですよね」
「広いからな。荷物も運べる」
通信からクロンの声が入った。
『苦労して直したんだ。ぶつけるなよ』
「分かってる」
『特に後ろのポンプだ。車よりそっちの方が今は大事だからな』
ティルザが横を見る。
「ヴィジルよりポンプの方が大事だそうです」
「今はな」
『聞こえてるぞ』
「聞こえるように言ってる」
『お前な……』
ヴィジルが低い浮上音を響かせながら進んでいく。
ランタンほど軽快ではない。
その代わり、重量のある車体は広い搬送路を安定して進み、取り付けたばかりの武装ユニットも走行中の揺れを補正しながら指定方向を維持している。
主推進区画へ到着すると、レンが後部へ回った。
「ナイスタイミング。これを待ってた」
固定具を外す。
近くにいた整備支援機がすぐに寄ってきて、ポンプを受け取るためのアームを伸ばした。
レンが機体へ固定位置を指定する。
「そこ。ゆっくり」
《了解》
「そう。そのまま」
ポンプが持ち上がる。
別の整備支援機も近づき、配管部品を回収する。
数分もしないうちにヴィジルの後部は空になった。
「何かと便利ですね」
ティルザが言う。
「だな」
カインも認める。
人の手だけでなく、復旧した機械が次の作業を助けるようになったことで、ファロスαの中を流れる作業そのものが少しずつ速くなっていた。
◇
主推進区画で最初の本格的な通電試験が行われたのは、それから二日後だった。
選んだ一系統へ、まず補助電力だけを送る。
主機にはまだ火を入れない。
まず電力変換設備を確認し、次に制御系、そして冷却へと順番に状態を確かめていく。
《P系統補助電力――接続》
長く消えていた表示が一つ灯る。
それから少し遅れて。
《一次冷却――循環開始》
修理したポンプが低く震えた。
配管の中を流体が動き始める。
レンが圧力表示を見る。
「上がってきた」
「急がせるな」
クロンが横から確認する。
「漏れは?」
「……今のところないですね」
「今のところ、だ。継手もう一回見ろ」
「了解です」
レンが移動する。
すぐ横では、ファロスαの整備支援機が配管へ診断器を当てている。
《接続部――異常なし》
「こっちは大丈夫」
「次」
クロンが指示する。
別の機体が動く。
少し離れた場所では、UNIT-KW01が取り外した旧センサーを運び、UNIT-KW02が新しい配線の固定を続けていた。
エメリは古い制御器と新しい制御機器を繋いだ端末の前にいる。
「信号、通った」
「主機は」
「見える」
エメリが表示を切り替える。
これまで何も返さなかった主推進設備の状態欄へ、少しずつ情報が現れ始めた。
温度。
圧力。
制御応答。
全てが正常というわけではない。
反応しない設備もある。
警告を返す系統も残っている。
それでも、選び出した一系統だけは違った。
《主推進制御――応答》
レンが戻ってくる。
「返ってきた」
「返事しただけだ」
クロンは表示を見たまま答える。
「今日はここまで」
「火、入れないんです?」
「入れねえ」
「せっかく返ってきたのに」
「だからだ」
クロンがレンを見る。
「冷却回して半日置く。圧力と温度が安定するか確かめる。ここで急いで壊したら、今まで何やってたか分かんねえだろ」
エメリも表示を見る。
「私もそれがいい」
その日は、主機を起こさなかった。
夜になっても冷却は止めず、管制側と整備支援機が状態を監視し続けた。
翌朝。
温度は安定。
圧力低下なし。
交換したセンサーにも大きなずれはない。
制御信号も維持されていた。
そこでようやく、クロンは中央管制へ連絡を入れた。
『いけるぞ』
◇
その日の午後。
ファロスα中央管制室。
一週間ほど前と比べれば、灯っている表示は明らかに増えていた。
まだ灰色の区画は多い。
閉じたままの隔壁もある。
用途さえ確認できていない場所も残っている。
完全復旧には程遠い。
だが、C-02では人が暮らし、R-03では湯が循環している。
第二整備区画では旧所属船へ電力が戻り、各所では復旧した整備支援機が行き交っている。
白い清掃ドローンは今日も通路を掃除している。
そして今。
基地そのものを動かすための主推進設備へ、何十年ぶりかに火が入ろうとしていた。
中央卓の前にカイン。
横にアイリス。
その向かいにティルザ。
ミラが各区画から集まる数値をまとめ、壁面表示にはアドミラルの黄金の単眼が浮かんでいる。
主推進区画からはクロン達が接続していた。
《P系統補助電力――正常》
《一次冷却――正常》
《二次冷却――正常》
《主推進制御――限定復旧》
《試験対象――一系統》
《出力上限――5%》
アイリスが最後の数字を見る。
「五パーセントだけ?」
「五パーセントまでだ」
カインが答えた。
「それでも動く?」
「動く。宇宙ならな」
ティルザが姿勢制御側の表示を確認する。
「位置がずれた後に止める方も確認済みです。ただ、今日は本当に少し動かすだけにしましょう」
「ああ」
通信が入る。
『こっちは準備できてる』
クロンだった。
ティルザが確認する。
「冷却は?」
『安定』
「温度」
『問題なし』
「制御」
エメリが答える。
『正常。遅れも許容範囲』
「主機は?」
レン。
『応答してます。いつでもどうぞ』
少し間を置き、クロンが続けた。
『五パーセントまでだぞ。途中で変な数字出たら即止める』
「分かりました」
ティルザが答える。
『カイン、お前もだ』
「俺が何するんだ」
『こういう時に余計なことすんなって言ってんだ』
「しない」
『本当か?』
「親方、今はティルザさんが操作してるから大丈夫ですって」
レンの声が入る。
アイリスが小さく笑った。
カインだけが少し眉を寄せる。
「始めるぞ」
「はい」
ティルザの表情が戻る。
中央卓へ手を伸ばした。
《主推進試験――開始》
長く沈黙していた設備へ、順番に指令が送られていく。
《推進補機――起動》
《供給系――確立》
《冷却流量――維持》
《主推進器――待機》
表示だけが進む。
まだ振動はない。
アイリスが外部映像を見る。
「静かだね」
「まだ出してない」
カインが答えた。
次の表示。
《出力――1%》
ごく低い振動が床から伝わってきた。
エーテル・ガイストの主機とはまるで違う。
身体の奥まで響くようなものではない。
もっと重く。
遠くで巨大な機械がゆっくりと動き始めたような振動だった。
アイリスが足元を見る。
「これ……」
「ああ」
外部映像。
ファロスα後部。
長い間、完全に暗かった主推進器の一つ。その奥へ、ごく弱い光が生まれた。
現在のエーテル推進が見せる光とは違う。
古く、力任せで、どこか無骨な推進光。
それでも。
確かに火が入っている。
《推力発生――確認》
アイリスが画面を見た。
「出たね」
ティルザは数値から視線を外さない。
「まだ位置変化はありません」
《出力――3%》
床の振動が僅かに強くなった。
ミラが外部測位情報を重ねる。
「推力値、安定」
『冷却正常』
クロン。
『温度上昇も予測内だ』
《出力――5%》
推進光が一段だけ強くなる。
数秒。
外部映像を見ているだけでは、何も変わっていないように見えた。
だが。
「位置情報、変化しています」
ミラの声。
アイリスが表示へ顔を近づける。
「動いた?」
「……待て」
カインが数値を見る。
ほんの僅かずつ。
周辺基準点に対するファロスαの座標が変わっていく。
《相対位置変化――確認》
《自力推進――成立》
ティルザが短く息を吐いた。
「確認しました」
表示をもう一度見る。
「ファロスα、自力で動いています」
カインはすぐに言った。
「止めるぞ」
「はい」
《出力――2%》
《出力――1%》
《主推進器――停止》
後部に灯っていた光が弱まり、やがて消えた。
今度は姿勢制御が働く。
生じた僅かな速度を打ち消し、基準位置へ合わせていく。
《相対速度――減少》
《位置保持――成立》
最後の表示が出る。
中央管制室へ静けさが戻った。
通信の向こうで、レンが息を吐く音が聞こえた。
『……動いたな』
「うん」
エメリが答える。
『数字も問題ない』
『だから問題ないって言い切るのはまだ早え』
すぐにクロンが割って入った。
『冷却も制御も最低限だ。動いたからって、このまま航海できると思うなよ』
「分かってる」
カインが答える。
『ならいい』
声はいつも通りだった。
それでも、少しだけ満足していることはレンにもエメリにも分かっていたらしい。
『親方も嬉しそうっすね』
『レン』
『何です?』
『次、冷却止めるぞ。そっち見ろ』
『了解です』
「私も見る」
『エメリは反対側だ』
「分かった」
通信の向こうで、もう次の作業が始まっていた。
ティルザはその声を聞きながら、中央卓に広がる施設図を見る。
まだ灰色の方が多い。
それでも、以前とは違う。
居住区では人が眠り、通路では清掃ドローンが働き、整備支援機が部品を運んでいる。
工廠では機械が直され、第二整備区画では帰ってきた船が再び動き始めている。
そして今。
ファロスαそのものも、自分の力で位置を変えた。
「先輩」
ティルザがカインを見る。
「何だ」
「動きましたね」
「ああ」
「まだ五パーセントですけど」
「クロンみたいなこと言うな」
「大事なところですから」
アイリスが二人を見る。
「でも、昨日までの事考えるとすごいよね」
「そうですね」
ティルザは施設図へ視線を戻した。
「だから今日は、それで十分です」
『試験結果を記録した』
アドミラルの声が響く。
『ファロスα――限定自力航行能力を確認』
施設図の後部。
それまで灰色だった区画の一部へ、稼働を示す表示が加わる。
完全に目を覚ましたわけではない。
まだ眠ったままの区画も、動かない機械も数え切れないほど残っている。
それでも、基地の中では人と機械が絶えず行き交い、使える場所は昨日より確実に増えていた。
長い間、星の間に留まり続けていたファロスαは、もうただそこに漂っているだけの基地ではなくなっていた




