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トリニティ・ガイスト:亡霊と少女と軍神の航跡  作者: ベルシア


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第73話:四人の役

「……これでいい?」


 鏡の前に立ったまま、ノインが訊いた。

そこに映っているのは、自由港へ入ってから使っていた擦れた外套姿でもなければ、任務用の装備を身につけた試作体でもない。

 

 薄手のジャケットに無地のシャツ。身体の線を拾いすぎない細身のパンツに、足元も軍用規格のブーツではなく、自由港の通りを歩いていても誰も気に留めない程度の簡素な靴へ替わっている。


 どれも特別高価ではなく、色も形も珍しくない。むしろ店内に並ぶ商品の中でも、意識して特徴の薄い物ばかりを選んでいた。胸部の簡略化されたセラフィックコアの輪郭も、シャツとジャケットを重ねたことでほとんど見えない。知らなければ、そこに人間とは異なる機構が埋め込まれているとは気づかないだろう。

 

 少し離れた壁際では、エリカ・ヴァイスがその姿を上から下まで確認していた。


「悪くないわね」


「悪くない?」


「少なくとも」


 エリカは少し位置を変えながら、正面から横、そして背中へと視線を走らせた。


「施設から、そのまま出てきたようには見えないわ」


「それは褒めてる?」


「今回はそう思っていいわ」


「そう」


 ノインはもう一度鏡へ向き直ると、身体を左右へ捻り、腕を上げて肩を回した。そのまま軽くしゃがみ、立ち上がる。新しい服を試着している客というより、新しい装備の可動範囲を確かめている兵士に近い。


「動きにくくない」


「なら十分ですね」


 壁へ背を預けていたダリオ・マークスが言った。彼自身も軍装ではない。自由港へ入ってから使っている民間人風の服装で、丈夫そうな上着に使い込まれた作業用パンツを合わせている。


 腰回りにも、一目で軍用品だと分かる物は置いていない。船乗りにも、工房の作業員にも、護衛にも見える。そういった人間の多い自由港では、どれであっても不自然ではなかった。ただ、服を変えても消えないものはある。


 立つ場所の選び方。入口と店内を同時に見られる位置を取る癖。人が近づけば自然にそちらへ視線が向く癖。

ノインは鏡越しにダリオを見る。


「服は、動きやすさだけで選ばないんでしょう?」


「まあ、そうですね」


「じゃあ」


自分のジャケットの裾を摘まむ。


「これは何を基準に選んだ?」


「目立たないことです」


「それは任務上の機能では?」


ダリオが一度黙った。


「……言われてみれば」


横でエリカが小さく息を吐いた。


「今日は、服を学びに来たわけじゃないの」


ノインが振り返る。


「違う?」


「違わないけど、それが一番じゃない」


 エリカは店内へ視線を向けた。

昼を少し過ぎた店内には、それなりに客がいた。陳列棚の前で服を広げる女。二つの商品を身体へ当て、連れに何か訊いている若い男。値札を見比べる老人。試着室から出てきて、そのまま鏡の前で何度も身体の向きを変えている客。

 

 店員はそれぞれの間を歩きながら、声を掛けたり、あえて掛けなかったり、乱れた商品の位置を戻したりしている。

 

 誰も、ノインを見ていない。試作体。セラフィックコア。実戦試験。そうした言葉とは何の関係もない場所で、ただ服を選んでいる一人の客として、そこにいる。


「人の中へ混ざる」


エリカが言った。


「そのための準備よ」


「人の中」


「そう」


 ノインは店内を見る。視線を動かす。

一人。二人。三人。だが。

誰もこちらへ視線を返さない。


「……見られてない」


「それでいいの」


「見られない方がいい?」


「少し違うわ」


 エリカは鏡の横へ立った。


「姿を消す必要はないの。そこにいて、店員と話して、物を買って、他の客の横を歩く。それでも誰も変だと思わない」

 

 エリカは一度ノインを見る。


「後から訊かれても、普通の客だったで終わる。それでいいのよ」


「普通の客」


「そう」


 ノインは鏡の中の自分へ視線を戻した。

外見だけなら、確かにどこにでもいそうな若い女だった。少なくとも、自由港の路地でスティレットを操り、カイン・ウォーカーと刃を交えた試作体には見えない。


「難しい」


ノインが言う。


「何が?」


「戦闘なら何をすればいいか分かるのに」


エリカは何も言わない。


「相手を見る」


「武器を見る」


「距離を見る」


「攻撃されたら避ける」


「隙があれば攻撃する」


「でも」


 ノインは周囲を見る。


「ここでは、何を見ればいいか分からない」


「全部見る必要はないの」


「じゃあ、どれ?」


「それを覚える」


 短い答え。ノインが少しだけ眉を寄せる。


「やっぱり難しい」


「だから試験になるのよ」


 以前にも聞いた言葉だった。

ノインは少し考え、頷く。


「分かった」


 足元で、小さな駆動音が鳴った。

四脚の仮筐体へ収まったガントリーが、わずかに位置を変える。四本の脚に簡素な頭部。高級な警護用ペットロボットと言えば、自由港では通る姿だった。


《当機も服装変更が必要か》


「あなたはそのままでいいわ」


《理由を要求》


「その姿なら、この辺りでは不自然じゃないから」


《了解》


「納得した?」


《不明》


ダリオが少し笑った。


「それで了解になるんですか」


《指示内容は理解》


「理由は?」


《完全理解には至らず》


「正直ですね」


 エリカは額へ手をやりかけ、途中で止めた。


「……そっちは後でいいわ」


 会計もノイン自身にやらせた。

選んだ服を抱えて列を探し、最後尾へ並ぶ。前には三人。ひとりの会計が終わるたび、ノインも前の客を見てから一歩ずつ距離を詰めていった。

 

 途中、横から別の客が通り抜ける。身体が反射的に動きかけたものの、戦闘時のように大きく距離は取らない。肩が触れないだけの隙間を作ると、相手も何も言わずそのまま通り過ぎていった。


「次のお客様、どうぞ」


 店員が呼んだ。

ノインは一拍置き前へ出る。


「こちらで全部ですか?」


「……全部」


「はい」


 店員が商品を確認していく。

一着。二着。小さな読取音。表示された金額を、ノインはしばらく見る。


「こちらへお願いします」


 店員が決済機を示す。

ノインは携行端末を取り出した。

かざす。短い電子音。


《決済完了》


 それだけだった。戦闘のような判定も、任務達成を知らせる表示もない。


「ありがとうございました」


店員が笑った。


ノインは動きを止めた。


「……ありがとう」


店員の表情は変わらない。


「またどうぞ」


袋を渡される。


ノインは受け取った。

そのまま少し歩き入口を出る。


     

 店の外。自由港の通りへ戻る。

人工重力下の舗装面を、人が絶えず行き交っている。向かいでは露店が簡単な食事を売り、少し先では貨物を積んだ小型搬送車が人の流れを避けながら進んでいる。

 

 上層へ続く歩廊に看板、剥き出しの配管、壁面広告。統一されている物は少ない。古い区画へ新しい物を足し、壊れれば別の物へ交換しながら使い続けてきた、自由港らしい景色だった。


 人の流れへ入ったところでエリカがノインを見る。


「今のは悪くなかったわ」


「遅れた」


「次は早くなる」


「でも」


ノインが店の方を見る。


「あの人、笑ってた」


「店員ですからね」


ダリオが答えた。


「接客です」


「私に対して?」


「あなたにも」


 ダリオは少し考えた。


「他の客にも、だいたい同じでしょう」


「じゃあ」


「私だから笑ったわけじゃない?」


「たぶん違います」


「そう」


 ノインは少し黙り、そのまま数歩歩いた。


「意味はない?」


「意味がないわけではありません」


 ダリオが言う。


「仕事として笑う」


「それも人の行動です」


「笑ってるのに?」


「機嫌がいいとは限らない」


「怒ってなくても?」


「笑わない人もいます」


 ノインが止まりかける。


「難しい」


「歩きながら考えなさい」


エリカが先へ進む。


「後ろが詰まるわ」


「あ」


 ノインは前を見る。

自分の後ろから来ていた男が、少し横へ避けて追い越していった。


「今のも?」


「今のも」


「邪魔だった?」


「少しね」


「怒ってた?」


「知らないわよ」


「見れば分かる?」


「全部分かろうとしなくていいの」


エリカは振り返らない。


「必要なところだけ覚えなさい」


「必要なところ」


 ノインが呟く。そしてまた歩き出した。


     

 自由港の娯楽区画へ近づくほど、景色は変わっていった。工房街では、機械の音が多い。居住区では生活の音が多い。この辺りは違う。目立つための音が多かった。店から漏れる音楽に客引きの声、勝敗を知らせる電子音。光量を競うような立体看板の下を広告映像が走り、酒の匂いと人の熱が混ざっている。

 

 どこかで大きな笑い声が上がれば、その向こうからはさらに大きな怒鳴り声が返ってきた。

金が増えた人間と、減った人間。どちらも同じ通りを歩いている。ノインは何度も左右へ視線を動かしていた。


「多い」


「人?」


「違う」


ノインが少し上へ視線を向ける。


「カメラ」


エリカも見る。


 天井。壁際。店の入口。角。形は違う。

民間用。店舗用。区画管理用。確かに多い。


「賭場区画だからね」


エリカが言った。


「金が動く場所は、見る側も多いの」


「何を見る?」


「不正」


「喧嘩」


「盗難」


「客同士の揉め事」


「それから、店側が困ること全部」


ノインはまた一つカメラを見る。


「見られてる」


「そうね」


「でも普通にする?」


「そういうこと」


「気にしない?」


「気づいていても、気にしていないようにする」


「……難しい」


ダリオが横から言う。


「今日はそれを何回言うんですか」


「難しいから」


「まあ」


ダリオは否定しなかった。


「間違ってはいませんけどね」



 戦場とは違う。敵はいない。銃口も向けられていなければ、攻撃予測も必要ない。

それでも、人の数だけ行動があり、その一つひとつに違う理由がある。ノインにとってここは、戦闘とは別の意味で処理しなければならない情報の多い場所だった。

 

 ダリオの携行端末が短く一度だけ震えた。周囲の音に埋もれる程度だった。ダリオは歩調を変えないまま、画面だけを確認した。


「まだ見えています」


エリカが横目を向ける。


「カイン?」


「はい」


「位置は」


「工房街方面」


ダリオの指が動く。


「食堂を出た後も移動を継続」


「追跡屋は三線」


「途中で一度切れましたが、再捕捉しています」


「接触は」


「なし」


「気づかれてると思う?」


「可能性は高いでしょうね」


ダリオは即答した。


「相手が相手です」


「そうね」


 だからこちらも直接は追っていない。自由港の人間を使い、距離を取る。一人に見続けさせず、途中で人を替える。見失っても無理には詰めない。カイン・ウォーカーが自由港にいる。

その位置だけを拾い続ける。目的は捕縛ではない。今はまだ、どこへ向かうのかを見るだけでいい。


「そのまま」


エリカが言う。


「工房へ入った場合も、外で待たせて」


「了解」


ノインが二人を見る。


「カイン・ウォーカー」


「そうよ」


「追ってる」


「ええ」


「どうして?」


エリカがノインを見る。


「任務理由なら説明したでしょう」


「それは知ってる」


「じゃあ何?」


「どういう人なのか」


ノインは少し首を傾けた。


「知らない」


ダリオが画面から目を上げる。


「戦ったでしょう?」


「戦った」


「かなり近くで」


「うん」


「それで十分では?」


ノインは少し考える。


「戦った時のことしか知らない」


その言葉にダリオが少し黙った。


「相手を知れば」


ノインは続ける。


「次に何をするか、分かるかもしれない」


「……なるほど」


ダリオの口元が少し動く。


「理屈としては正しいですね」


エリカも否定しなかった。


「少し先に休憩所があるわ」


エリカが言う。


「そこで見せるわ」


 通りの端、人の流れから少し外れたところに休憩スペースがあった。簡素なベンチと飲料販売機、広告投影機。座っているのは二人だけ。どちらもこちらへ興味はない。三人が端へ寄る。ガントリーも追従しエリカの足元で停止した。ダリオが携行端末を操作する。


「見せられるのは簡易版だけです」


「何で?」


「俺たちにも全部の閲覧権限はありません」


小さな表示が開く。


《カイン・ウォーカー》


顔写真。現在より少し若い。

 まだ右目も、左腕もある。

軍服で今のカインよりどこか軍に近い場所へいた人間に見える写真だった。

ノインが顔を近づける。


「古い」


「新しい正式記録が少ないんです」


「何で?」


「英雄の写真を毎年撮り直す必要もないでしょう」


「そういうもの?」


「少なくとも、この人はそうだったみたいですね」


ダリオが表示を送る。


《所属――ユニオン》


《英雄指定――有》


《階級――なし》


《英雄特権――有効》


ノインの目が止まった。


「階級がない」


「ええ」


エリカが答えた。


「軍人じゃない?」


「それも違うわ。軍の作戦に参加するし、兵器も施設も使う。ただ、普通の兵士みたいに階級で部隊へ組み込まれてはいない」


「命令は?」


「受ける。でも英雄には裁量がある。任務によっては、一人で判断して動ける範囲も大きい」


「一人でも動ける」


「そうね」


「好きに?」


「任務の範囲なら、ある程度はね」


ノインが少し考える。


「難しい」


「今度は制度の話ですか」


 ダリオが苦笑する。

次の表示。


《旧アトラス隊――作戦参加履歴》


任務名。

作戦地域。

救出。強襲。突破。護衛。撤退支援。

表示は続く。

しかし肝心な部分ほど閉じられていた。


《機密》


《閲覧制限》


《詳細非公開》



「見えない」


「俺たちの権限では、そこまでです」


ダリオが答える。


「ただ」


別の項目を開く。

詳細そのものは消されている。

それでも。

結果だけは残っていた。


《敵防衛線突破――単独》


《孤立部隊到達――単独》


《救出対象回収――成功》


《後衛残留――生還》


《撤退経路確保――単独》


似た記録が、何度も並んでいた。

ノインは画面を見続ける。


「一人が多い」


「多いですね」


「全部?」


「全部ではないわ」


エリカが答える。


「部隊と行動した記録もある」


「じゃあ何で?」


エリカより先にダリオが答えた。


「そういう使われ方をしていたからです」


「どういう?」


ダリオは少し考えた。


「穴を開ける側です」


「穴?」


「戦線でも、包囲でも、敵陣でも。誰かが取り残されて、正面から部隊を入れれば被害が出る。そういう時に――」


ノインが画面を見る。


「先に行く?」


「そうです」


ダリオは指で表示を送る。


「一人で?」


「記録では、かなりの回数」


ノインは写真を見る。


「強いから?」


「それだけじゃないわ」


エリカが答えた。


「判断が速い。状況が変わっても止まらない。正面が駄目なら横へ回る。横も駄目なら別の手を使う。一つ潰れても、そこで止まらない」


ノインの視線が少し下がる。

 自由港。スティレット。銃声。カインに引き抜かれたガントリーの右腕。崩兼元。自分たちは一度も無防備に攻撃したわけではない。連携した。位置を変えた。視界も利用した。それでもカインは、一つへ対応する間に、次の状況を作っていた。


 ダリオが古い戦闘映像を一つ開く。画質は良くない。映像も短い。崩れた施設。瓦礫。射撃。煙。その中を一人の男が前へ進む。

遮蔽物へ入る。次の瞬間には別の場所。

敵が銃口を向ける。その時にはもう射線から外れている。映像が揺れそこで切れた。


「終わり?」


「公開できるのは」


「これだけ?」


「これだけです」


「英雄なのに?」


「英雄だから全部見せる、というものでもないわ」


エリカが言う。

ノインは映像を閉じ古い写真へ戻った。


「今と違う」


「何がです?」


「目」


右目。まだ生身。


「それと腕」


「ああ」


 ダリオが負傷記録を開く。

そこも。細部は閉じられている。


《右眼――喪失》


《左上肢――喪失》


《詳細――閲覧制限》


「失くしたの?」


「そうですね」


「でも」


ノインは言う。


「戦った時」


「弱くなってなかった」


「そうね」


「何で?」


エリカは少しだけ考えた。


「経験ね」


それだけだった。ノインはしばらく写真を見ていた。


「この人」


「何?」


「怖い?」


エリカの視線が向く。

ダリオも僅かに表情を変えた。


「怖い、が分かるようになったんですか?」


「質問してるだけ」


「そうですか」


「敵としてなら」


エリカが答える。


「怖い相手よ」


「エリカでも?」


「ええ」


即答だった。


「私一人なら」


「勝てるとは言わない」


ノインがダリオを見る。


「ダリオ」


「俺に振らないでください」


「勝てる?」


「できれば一人ではやりたくありませんね」


今度はノインが下を見る。


「ガントリー」


《対象を指定》


「カイン・ウォーカー」


《確認》


「一人で勝てる?」


数秒。


《単独戦闘時の勝率算出は非推奨》


「何で?」


《対象の実戦記録に不確定要素多数》


《現行装備》


《身体補綴》


《戦闘経験》


《英雄特権による使用可能装備》


《未確認要素が多い》


「つまり?」


「分からないってことです」


ダリオが言った。


《概ね肯定》


「概ねなんだ」


ノインは少し黙り、エリカ、ダリオ、ガントリー、そして自分の順に見た。


「四人なら?」


エリカが僅かに目を細めた。


「可能性は上がるわ」


「勝てる?」


「可能性は上がる」


「同じ」


「それ以上は言えないもの」


「どうして?」


「やってみなければ分からないから」


ノインはもう一度古い写真を見る。


「四人で」


「一人を追う」


 ダリオが端末を閉じた。


「そういう相手です」


     

 娯楽区の一角。


《シャッフル・マイニング》


 入口の上では、採掘機械を模した意匠とカードの図柄を組み合わせた看板が明滅している。

以前、エリカも近くを通ったことはあったが、中へ入ったことはない。ただ、今日の目的には合っていた。軍人だけで固まっていては得にくいものがある。規則に従って遊び、見知らぬ人間と卓を囲む。勝った時、負けた時、金が動いた時。人間がどう振る舞うのかを見るには、都合のいい場所だった。


「ここ?」


ノインが看板を見上げた。


「そうよ」


「覚えてる?」


「カード」


「金」


「知らない人と同じ卓に座る」


「勝ったり負けたりする」


「それから?」


「勝つことだけ考えない」


「そう」


「勝ちすぎても目立つ」


「そうね」


「負けすぎても不自然な時がある」


「覚えてるじゃない」


「わざと負けても駄目」


「その通り」


ノインが少し黙った。


「やっぱり難しい」


「今日は何回目ですかね」


ダリオが言った。


「数えてない」


 入口には絶えず人が出入りしていた。

検査を通る者。すでに酔っている者。

機嫌よく出てくる者。入口を出た途端に何かを壁へ投げつけそうな顔をしている者。友人同士もいれば、一人客もいる。男女、老人、仕事帰りらしい作業着姿。誰も同じ目的ではない。それでも、同じ入口を通る。


「今日は勝つことが目的じゃない」


エリカが言った。


「普通に入る」


「普通に座る」


「普通に遊ぶ」


「必要なら話す」


「終わったら出る」


「それだけ」


「普通」


ノインが繰り返す。


「一番難しい」


「慣れれば変わるわ」


 エリカは入口へ進んだ。ダリオ、ノイン、そして四脚のガントリーも後へ続く。

店内は外よりもさらに音が多かった。

電子式の遊技機。カード卓。チップ。

立体表示。小さな歓声。大きな歓声。

すぐ横で誰かが勝っていて、その向こうでは別の誰かが頭を抱えている。


 酒を運ぶ店員。無表情の警備員。卓を回るディーラー。天井。壁面。柱。至るところに監視機器。入った客のほとんどはそれを気にしていない。

ノインだけが一つずつ確認していた。


「見すぎ」


エリカが小さく言う。


「でも」


「あることは分かってる」


「それで十分」


「見ない?」


「必要な時に見るの」


「今は?」


「遊ぶ時」


「分かった」


 最初の卓では、ノインはほとんど喋らなかった。ルールそのものは事前に入れてある。

カードを見る。他人を見る。ディーラーを見る。

自分の番を待つ。必要なチップを出す。

引く。捨てる。待つ。勝つ。負ける。


 最初は一つ動作をするたびに周囲を確認していた。だが、数回手を重ねるうちに、少しずつ他の客と同じタイミングで動けるようになっていった。やがて一度、ノインが勝った。手札を見たが、何も言わない。


「勝った時くらい、少し嬉しそうにしてもいいんですよ」


ダリオが横から言う。


「嬉しい?」


「そこからですか」


「金が増えた」


「普通は多少嬉しいでしょう」


「ダリオは?」


「増えれば嬉しいですよ」


「じゃあ」


ノインは手元のチップを見る。


「嬉しい」


「口で言うんじゃなくてですね……」


少し離れた卓。

エリカは聞こえていたが何も言わなかった。

少なくとも、始めた時よりは周囲の客に溶けている。今はそれでいい。


「次」


ディーラーがカードを配る。

一枚。また一枚。ノインは手札を見る。

交換。次。そして。止まった。


「……同じ」


隣の男が横目で見る。


「ん?」


ノインは手札を並べる。

同じ数字。四枚。

ディーラーの眉が僅かに上がった。


「フォー・オブ・ア・カインド」


卓の周囲が少しざわつく。


「おい」


隣の客が笑う。


「やるじゃねえか」


ノインはカードを見る。


「強い?」


「かなりな」


「四枚揃うと?」


「そういうことだ」


「四枚」


 ノインは並んだカードを見つめた。その時ダリオの携行端末が震えた。一度間を置かずもう一度。ダリオの視線が下がる。


最初の表示。


《追跡線一――対象ロスト》


眉が僅かに動く。

次。


《追跡線二――視認不能》


そして。

三つ目。


《最終視認――工房街》


 表情が変わった。

それをエリカは離れた卓から見ていた。

手札を伏せる。通信だけを開く。


「何?」


ダリオも声を落とす。


「カイン・ウォーカー」


「ロストしました」


エリカの目が細くなる。


「全員?」


「はい」


「最後は」


「工房街」


「三線とも?」


「時間差はあります」


「ただ」


表示を送る。


「最後まで残っていた一人も切られました」


「どう切られた?」


「搬送路」


「工房裏」


「保守通路」


「視線を切られた後、再捕捉できていません」


エリカは黙った。

驚きはしない。そういう相手だと、さっきノインへ説明したばかりだった。


「周辺を――」


 言いかけたところで、ダリオの端末がまた震えた。


「待ってください」


「何?」


「目撃情報」


「どこ」


「商業区」


ダリオが画面を見る。


「カインらしい男」


「一人」


「中央方面へ歩いている」


エリカが眉を寄せる。


「確認させて」


「もう回しています」


さらに新しい表示。


「……もう一件」


「今度は?」


「外縁側」


「時間は?」


ダリオの指が止まった。


「ほぼ同時です」


エリカの目が変わる。


「もう一つ来ました」


「船着場」


「特徴は」


「全部それらしい」


「黒髪」


「体格」


「片腕の形状」


「服装」


「ただし」


「全部、遠い」


「顔が見えていない」


「本人確認できる画像はなし」


「工房街から移動できる時間?」


「無理です」


ダリオは即答した。


「少なくとも三地点を同時には」


「偽情報ね」


「でしょうね」


 さっきまで一本だった。

工房街へ向かって歩くカイン・ウォーカー。追跡屋が距離を置きながら、それでも見続けていた一人の男。その線が切れた直後、三つの細い線が自由港の別々の場所へ伸び始めている。

一つ一つは無視できるほど雑ではない。

だが追えば、どれも本物ではないかもしれない。


「……やられましたね」


ダリオが言った。


「ええ」


「カインに?」


ノインが訊いた。


まだ四枚のカードを手に持っている。


「本人だけじゃないでしょうね」


エリカが答える。


「何で?」


「目撃情報を同時に作るには人がいるわ」


「協力者?」


「たぶん」


「誰?」


「そこまでは分からないわ」


エリカはダリオを見る。


「工房街の出入りは」


「洗います」


「特定の工房へ入った記録は?」


「今のところありません」


「船は」


「そこが厳しいですね」


 ダリオは別の情報を出す。

工房街。港湾側。数十分の間に出入りした船。

小型船。作業艇。部材搬送船。修理上がりの民間船。数が多い。


「全部止めれば」


「こちらが何を追っているのか宣伝するだけね」


「はい」


エリカは少し考える。


「追跡屋には偽情報の確認を優先させる」


「本線を無理に探させない」


「了解」


ノインが訊く。


「逃げた?」


エリカはノインを見る。


「逃げたというより」


 一度、言葉を選ぶ。


「消えたのよ」


「でも」


ノインは言う。


「さっきまで見えてた」


「見せてたんでしょうね」


「わざと?」


「そう」


「何で?」


エリカは工房街の情報を見る。


「必要な時間だけ」


 誰に、何のために。そこまではまだ分からない。ただ一つ確かなのは、カイン・ウォーカーが追われていると知りながら、すぐには消えなかったことだ。追わせ、自由港の中にいると思わせ続け、必要な場所まで自分の影を引っ張った。

そして役目が終わったところで、切った。


 ノインは黙った。手元には、同じ数字の四枚。

頭に浮かぶのは、さっき見た、まだ両腕があり、右目も生身だった頃のカインの写真だった。


「……消えられるんだ」


小さく言う。


「その気になればね」


エリカが答えた。


 その後も目撃情報は増えた。

商業区。違う。外縁区画。確認できない。

船着場。似た男はいた。しかし義手の形が違う。少しして。別の場所。またカイン・ウォーカーらしい男。どれも全部が偽物だと切り捨てるには少しだけ似ている。それが厄介だった。

追う側からすれば一つの偽情報なら無視できる。

二つならどちらかを選べる。


 だが、確実に見えていた線が切れた直後に、複数の場所へそれらしい目撃情報だけが散れば、確認しないわけにはいかない。

そして一つ確認している間に、本物はさらに遠くなる。


ダリオは最後の報告を確認し、端末を閉じた。


「完全に散らされました」


エリカは怒ってはいなかった。

失敗をなかったことにもしない。

ただ現在の結果を見る。


「報告する」


「了解」


ノインはまだ卓にいた。

ゲームはすでに次へ進んでいる。

だが手元に置かれた結果表示には先ほどの役が残っていた。


《FOUR OF A KIND》


「フォーカード」


ノインが呟く。


エリカが見る。


「何?」


「四枚揃うと強い」


「そうね」


ノインは自分を見て、次にエリカ、ダリオ、そして足元の四脚のガントリーへ視線を移した。


「私たちも四人」


ダリオが少し笑う。


「ガントリーも数えるんですか」


「いるから」


《当機を一名として計数することに異議なし》


「本人も数える気ですね」


「四人」


ノインはもう一度言う。


「四枚」


エリカだけが少し考えるようにその表示を見ていた。


 数十分後。四人は《シャッフル・マイニング》を出た。賭場区画から一本外れた連絡通路。

表通りほど人は多くない。

壁面を走る配管。

一定間隔で設けられた照明。

遠くから娯楽区の音だけが少し聞こえてくる。

人目が少ない場所まで移動すると、ダリオが周囲を確認し、エリカが秘匿回線を開いた。


接続先。ゼルギウス・カーマイン。


数秒。


『報告は確認した』


落ち着いた声。


「はい」


エリカが答える。


「カイン・ウォーカーは工房街付近でロスト」


「追跡線は三線とも切断されました」


「その後」


「商業区」


「外縁」


「船着場を中心に複数の目撃情報が発生」


「確認しましたが、本人の再捕捉には至っていません」


『情報攪乱だな』


「そう判断します」


ダリオが続ける。


「タイミングが良すぎます」


「対象ロスト直後」


「同時刻に移動不可能な地点へ、似た特徴の目撃情報が出ています」


「外部協力者がいる可能性が高いかと」


『分かるか』


「現状では」


ダリオが答える。


「絞れません」


『工房街は』


「出入りを継続確認中です」


「ですが」


「特定の工房へ繋がる記録はありません」


「対象ロスト後に出た船も多く」


「無理に絞れば、こちらの追跡条件を悟られます」


短い沈黙。


『なら追うな』


エリカの目が僅かに動いた。


「よろしいのですか」


『構わん』


責める声ではない。


『今回の任務で』


『得るべきものは得ている』


『ノイン』


ノインが顔を上げる。


「はい」


『民間環境での行動記録は』


「取れてる」


『ガントリー』


《継続記録中》


エリカが答える。


「全記録を保存しています」


『なら十分だ』


ゼルギウスは続ける。


『自由港で余計な痕跡を残す必要もない』


「了解」


『それに』


僅かに声の間が変わる。


『確認したかったのは』


『対象だけではない』


エリカは黙る。


『エリカ』


『ダリオ』


『ノイン』


『ガントリー』


 四つ。名前が呼ばれる。


『今回の任務に合わせた暫定編成だったが』


『運用結果は悪くない』


ダリオがエリカを見る。

エリカも僅かに目を細める。


『実戦』


『追跡』


『観測』


『民間環境』


『役割分担も成立している』


『今後』


『この編成を独立運用単位として扱う』


ノインが訊く。


「ずっと四人?」


『任務によって増員はある』


『別行動もある』


『だが』


『基本編成はこの四名だ』


「そう」


『エリカを現場指揮』


『ダリオを情報、支援』


『ノインおよびガントリーを前衛運用』


『必要に応じて役割は変える』


『問題は』


『呼称だ』


「呼称?」


『記録上』


『いつまでもエリカ・ヴァイス以下三名では扱いづらい』


ダリオが小さく息を吐く。


「確かに」


『独立運用する以上』


『部隊呼称を付ける』


そこでノインが言った。


「フォーカード」


 通路が少しだけ静かになった。エリカがノインを見る。ダリオもノインへ視線を向けた。足元では、ガントリーの光学センサーまでこちらを向いている。


通信の向こうで、ゼルギウスも僅かに間を置いた。


『……理由は』


「四人だから」


ノインは答え、少し考えてから続けた。


「四枚揃うと強い」


ダリオが口元を押さえた。


「さっきのですか」


「うん」


エリカがノインを見る。


「あなたね……」


「駄目?」


「まだ何も言ってないわ」


『誰から聞いた』


「カードの店」


『賭場か』


「シャッフル・マイニング」


『……そうか』


ノインは待つ。


「駄目?」


再び短い間。


『いや』


『分かりやすい』


ノインが僅かに首を傾ける。


『悪くない』


「本当に採用するんですか?」


ダリオが思わず訊いた。


『何か問題があるか』


「いえ」


一度ノインを見る。


「覚えやすくはあります」


『なら十分だ』


ゼルギウス座乗艦ハティの秘匿画面上に新しい登録欄が開いた。


《独立特務分遣隊》


その下は空欄。数秒後、文字が入る。


《フォーカード》


さらに構成人員。


《エリカ・ヴァイス》


《ダリオ・マークス》


《ノイン》


《ガントリー》


四つ並ぶ。

ノインが画面を見つめる。


『暫定登録』


ゼルギウスの声。


『以後お前たちは』


『独立特務分遣隊フォーカードとして運用する』


エリカが先に答える。


「了解」


ダリオ。


「了解」


ノイン。


「了解」


最後。


《了解》


四つ同じ場所で揃った。

通信が切れる。通路へ娯楽区から流れてくる音が戻った。


「フォーカード」


ノインは小さく言う。


今度はカードの役ではない。

自分たちの名前。


「気に入ったの?」


エリカが訊く。


「分かりやすい」


「同じこと言ってるわね」


「駄目?」


「駄目とは言ってない」


ダリオが携行端末をしまう。


「しかし」


「何?」


「追った相手を見失った日に付いた部隊名としては」


 一度ガントリーを見る。


「少し縁起が悪い気もしますね」


「でも」


ノインが言った。


「負けてない」


ダリオが止まる。


「……まあ」


少し考えてから、続けた。


「任務目的だけで言えば、そうですね」


《任務主要目的は達成》


ガントリーが続ける。


《試作体実戦データ取得》


《民間環境適応記録取得》


《対象カイン・ウォーカー戦闘記録取得》


《当機仮筐体損耗――》


「それはいい」


エリカが止める。


《了解》


「ガントリー」


ノインが見る。


《何か》


「私たち、四人」


《肯定》


「四枚揃うと強い」


《先程の遊技規則上は肯定》


「なら」


ノインは少し考えた。


「強くなる?」


《質問範囲が不明瞭》


「四人で」


《継続運用による連携効率向上は予測可能》


ノインは頷いた。


「じゃあ、なる」


「そういう理解でいいんですかね」


ダリオが言う。


「本人が納得したならいいでしょ」


エリカは歩き出した。


「戻るわよ」


「どこへ?」


「仮拠点」


「カインは?」


「今日はもう追わない」


「見つけない?」


「命令よ」


「そう」


 ノインも後へ続く。

ダリオとガントリーも続いた。

三人と一機。いや。今は四人だった。

少し前まで、彼らは一つの任務のために集められただけの編成だった。


エリカ・ヴァイス。


ダリオ・マークス。


ノイン。


ガントリー。


軍人。試作体。そして今は仮の身体へ収まったアンドロイド。出自も役割も違う。

それでも一人の男を追い、同じ場所で戦い、同じ自由港を歩き、同じ卓を囲んだ。

 

その日、四枚が揃った。

追っていたカイン・ウォーカーは、すでに自由港の人混みと、散らされた幾つもの偽の航跡の向こうへ消えている。捕らえることはできず、その行き先も分からない。

それでも、その日に四人は一つの名前を得た。

 独立特務分遣隊。

《フォーカード》

四人はその名を持って、自由港を歩いていった。

作者のモチベになりますので、

★評価、ブックマークよろしくお願いします。

_| ̄|○何卒。

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