第71話:自由港を背に
『出港可能状態へ移行した』
アドミラルの声が艦橋へ響いた。
正面スクリーンには、アウターリング・ドライドック六番の出口が映っている。
白い作業灯。左右の整備用の足場。
壁面を走る配管。
長い間、エーテル・ガイストの周囲にあった景色だった。アイリスは副艦長席に座っていた。
隣の艦長席は空いている。
カインは、まだ自由港の中だ。
追跡者の目を自分へ向け、その間にエーテル・ガイストを先に出す。後からノクスで追う。
そう決めて残った。
「積み込みも、全部終わったんだよね」
『完了している』
必要な補給物資。
ファロスαで必要になると見込まれた部品や、その代わりとして使える物。それに食料や生活用品。アイリスたちが選んだ紅茶や、カイン用のコーヒー豆といった嗜好品も含めて、すでに艦内へ収められている。アンブラも格納済み。
残っている修理は、艦内で続けられる。
ノクスだけが、予定通りクロン・ワークスに残っていた。
「こちらも確認済みです」
後方の補助席からミラが言った。
「忘れているものはありません」
「なら、大丈夫」
アイリスは頷いた。
ファロスαが今、どんな状態なのかは分からない。頼まれた物は用意した。
足りない物が出れば、その時に考える。
今は、それでいい。
「アドミラル」
『何だ』
「このまま出られる?」
『問題ない』
『偽装外装、正常』
『各種外部反応抑制、正常』
『ステルス機能も使用可能だ』
「じゃあ、普通に出ればいいんだね」
『そうだ』
特別な船へ紛れる必要はない。
今のエーテル・ガイストは、大型貨物船に見える外装を維持している。
格納式の兵装も、その姿を外へ晒してはいない。
必要以上に目立つ反応を抑え。
ただ一隻の船として自由港を離れる。
それでいい。アイリスは隣の空席を見る。
――しばらく留守を頼む。
カインの言葉を思い出す。
準備は終わった。一時間経った。もう待つ理由はない。
「…出ようか」
一拍。
『了解した』
黄金の単眼が静かに明滅する。
『出港する』
『係留固定、解除』
小さな振動が床を伝った。
船体をドックへ留めていた固定機構が、一つずつ外れていく。
『全固定解除』
『姿勢制御開始』
低い駆動音。続いて。
正面の景色が、ほんの少し動いた。
「……動いた」
アイリスが言う。
「はい」
ミラが答えた。
エーテル・ガイストの巨体が、ゆっくりと前へ進み始める。最初は気づかないほど遅い。
だが。左右の作業足場が少しずつ後ろへ流れ。
白い作業灯が一つ。また一つと遠ざかっていく。
六番ドック。ここへ来た時。エーテル・ガイストは今よりずっと傷んでいた。
修理をして。必要な物を集め。外装を整え。
何度も出入りして。気づけば長く過ごした場所になっていた。
「ここも、見慣れたね」
アイリスが呟く。
「そうですね」
ミラも正面を見る。
船首がドック出口へ近づく。
左右の壁が開け。
その向こうに自由港の光が広がっていった。
エーテル・ガイストが六番ドックを抜ける。
視界が一気に開けた。
アウターリング。大小さまざまな船。
増築を繰り返した構造物。
外壁に張りつくような作業区画。
遠くを横切る小型艇。
修理中の船から散る溶接光。いつもの自由港だった。アイリスはしばらく黙って、それを眺めていた。
「最初に来た時は」
ぽつりと言う。
「もっと怖いところだと思ってた」
「今は違いますか?」
ミラが尋ねる。
「怖いところもあるよ」
「変な人もいるし」
『品質に問題のある商品も多数流通している』
「それはもう分かったって」
アイリスが笑う。
「でも、それだけじゃなかった」
カインと歩いた通り。いろいろな店。
知らなかった食べ物。自由港で会った人たち。
ここへ来なければ知らなかったものも、ずいぶん増えた。
「また来るかな」
『必要性が生じれば』
「そうじゃなくて」
アイリスはアドミラルの単眼を見る。
「また来てもいいなって」
少し間があった。
『アイリスが希望するのであれば、今後の行き先として選択肢に含めることは可能だ』
「うん」
「じゃあ、覚えておいて」
『記録した』
ミラが微笑む。
「私も、また来てみたいですね」
「まだ行ってない店とか?」
「それもあります」
「やっぱり」
二人の小さな笑い声を残して。
エーテル・ガイストは自由港から距離を取っていく。
『ステルスモード、低出力で起動』
アドミラルの報告。
『外部放射を抑制』
『偽装状態を維持』
艦の見た目が変わるわけではない。
消えるわけでもない。
大型貨物船の姿のまま。
探査で拾われる余計な反応だけを落としていく。
アイリスは後方表示を見る。
六番ドックは、もうどこだったのか見分けにくくなり始めていた。
「追ってくる船は?」
『現時点で、本艦への追尾行動を示す船舶は確認していない』
「そっか」
それなら十分だった。
カインが自由港に残っている。
何をしているのかまでは分からない。けれど。
アイリスは、何度も後ろを気にするつもりはなかった。
「カインからは?」
『新規通信なし』
「…そう」
短く頷く。
ミラがアイリスを見る。
「心配ですか?」
「少しは」
アイリスは素直に答えた。
「でも、カインだから」
「大丈夫だと?」
「うん」
少し考えて。
「無茶はするけど」
『肯定する』
「アドミラル」
『事実だ』
「分かってる」
アイリスは苦笑した。
「でも、後から来るって言ったから」
それを信じている。
カインが絶対に危険な目に遭わないと思っているわけではない。ただ。自分で残ると決め。
後から追うと言った。なら。
「こっちは先に行く」
「はい」
ミラが頷く。
「カインさんが来た時に、困らないように」
「うん」
アイリスは前へ向き直った。
「ちゃんと留守番をやらないと」
『その認識で問題ない』
いつもの硬い返事。
それで十分だった。
自由港からさらに離れる。
周囲を行き交う船の数も、少しずつ減っていった。後方に集まる人工の灯り。
正面に広がる暗い宇宙。
その境目を越えるように、エーテル・ガイストは進む。
『自由港近傍宙域を離脱』
アドミラルが告げた。
『進路変更可能』
正面スクリーンに星図が開く。
自由港を示す光点。
そこから少し離れた位置。
一つの座標が表示される。
ファロスα。アイリスがその名前を見る。
「次は、ここ?」
『そうだ』
「どんなところかな」
『現地状態は不明だ』
「行ってみないと分からないね」
『その通りだ』
ミラも星図を見る。
「まずは着いてからですね」
「うん」
「使えるところを見て」
「必要なら直す」
「はい」
「駄目なら?」
「別の方法を考えましょう」
アイリスは少し笑った。
「それが一番だね」
どんな基地なのか。どこまで残っているのか。
まだ分からない。それでも。
少しだけ楽しみでもあった。
「カインが来るまでに、使えるようにできるかな」
『状態次第だ』
「できそうなら、やろう」
『異論はない』
「ミラも?」
「もちろんです」
アイリスは頷いた。
「じゃあ決まり」
『進路設定完了』
星図の上に一本の航路が伸びる。
自由港から。ファロスαへ。
『偽装外装を維持』
『ステルスモード、通常航行設定』
『巡航出力へ移行する』
「お願い」
『了解した』
エーテル・ガイストが、ゆっくりと船首を巡らせる。後方の自由港がスクリーンの端へ移っていく。アイリスは、一度だけその灯りを見た。
あの中にカインがいる。後から来る。
なら。自分たちは先へ行く。
「…先に行ってるね」
小さく言う。不安より。
約束を確かめるような言葉だった。
ミラは何も言わない。
アドミラルも、その言葉を訂正しなかった。
『進路――ファロスα』
『巡航を開始する』
推進出力が上がる。
自由港の灯りが、ゆっくりと遠ざかっていった。
創世級試作実験艦エーテル・ガイスト。
大型貨物船の姿を保ったまま。
長く滞在した自由港を離れる。
目指す先は。宇宙の片隅で長い時間を過ごしてきた旧式移動基地。ファロスα。
カインが追いつくまでに。
自分たちにできることをするために。
エーテル・ガイストは、新しい行き先へ向けて進み始めた。
一方その頃。自由港の一角。
小さな食堂の隅で、カインはまだ席についていた。卓上には、半分ほど減った料理。
湯気はもう薄い。カインは急がず、残りを口へ運んだ。ブラッド・ハウンドの視界端には、店の外にいる人影が簡略表示されている。
一つ。少し離れて、もう一つ。
さらに通りの向こう。
最初から同じ人間ではない。
途中で入れ替わっている。
こちらを見る。離れる。別の人間が拾う。
近づきすぎない。
カインも気づかないふりを続けていた。
ポケットの中。通信端末は沈黙したままだ。
先ほど送った指示から、三十分ほど。
――一時間は俺が稼ぐ。
そう言った。あと半分だ。
カインは最後の一口を食べ、水を飲んだ。
すぐには立たない。
椅子へ背を預けたまま、しばらく通りを眺める。
何かを待っているようにも。何も考えていないようにも見える。外の追跡屋も動かない。
「……」
頃合いを見て立ち上がる。
会計端末へ携行端末をかざす。
短い電子音。決済完了。
カインはそのまま店を出た。
自由港の空気は変わらない。
雑多な声。搬送台車。客を呼び込む店員。
壁面いっぱいに流れる広告。
船員。技師。傭兵。流れ者。
人の流れが絶えない。
カインはその中へ入った。
急がない。目的地へ真っ直ぐ向かうこともしない。通りを一つ曲がる。工具店の前を通る。
古着屋の軒先に並んだジャケットへ一度だけ視線を向け、そのまま歩く。飲料販売機で缶を一本買った。携行端末をかざす。決済音。缶が落ちる。
開けて、一口。また歩く。
ブラッド・ハウンドには、一定の距離を保つ反応が残っていた。撒こうと思えば。
やり方はいくらでもある。だが。今はそれをする必要がない。むしろ見えていた方がいい。
カイン・ウォーカーは、まだ自由港にいる。
少なくとも、そう思わせておけばいい。
連絡通路を抜け。商業区の外れへ。途中。
ベンチへ腰を下ろして数分。また立つ。
通りを変える。追跡者もついてくる。
「熱心だな」
誰にも聞こえない声で呟いた。視界端の反応は消えない。しばらくして。カインは一つの看板を見上げた。黒い背景。淡い光で描かれた星雲。
《ブラック・ネビュラ・バー》。
「……ちょうどいい」
扉を開けた。
店内は、以前と変わらず落ち着いていた。
外の雑踏が扉一枚で遠くなる。
派手な音楽はない。低い話し声。
グラスの触れる音。奥で流れる静かな曲。カウンターの向こうから、リゼットが顔を上げた。
「いらっしゃい」
続いて。少しだけ目を細める。
「あら」
「久しぶりね」
「ああ」
「今日は一人?」
「見りゃ分かる」
「そういう返しも久しぶりね」
リゼットは笑った。
奥ではガレスがグラスを磨いている。
こちらを一度見て。それ以上は何も言わない。
カインはカウンターの端へ座った。
「何にする?」
「コーヒー」
「バーで?」
「…無いのか?」
「あるわよ」
リゼットが肩を竦める。
「あなた、前より飲む物が地味になってない?」
「そうか」
短いやり取り。
それだけ。
カインは視線を動かさず、ブラッド・ハウンドへ意識を向けた。店の外。追跡反応。二。
片方は通りの向こう。もう片方は店から少し離れた位置。中へ入ってくる様子はない。
ちょうどいい距離だった。やがて。黒いコーヒーが置かれる。
「熱いわよ」
「ああ」
カインはカップを持った。そのまま。
ポケットの中で指を動かす。
通信端末。起動。画面は出さない。
文字情報だけをブラッド・ハウンドへ表示させる。秘匿回線。宛先――ライナ・ヴェルグ。
数秒。
《回線確認》
《カイン?》
カインはコーヒーを一口飲んだ。
ブラッドハウンドの思考入力だけで返す。
《俺だ》
《状況は》
《更新がある》
少し間。
《送ってください》
カインは必要な情報だけを並べる。
《アイリス》
《非侵襲検査を実施》
《胸部器官、セラフィックハート関連資料と部分一致》
《共鳴導体モデルとの同期点あり》
返信が止まる。数秒後。
《確認しました》
《他には》
《外部由来の共鳴反応を受信》
《アイリス側からの能動発信は確認されていない》
《反応先に試作体と思われる個体》
《胸部に機械構造》
《周囲にスティレット》
今度は。少し長い間があった。
《その個体と接触したのですか》
《今日な》
《……戦闘に?》
《なった》
カインはコーヒーを飲む。表情は変えない。
《スティレット三機》
《同時制御》
《三方向から協調攻撃》
《操者の注意が乱れた際、一機の制御が低下》
《制御翼破壊後、遠隔復帰不能》
ライナからすぐに返事。
《三機同時》
《ああ》
《資料上では複数運用の可能性はありました》
《実戦確認はありません》
《これで出来たな》
《そういうことになります》
カインの入力が止まる。次。
《一機確保した》
返信まで。今度は明らかに長かった。
《……スティレットを?》
《半壊してるが》
《自壊処理は》
《走った》
《だが焼け残った》
《内部情報が残っている可能性は》
《ある》
《アドミラルに渡して解析する》
《お願いします》
カインはカップを置いた。
今回、敵側の全てを伝える必要はない。
だが。試作体。スティレット。
アイリスの共鳴。この三つが繋がったことは重要だった。
《アイリス本人は》
《今は問題ない》
《艦と先に出す》
《もう出港を?》
《その頃だ》
《承知しました》
続いて。
《現在も尾行がありますか》
《いる》
《人数は》
《入れ替わってる》
《複数だ》
《支援を出します》
カインはすぐ返した。
《今はいらん》
《ですが》
《つかせておけ》
数秒。
《囮を継続中と》
《そうだ》
《了解しました》
一度、通信が止まる。
カインは残ったコーヒーへ口をつけた。
《一つ頼む》
《何でしょう》
《俺が自由港を出た後》
《追跡の線を散らせるか》
返答は早かった。
《可能です》
《複数の目撃情報を混ぜます》
《こちらの人員を対象へ直接接触させる必要もありません》
《それでいい》
《実施時刻は》
《合図する》
《了解しました》
そこで回線を閉じた。
ブラッド・ハウンドから文字が消える。
「難しい顔してるわね」
リゼットの声。
カインはカップを見る。
「そうか」
「そうでもない?」
「コーヒー飲んでるだけだ」
「だったら、もう少し美味しそうに飲んで」
「注文が多いな」
「店だから」
リゼットが空になりかけたカップを見る。
「もう一杯?」
「いや」
カインはカウンター脇の支払い端末へ携行端末をかざした。短い電子音。決済完了。
端末をポケットへ戻す。
「行く」
「そう」
リゼットは会計表示を一度確認した。
それから。何気ない調子で言った。
「外のお客さんは?」
カインの手が一瞬止まる。
「知らんな」
「知り合い?」
「違う」
「じゃあ、随分熱心ね」
「暇なんだろ」
「ここには、そういう人もいるからね」
それ以上。リゼットは訊かなかった。
ガレスも何も言わない。
カインは立ち上がる。
「また来る?」
「生きてりゃな」
「それ、返事に困るやつね」
「じゃあな」
「はいはい」
扉が開く。自由港の音が戻ってきた。
外へ出る。追跡反応。二。
まだいる。
「ご苦労なこった」
カインは歩き出した。時刻を確認する。
約束した一時間まで。残りは僅か。
それでも。急がない。通りを一つ。
また一つ。人混みへ入る。追跡者との距離を変えず。こちらからも切らず。普通に歩く。その途中。ブラッド・ハウンドの視界端に、新しい表示が現れた。
《秘匿通信》
発信元。エーテル・ガイスト。
カインの足は止まらない。
内容を開く。
『出港』
『自由港近傍宙域を離脱』
『進路――ファロスα』
短い報告。それだけだった。
カインは一度だけ目を細めた。
《了解》
送信。通信を閉じる。
これで。一つ終わった。
エーテル・ガイストは出た。
アイリスも。ミラも。アドミラルも。
予定通り先へ進んだ。なら。次は自分だ。
「さて」
カインは小さく呟いた。だが。
すぐに追跡者を撒くことはしない。
そのまま歩く。少しずつ。進む方向だけを変えていく。商業区。連絡通路。周囲の店が変わる。
飲食店や雑貨屋が減り。代わりに工具、機械部品、加工素材、を扱う店が増えていった。
搬送台車には、剥き出しの機関部品。
通路脇では小型船用の推進器が吊り上げられている。工房街。ブラッド・ハウンドの表示を見る。
後方。一。右後方。一。さらに少し離れて。
もう一つ。まだ来る。
カインは足を止めない。こちらが気づいていることも。これから何をするのかも。
まだ見せる必要はない。追跡者を連れたまま。
工房街の表示をくぐる。その先。
クロン・ワークスがある。そして。そこにはノクスが待っている。
「もう少し付き合え」
誰へともなく言って。
カインは、そのまま工房街の奥へ歩いていった。
作者のモチベになりますので、
★評価よろしくお願いします。
_| ̄|○何卒。




