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トリニティ・ガイスト:亡霊と少女と軍神の航跡  作者: ベルシア


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第69話:行き先の支度②

トイ・ボックスを出てから、カインは一度も後ろを振り返らなかった。

ジャンクバザールの雑踏へ入り、行き交う作業員と運搬台車の間を進む。

頭上では、小型ドローンが飛び交っている。

工具店の呼び込み。金属を切断する音。

複数の言語が混ざった値段交渉。

自由港の日常を満たす騒音が、足音も声も飲み込んでいた。


《後方より継続する視線を検出》


 ブラッド・ハウンドが、視界の隅へ警告を表示する。カインは歩調を変えない。

背後にいるのは、灰色の作業着を着た男だった。

片手には、小型部品の入った透明な容器。

店先の商品へ視線を向け、時折立ち止まる。

だが、立ち止まる場所と時間が、カインの歩調に合いすぎている。

前方にも一人。

黄色い帽子を被った女が、人の流れへ逆らわずに歩いている。

女は一度も振り返らない。

それでも、カインが通路の端へ寄れば、女も進路を僅かに変えた。

先ほど戦った四人とは違う。

軍人の動きではない。

自由港で雇われた別の追跡屋か。

あるいは、複数の勢力へ情報を売る監視役。

どちらでもよかった。

見られているという事実だけで十分だった。

カインは船舶整備区画へ続く通路へ入った。

その先は、エーテル・ガイストが停泊している区画にも通じている。

追っ手に、艦へ戻ろうとしていると思わせる。

歩きながら、カインは左肩へ視線を落とした。

上着の布地が裂けている。

応急的に留めてはいるが、近くで見れば戦闘の痕跡だと分かる。裏地にも汚れが残っていた。

このままでは目立ちすぎる。

囮になることと、騒ぎを起こすことは違う。

カインは通路脇に並ぶ衣料品店へ入った。

新品を扱う店ではない。

作業員が持ち込んだ服を洗浄し、補修して売り直している店だった。


「何を探してる?」


店主が、椅子に座ったまま尋ねる。


「上着だ」


「作業用か。防刃か。耐熱か」


「目立たない物を」


店主はカインの裂けた上着を一瞥した。


それ以上は聞かなかった。

自由港では、聞かないことも商売の一部だった。


「奥の棚だ。試着は右」


カインは吊るされた上着を数着見た。

選んだのは、濃い灰色の作業用ジャケットだった。防刃繊維は入っていない。

だが、布地は厚く、内側に道具を収めるポケットが多い。

自由港では、どこにでもいる整備作業員の服装だ。

試着区画へ入り、破れた上着を脱ぐ。

治療を終えた左肩が、動かすたび僅かに重い。

動作に支障はない。

新しい上着を着て荷を移し、襟を整える。

崩兼元は外套の下へ隠せない。

だが、腰の装備を作業用の布で覆えば、遠目には長い工具にも見える。

破れた上着は畳み、店内の繊維回収箱へ入れた。


「処分代込みだ」


端末で支払いを済ませる。


店を出た時、灰色の作業着の男はいなくなっていた。


《既知追尾対象を喪失》


黄色い帽子の女も見えない。

上着を替えたからではない。

店の前を通過した貨物車両が、数秒だけ入口を塞いだ。その間に、追跡位置が崩れた。

カインはそのまま横道へ入る。

工具店の裏。廃熱配管の並ぶ保守通路。

一階層下の貨物搬送路。

そこで歩調を上げ、港湾区画へ続く昇降機へ乗った。


《周辺に既知追尾対象なし》


追跡は切れた。

だが、完全に姿を消すつもりはなかった。

カインは昇降機を降り、人通りの多い中央通路へ出た。監視設備の死角を避ける。

あえて、天井の認証カメラが捉えやすい場所を歩いた。顔は正面へ向けない。それでも、右眼と腰の長物。体格と歩き方。

カインを探している者なら、候補として拾うには十分だ。数分後。


《複数の視線集中を検出》


通路の反対側。

荷物を待つふりをしていた男が、携帯端末へ触れた。さらに先では、清掃員の姿をした女が作業の手を止める。新しい追跡役が食いついた。


「それでいい」


カインは小さく呟く。

近くにいる者だけではない。

今頃、自由港内の監視網にも、似た男を見たという情報が流れている。

カインは、エーテル・ガイストの停泊区画とは反対方向へ進んだ。急がない。隠れない。

追跡者が見失わない程度の距離を保たせる。

追っている側に、自分たちが追い詰めていると思わせる。だが実際には、追跡者の視線をカインが引いていた。エーテル・ガイストから。アイリスから。自由港を離れるための準備から。


港湾労働区へ入ったところで、カインは小さな飯屋を見つけた。入口脇の表示には、その日の料理と値段だけが並んでいる。

既に昼を過ぎているが、店内には作業員が多い。

外から奥までは見通せない。

入口以外に、厨房脇の搬入口もある。

カインは扉を開けた。油と香辛料の匂い。

食器のぶつかる音。短い休憩時間に食事を済ませようとする者たちの声。

奥の壁際に、空いた席が一つあった。

入口と厨房脇の通路を、どちらも確認できる位置だった。カインはそこへ座る。


「注文は?」


「今日のを」


「飲み物」


「水でいい」


店員が厨房へ戻った。

カインは背を壁へ預け、入口近くの金属板を見る。磨かれた表面に、通りの一部が映っている。


《店舗周辺に不自然な滞留者を確認》


追跡者は、店の中へは入ってこない。

外から出入口を見張っている。

カインがここにいると思わせておけばいい。

最低でも、しばらくは。

カインは右手を上着の内側へ入れた。

通信端末は取り出さない。

懐へ収めたまま、側面の認証部へ指を触れる。

短い振動が返った。


《所有端末を検出》


《近距離同期要求》


 ブラッド・ハウンドの視界に、認証表示が開く。視線で承認する。


《同期完了》


《秘匿通信機能を起動》


 端末は懐の中にある。

文字の入力も、受信した内容も、ブラッド・ハウンドの視界だけに表示される。

外から見れば、カインは料理を待って座っているだけだった。


《接続先:ADMIRAL》


《秘匿通信経路を確立》


カインは短い文章を入力した。


【いくつかの追っ手を散らした】


送信。続けて、次の言葉を打ち込む。


【まだ俺に目が向いている】


     

《秘匿通信を受信》


食堂区画の端末へ、新しい表示が重なった。

食料品とファロスα用の補修部材を見ていたアイリスの指が止まる。


「カイン?」


『認証中だ』


壁面に浮かんだ黄金の単眼が、通信表示へ向けられる。


《識別符号照合》


《送信者:カイン・ウォーカー》


《発信地点:取得不能》


《通信経路:追跡不能》


『カインからの通信を確認した』


 アドミラルが、暗号化された文字列を復号する。


【いくつかの追っ手を散らした】


続いて、二行目が表示された。


【まだ俺に目が向いている】


「追っ手……」


 アイリスは画面を見つめた。

何人いるのか。カインがどこにいるのか。戦ったのか。知りたいことはいくつもあった。

だが、先にアドミラルが状況を確認する。


【現在も直接追跡されているのか】


返答はすぐに届いた。


【別の連中に、わざと拾わせた】


アイリスは文を読み直す。


「わざと?」


『カインは追跡者の注意を、自身へ集中させている』


「…囮になってるの?」


『そのようだ』


次の通信が届く。


【俺に目が向いているうちに出ろ】


 アイリスは、隣に並べた物資一覧へ視線を移した。食料品。生活用品。ファロスαで使用する補修材。注文済みの品は、複数の店から分けて運ばれている。格納区画には、アンブラもすでに戻っていた。クロン・ワークスでの修理は完全には終わっていない。だが、残る作業に必要な部品も一緒に運び込まれ、本艦内で修理を続けられる状態になっている。

ノクスだけは、クロン・ワークスへ預けたままだった。アドミラルが現在の状況を送信する。


【物資の搬入を継続中】


【アンブラは収容済み】


【残る整備は本艦内で継続可能】


【ノクスはクロン・ワークスで整備中】


カインから、新しい文字が届く。


【どれくらいで出せる】


黄金の単眼が静かに明滅した。

残る貨物の到着時刻。搬入。仕分け。

航行中に荷崩れを起こさないための固定。

アンブラ用部品の工房区画への移動。

推進系と偽装機構の起動準備。

複数の情報を、アドミラルが同時に処理していく。


『すべての発注品を積載する場合、およそ一時間だ』


同じ内容が通信へ送られた。


【約一時間】


【発注済みの物資はすべて積載可能】


カインから返ってきた文字は短い。


【全部積め】


【一時間後に出ろ】


アイリスの指が僅かに動いた。


「カインは?」


通信に声は届かない。

それでも、アドミラルが問いを文字へ変える前に、次の指示が表示された。


【ノクスはそのままクロン・ワークスに置いておけ】


【俺が受け取る】


「戻ってこないの?」


今度は、アドミラルがアイリスの問いを送信した。


【アイリスが帰還予定を確認している】


少しだけ間があった。


【戻らない】


【ノクスで後から追う】


アイリスは画面を見つめたまま、何も言えなかった。カインは自由港に残る。

自分を追わせたまま、エーテル・ガイストだけを先に出す。それが危険なことくらい、アイリスにも分かる。


「大丈夫なの?」


アドミラルが文字へ変える。


【アイリスが安全を確認している】


【問題ない】


短い返事だった。

いつものカインらしい答えでもあった。

だからこそ、それだけでは納得できなかった。


「本当に?」


送信された問いに、今度はすぐ返答が来なかった。黄金の単眼がアイリスへ向く。


『カインは、自身が安全であると証明する情報を持っていない』


「じゃあ、問題ないって言わないでほしい」


『その要求を送信するか』


「……今はいい」


代わりに、別の通信が届く。


【時間は俺が稼ぐ】


【その間に全部終わらせろ】


アドミラルが返答を作成する。


【了解した】


【ライナ・ヴェルグへ、出発予定の変更を通達する】


【ファロスαまでの航路を再計算する】


カインから、すぐに指示が返る。


【頼む】


そこで一度、通信が途切れた。

終わったのかと思った時、新しい宛先表示が現れる。


《個別送信先:アイリス》


アイリスは僅かに息を止めた。


【アイリス】


「うん」


返事をしてから、声では届かないことに気づく。

アドミラルが文字へ変えようとしたが、その前に次の文章が表示された。


【ファロスαまで艦長代理を頼む】


「私が?」


【大体はアドミラルがやる】


【操艦も航路も任せていい】


【何かあった時の最後の判断を任せる】


アイリスは、壁面に浮かぶ黄金の単眼を見た。


『カインの説明は正確だ』


『本艦の航行に必要な操作は、私が実行する』


「…私は、何を決めればいいの?」


『進行を継続するか』


『危険を回避するために退くか』


『複数の選択肢が存在した場合、何を優先するか』


『その最終判断を要求する』


「…私にできる?」


『一人で行う必要はない』


前にも聞いた言葉だった。

食料を選んだ時。

ファロスαで使う部品を選んだ時。

アドミラルは、分からないことまでアイリスへ押しつけなかった。

必要な情報を示し、選べる形へ整える。

その後で、最後の答えを求める。


『私とミラが補助する』


『判断に必要な情報は、すべて提示する』


通信画面へ、カインからの最後の言葉が表示された。


【しばらく留守を頼む】


アイリスは、その短い文章を見つめた。

戻らないとは書いていない。

後から追うと言っている。

それでも、空いた艦長席を思い浮かべると、胸の奥が少し重くなった。

アイリスは端末へ手を伸ばした。

文字を一つずつ入力する。


【分かった】


そこで一度、指が止まった。

大丈夫とは書かなかった。

心配していないとも書かなかった。

代わりに、もう一文を加える。


【任せて】


送信。

僅かな間を置き、カインから短い返答が届いた。


【頼んだ】

作者のモチベになりますので、

★評価よろしくお願いします。

_| ̄|○何卒。

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