第64話:灯りを点ける者
昼前。医療区画での精密走査と、あの奇妙な共鳴反応から、しばらく経っていた。
アイリスは副艦長室で休んでいた。
眠っていたわけではない。
ベッドの上に腰を下ろし、薄い毛布を膝にかけたまま、ぼんやりと壁を見ている。胸の奥に残っている細い針のような感覚は、もう強くない。
けれど、完全に消えたわけでもなかった。
遠くで誰かが扉を叩いているような。
見えない場所から、こちらを探しているような。
そんな余韻だけが、まだ身体の奥に残っている。
扉が開いた。カインが入ってくる。
いつもの傭兵装備だった。
擦れた上着。目立ちすぎない防護ベスト。腰の拳銃。予備弾倉。そして、刀。崩兼元。自由港の通りを歩くには、少し物騒な格好だ。だが、今のカインには、それが自然だった。
「大丈夫か?」
最初に出た言葉は、それだった。
アイリスは少しだけ瞬きをして、それから頷く。
「うん。まだ変な感じは残ってるけど……さっきよりは落ち着いた」
「痛みは」
「ない」
「気分は」
「少しだけ疲れてる。でも、大丈夫」
カインはそれを聞いて、短く頷いた。
部屋の隅では、ミラが医療端末の記録を確認している。
『副艦長の生体値は安定傾向にある』
天井から、アドミラルの声が落ちた。
『ただし、共鳴反応の残滓は完全に消失していない。艦外行動は推奨しない』
アイリスは、カインを見る。
「何か、決まった?」
「自由港を出る」
アイリスの表情が、わずかに揺れた。
「……もう?」
「準備が整い次第だ。予定より早い」
アイリスは胸元に手を当てる。
あのぼやけた人影。
胸に光る機械を持つ試作体。
スティレットに似た、細い針のような気配。
「あれが、きっかけになったの?」
「きっかけの一つだ」
カインは否定しなかった。
だが、責める声でもなかった。
「悪いことじゃない」
「悪いことじゃない?」
「感じたから分かった。分かったから、動ける」
不器用な言い方だった。
けれど、アイリスを責めるものではなかった。
アイリスはゆっくり息を吐く。
「私は、艦内にいるんだよね」
「ああ」
カインは頷いた。
「ここにいろ。アドミラルとミラと準備をしてくれ」
「準備?」
「向こうで何が必要になるか分からん。生活用品、医療品、補修材、艦内で作るための素材。足りないものを今日中に集める」
アイリスは膝の上の毛布を握った。
逃げる準備。けれど、それだけではない。
次の場所で生きるための準備。
「私が選んでいいの?」
「ああ」
カインは頷いた。
「艦の中は、お前に任せる」
「……副艦長だから?」
「そうだ」
短い返事だった。
けれど、アイリスには十分だった。
役割がある。
「分かった」
アイリスは頷いた。
「アドミラルとミラと一緒に、準備する」
カインはそれを確認してから、踵を返す。
アイリスは、その背中へ声をかけた。
「カインは?」
「外に出る」
「何をしに?」
「時間を稼ぐ」
カインは振り返らずに答えた。
「エーテル・ガイストを動かす。そのために、外の目を少し引く」
「囮?」
「そうだ」
隠さなかった。
アイリスの表情が強張る。
カインは扉の前で立ち止まった。
「心配するな。自由港を捨てるわけじゃない」
「……また、戻れる?」
「ああ。落ち着いたら、また戻ってくればいい」
カインは短く言った。
「そのためにも、今は動く」
アイリスは少しだけ息を吐き、頷いた。
「分かった。準備する」
「頼む」
扉が閉じる。
副艦長室には、アイリスとミラと、天井から見守るアドミラルの気配だけが残った。
『副艦長』
「うん」
『物資リストを表示する。』
「分かった」
壁面には、自由港のローカル配送網が展開された。
宅配ドローン。
港湾搬送機。
ギアハンド管理の貨物台車。
個人工房の配送便。
自由港の中を、物資が血流のように巡っている。
「自由港では、注文すればすぐに荷が動きます」
ミラが説明した。
「速いのは便利です。でも、届け先を一つにまとめると、その場所が目立ってしまいます」
「ここに全部届けたら、ばれる?」
『可能性は高い』
アドミラルが答えた。
『ドライドック六番への直送は避ける。配達先はこちらで分ける』
「分ける?」
『ドック共用貨物置き場、ギアハンド一時保管、クロンワークス宛て、別名義の中継ロッカー。物資の種類と危険度に応じて自動振り分けを行う』
アイリスは表示された配送経路を見る。
いくつもの線が、自由港の地図上で枝分かれしていた。
まっすぐ艦へ向かう線は、一つもない。
「じゃあ、私は選べばいいんだ」
『肯定』
「分かった。ちゃんと見る」
アイリスは小さく息を吸い、端末へ向き直った。
「じゃあ、始めよう」
「はい」
ミラが静かに頷いた。
ノクスとアンブラについては、すでにクロンワークスへ短い連絡を入れてある。
ノクスは後でカインが取りに行く。
アンブラは未完部分をエーテル・ガイスト側で仕上げる前提で、先に戻す。
ヴィジルは一足先に搬入済み。
ロイへの連絡と、ギアハンド経由の貨物処理はクロンへ預けた。
金は先に払った。
クロンは、それ以上を聞かなかった。
それが自由港の流儀だった。
客が言わない理由を、聞かない。
聞かなければ、売らずに済む。
売れない情報は、時に命を守る。
カインはドライドック六番を出た。
自由港の匂いが濃くなる。
焼けた油。古い金属。冷却材。安い香辛料。人の汗。ネスト戦後の自由港は、普段より少し浮ついていた。帰ってきた傭兵が金を使い、商人が声を張り、修理屋は仕事を抱え、情報屋は客を待っている。
カインは、その中を歩いた。
隠れすぎない。目立ちすぎない。
追えるようで、追い切れない速度。
今日は、見る者に見せる日だった。
ただし、見せるのは艦ではない。
自分だけでいい。
補給区画を抜け、共用貨物置き場を確認し、ブラック・ネビュラへ続く通りを横切る。
しばらく歩き保守通路へ入ったところで、カインは足を止めた。
背後の足音が、一拍遅れて止まる。
素人ではない。だが、軍人でもない。
自由港の追跡屋。カインは振り向かずに言った。
「出てこい」
沈黙。次の瞬間、空気が裂けた。銃声ではない。
細い金属線が、壁と床へ同時に突き刺さる。そこから粘着質の拘束膜が展開し、カインの足元を絡め取ろうとした。
捕獲用。殺す気ではない。
つまり、誰かがカインを生きたまま欲しがっている。カインは半歩で逃げず、逆に踏み込んだ。
拘束膜が靴底をかすめるより早く、壁を蹴って身体を浮かせる。二本目の拘束ワイヤが肩を狙って走る。カインは左腕でそれを弾き、義手の指で線を掴んだ。
線が巻き取られる。
追跡屋が引いたのではない。
カインが引いた。
「なっ――」
物陰から引きずり出された男が、姿勢を崩す。
カインは着地と同時に男の手首を押さえた。関節を外さない角度で捻り、膝裏を蹴る。相手が崩れたところで、手首の拘束具を外し、床へ落とす。
「言え。誰に雇われた」
カインは低く訊いた。
男は答えない。代わりに、口内の通信チップへ舌を動かした。カインの義手が、男の顎を軽く押さえる。
「それはやめておけ」
男の目が見開かれる。
「殺す気はない」
カインは言った。
「だが、喋れなくする方法は知っている」
男の喉が鳴った。
「……仲介だ」
「誰の」
「知らねえ。本当だ。俺は依頼を受けただけだ」
「会えるか」
「会ってどうする」
「聞く」
「聞いて済む相手じゃねえぞ」
カインは男の襟を掴み、壁へ押し付けた。
「俺も、ただで済ませるつもりはないが」
男は数秒、カインを見た。
そして、諦めたように息を吐く。
「案内すれば…見逃すか」
「仕事を選ぶならな」
「選ぶ余地があるように聞こえねえ」
「あるさ。連れて行くか、ここで寝るかだ」
男は乾いた笑いを漏らした。
「自由港式の交渉だな」
「そうだ」
「案内しろ」
「……分かった」
追跡屋は立ち上がった。
カインはその背後につく。
追われる側が、追う側を連れて歩き出した。
中央本部の一室では、別の会話が交わされていた。アトリー元帥の執務室。
壁面には、旧時代移動基地の登録情報が映し出されている。旧連合外縁機動補給基地。
現在の軍台帳では廃棄扱い。
補給線から外れ、航路図からも薄く消され、存在を知る者はほとんど残っていない。
ライナ・ヴェルグは、表示された古い管理番号を見ながら言った。
「…閣下は、実物をご覧になったことは?」
「ないな一度も」
アトリーはあっさり答えた。
「私も前任から引き継いだだけでな。いつかの保険だと聞かされて、台帳の奥へしまったままだ」
「相当長い間、放置されていますね」
「耳が痛いな」
アトリーは椅子に背を預ける。
画面の中で、古い基地の外殻図がゆっくり回転していた。
「確か名は、ファロスαと呼ばれていたな」
アトリーがぽつりと言った。
ライナが顔を上げる。
「ファロス……灯台、ですか」
「そうだ。外縁航路の灯台。補給基地であり、避難所であり、護衛艦隊の中継点でもあった」
アトリーは古い記録を一つ開く。
そこには、今よりずっと粗い星図と、長い移民船団の航跡が表示された。
「宇宙都市移民計画の護衛もこなしたらしい。まだエーテル技術が今ほど一般化する前だ。鈍重な移民船団を守りながら、外縁軌道まで送り出す。今の艦隊運用とは、まるで違う時代の仕事だ」
「護衛、補給、中継。名前に反して、かなり実務的ですね」
「灯台とは、光っているだけでは意味がない。帰る場所と、進む方向を示す」
ライナは画面の基地を見つめた。
ファロスα。
その名を知った途端、古い金属の塊にしか見えなかった施設が、少しだけ違って見えた。
誰かを送り出し、誰かを迎え入れるための場所。
かつて、遠い移民船団の航路を支えた灯台。
「状態記録は断続的ですね」
「最低限の保守信号は今もな」
「生きています。秘匿ビーコン、外殻点検、補助炉の微弱反応。どれも旧式ですが、完全停止ではありません」
「六十年以上か」
「記録上は」
アトリーは苦く笑った。
「記録上、という言葉は便利だ」
「信用しすぎると危険です」
「だからティルザを先に送る」
「はい」
ライナは端末へ新しい命令を入力する。
「現場判断ができ、カイン・ウォーカーに文句を言える人材です」
「後半は必要か?」
「必要条件です」
アトリーは小さく笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「まだ使えるか」
「使える状態でなくとも、使えるようにします」
「君は時々、私より乱暴だな」
「閣下の副官ですので」
「なるほど、私の教育が悪いな」
軽口はそこまでだった。
沈黙のあと、アトリーは静かに言った。
「気に入ると良いが」
ライナが顔を上げる。
その言葉は、作戦上の評価ではなかった。
避難先としての有用性でもない。
ただ、古い基地が、あの三人にとって少しでも居心地の悪くない場所であればいいという、ささやかな願いだった。
「……ええ」
ライナは一拍置いて、頷いた。
「ティルザへ伝えます」
アトリーは苦笑した。
「それは伝えなくていい」
「承知しました。では、必要な部分だけを」
「君は本当に容赦がないな」
「閣下の副官ですので」
アトリーは画面へ視線を戻した。
ファロスα。
かつて、移民船団の行く先を照らした灯台。
その灯りが今度は、亡霊と少女と軍神のために点けられようとしていた。
その頃、ティルザ・レーヴェンは、暗い宙域にいた。
自由港の光は、もう遠い。
小型船の前方に広がるのは、ほとんど何もない空間だった。航路価値の低い宙域。商船も通らず、軍の哨戒も薄く、エーテル反応探査にも大きなものは映らない。
だが、指定された座標に近づくと、古いビーコンが返った。弱い。途切れ途切れ。
それでも、確かにそこにあった。
《認証要求》
《連合外縁機動補給基地》
《通称登録名――ファロスα》
《識別番号照合中》
ティルザは操縦席で眉を上げた。
「ファロスα……灯台、ですか」
古い名前だった。
だが、不思議と悪くない。
この何もない暗闇の中で、灯台という名だけが、まだ微かに光っているように思えた。
前方の闇に、巨大な輪郭が浮かぶ。
最初は岩の影に見えた。次に、漂流した骨組みに見えた。近づくにつれ、それが基地だと分かる。
色褪せた外殻。古い低反射装甲。
半ば閉じたままのドックゲート。
外壁に走る長い補修痕。
エーテル技術特有の青白い光はない。代わりに、古い誘導灯が一本、また一本と遅れて点いていく。
「廃墟、ではないですね」
ティルザは呟いた。
死んではいない。
眠っている。
そんな印象だった。
《認証完了》
《許可コード確認》
《長期休眠状態より、ドック管制機能を制限中》
《誘導灯および低出力ビーコンを展開》
《着艦支援――半自動》
ティルザは表示を見て、眉を寄せた。
「半自動、ですか」
完全な自動着艦ではない。
基地側が進入角と着艦パッドの位置を示し、最後は操縦者が自分で寄せる方式だ。
数十年ぶりの来訪者を迎えるには、ずいぶん控えめな歓迎だった。
だが、機能を絞って生き延びていた施設なら、むしろ妥当でもある。
「つまり、自分で着けろってことですね」
ティルザは小さく息を吐き、操縦桿を握り直した。ドック内の誘導灯が、一本、また一本と遅れて点いていく。
眠っていた灯台が、まだ寝ぼけたまま道を示しているようだった。
ティルザは船体をゆっくり傾け、表示された着艦パッドへ機首を合わせる。
「了解です、ファロスα。こちらで寄せます」
小型船は低出力ビーコンに導かれながら、古いドックの奥へ滑り込んでいった。
ドック内には、薄い照明が点いていた。
空気はない。だが、区画としては維持されている。床面には、清掃機械が残した細い走行跡があった。着艦後、ティルザは簡易宇宙服を着てハッチを開ける。
ドックの内壁に沿って、小型の整備ドローンが一体、ゆっくりと近づいてきた。
丸みを帯びた旧式機。
傷だらけの外装。
片側のライトが少し暗い。
《来訪者確認》
《前回有人記録より、六十三年四か月十一日》
《通路清掃を継続中》
ティルザは数秒、返答できなかった。
「……六十三年?」
《肯定》
「ずっと掃除していたんですか」
《肯定》
「誰もいないのに?」
《清掃予定が終了していません》
ティルザはヘルメットの中で、思わず笑った。
「律儀ですね」
《評価不能》
「褒めています」
《記録しました》
ティルザはドック奥へ歩き出す。
古い基地は、静かだった。
壁の表記は現代規格ではない。配管は太く、端末は重く、扉の開閉は遅い。だが、通路は予想より綺麗だった。埃は少ない。床の亀裂も応急補修されている。
人がいない間も、機械は仕事を続けていた。
誰かが帰るかもしれない場所を、ずっと保っていた。
通路脇の古い案内板に、かすれた文字が残っている。
《PHAROS-α》
《OUTER ROUTE MOBILE SUPPLY BASE》
《アウター・ルート・モバイル・サプライ・ベース》
《COLONY MIGRATION ESCORT SUPPORT LINE》
《コロニー・マイグレーション・エスコート・サポート・ライン》
ティルザは足を止めた。
「宇宙都市移民計画の護衛支援線……」
ただの移動補給基地ではない。
かつてここは、移民船団を外縁軌道へ送り出すための中継点だった。
鈍重な居住船。資材船。護衛艦。
何千、何万という人間を乗せた船団が、この灯台の光を頼りに進んだのだろう。
補給し、修理し、傷ついた船を受け入れ、次の航路へ送り出す。灯台。
その名前は、飾りではなかった。
端末が震える。
ライナからの短文だった。
《現地確認を優先》
《最低限の管制起動後、居住区・補給区画・簡易ドックの状態を報告》
《彼らが来る前に、灯りを点けてください》
ティルザは、文字を見て小さく息を吐いた。
「簡単に言ってくれますね、副官」
だが、その言葉が今は少しだけ違って見えた。
灯りを点ける。それは比喩ではない。
この基地は、そういう名前の場所だった。
ファロスα。外縁航路の灯台。
管制室への案内灯が、遅れて点いた。
ティルザは旧式ドローンを見下ろす。
「案内できますか」
《可能》
「では、お願いします」
《了解》
ドローンはゆっくり進み始めた。
その速度は遅い。
ティルザは歩幅を合わせる。
急ぐべき状況だった。
それでも、ここで走る気にはなれなかった。
六十三年と四か月。
誰もいない通路を掃除し続けていた機械の後ろを、急かして歩くのは違う気がした。
やがて、管制室へ入る。
空気はまだ薄い。
照明も半分しか生きていない。
だが、中央の管制卓は反応した。
古い画面に、緑色の文字が走る。
《管制権限確認》
《先行要員コード照合》
《ファロスα、最低限起動シーケンスへ移行》
ティルザは手袋越しに管制卓へ手を置いた。
「こちら先行要員、ティルザ・レーヴェン」
少し間を置く。
「旧移動基地ファロスα、最低限の管制起動を開始します」
基地が低く唸った。
遠くの補助炉が、眠りから覚めるように震える。
通路の照明が一本ずつ点く。
ドックの誘導灯が増える。
空気循環装置が古い音を立てて回り始める。
すべてが遅い。すべてが古い。
けれど、確かに動き始めていた。
管制卓に、新しい文字が浮かぶ。
《承認》
《おかえりなさい》
ティルザは眉をひそめた。
「……帰ってきた覚えはないんですけど」
旧式ドローンが足元で停止する。
《通路清掃を継続しますか》
ティルザは少しだけ笑った。
「してください」
そして、もう一度管制画面を見る。
自由港の方角は、ここからでは見えない。
けれど、彼らが来る場所はここだ。
まだ灯りの足りない基地。
まだ人を迎える準備のできていない、古い灯台。
ティルザは、ライナからの文面を思い出す。
彼らが来る前に、灯りを点けてください。
「了解しました」
誰に向けたものでもない返事をして、ティルザは管制卓の起動項目を次々と開いていく。
かつて移民船団の行く先を照らした灯台に、また一つ灯りが点いた。
作者のモチベになりますので、
★評価よろしくお願いします。
_| ̄|○何卒。




