第63話:重なる鼓動
自由港の朝は、静かではなかった。
外では、ネスト帰りの船がまだ修理順を待っている。外殻を焦がした傭兵船。推進器を半分失った曳航船。残骸を積んだ回収艇。ギアハンドの作業員達は、眠気を怒号と工具音で叩き潰しながら、次の船、次の部材、次の苦情へと向かっていた。
しかし、エーテル・ガイストの食堂区画は、その喧騒から一枚隔てられていた。
古い大型貨物船の顔を被った亡霊艦。
その内側では、いつものように朝食が用意されている。
焼いたパン。温かいスープ。卵。小さく切られた野菜。薄く炙った保存肉。ミラが皿を並べ、カインは先に席についていた。
カインの前には黒いコーヒー。
ミラの前には、小さな確認用端末。
天井からは、アドミラルの声が落ちてくる。
『ノクス、アンブラの修理進捗を確認。クロンワークス側の作業は予定内』
「ヴェスパーは」
『格納区画の再調整中。カラス固定具の増設案を提示可能』
「後で見る」
『了解』
そこで、食堂区画の扉が開いた。
少し遅れて、アイリスが入ってくる。
まだ寝癖を直しきれていない髪。眠気の残る目。だが、足取りはしっかりしていた。
「……おはよう……」
「おはようございます、アイリスさん」
ミラが柔らかく返す。
『副艦長。睡眠時間は基準値を満たしている』
「…うん。おはよう、提督」
『おはよう』
アイリスはいつもの席に座った。
カインの向かい。
ミラの隣。
アドミラルの声が届きやすい、食卓の中央に近い場所。
ミラがスープを置く。
「熱いので、少し冷ましてください」
「ありがとう、ミラ」
アイリスは両手で器を包んだ。
湯気が頬に触れる。
それだけで、少しだけ表情が緩む。
カインはしばらく黙っていた。
アイリスがパンを一口食べ、スープを少し飲み、食卓の空気が落ち着いたところで、彼は口を開いた。
「アイリス」
「うん?」
「ネストの時の話だ」
アイリスの手が、器の上で止まる。
ミラも端末から視線を上げた。
カインは続ける。
「おかげで助かった」
「……私?」
「ああ」
アイリスは戸惑う。
「でも、私は……」
「中枢の位置を示した」
カインは短く言った。
「エーテル・ガイストの砲撃も、ハティやリレイの攻撃も、ただ撃てばよかったわけじゃない。あの時、撃つべき場所を間違えれば、ネストはもっと大きく崩れていた。あるいは、こちらを巻き込んでいた」
アイリスは視線を落とす。
「……私は、ただ、あそこが変だって思っただけ」
カインの声は低い。
だが、責めるものではない。
「アドミラルは、お前の反応とネスト内部の異常を照合した。ミラも記録を整理した。俺はそれを聞いて、撃つと決めた」
『副艦長の感覚報告は、戦術判断に有効だった』
アドミラルが淡々と言う。
『中枢破壊に必要な照準補正の一部は、副艦長の反応記録を基準とした』
アイリスは、困ったように瞬きをした。
「……褒められてる?」
「褒めてる」
カインは即答した。
アイリスは少しだけ頬を赤くする。
「でも、どうして分かったのかは、分からない」
「そこを聞きたかった」
「ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
カインはカップを置いた。
「そこでだ。調べる必要がある」
アイリスの表情が少し硬くなる。
その変化を見て、カインは言葉を選ばなかった。
遠回しにすれば、かえって怖くなる。
「ライナ副官から情報が来た」
「ライナさんから?」
「ああ。お前の胸の中にあるものについてだ」
アイリスの手が、自然と胸元へ動いた。
服の上から、そっと触れる。
「……これ?」
「そうだ」
カインは天井へ目を向けた。
「表示しろ。名前だけでいい」
『了解』
食堂区画の壁面モニターに、表示が浮かぶ。
余計な資料は出ない。
黒塗りの文書も、被験体番号も、削られた実験記録も、今は出さない。
表示されたのは、二つの名称だけだった。
《SERAPHIC HEART》
《SERAPHIC CORE》
アイリスは、それをじっと見つめた。
「セラフィック……ハート」
声に出して読む。
次に、少し遅れて。
「…セラフィック、コア」
カインは頷いた。
「エーテリアンのエーテル技術を医療に使用する計画があった」
「前のモデルは、セラフィックハートと呼ばれていた」
「…前の?」
「救命補助器官に近いものだ。循環維持、心臓器代替、神経安定、資料上では、そういう目的が記されていた」
「治すためのもの?」
「本来は、そうだったらしい」
アイリスは、胸元に置いた指を少し強くした。
「じゃあ、私の…は?」
カインはわずかに間を置く。
それでも、目は逸らさなかった。
「恐らくセラフィックコアだ」
アイリスは黙った。
食堂の空気が、少しだけ重くなる。
ミラが何も言わず、アイリスの前のスープを少し端へ寄せた。手が震えた時に、こぼれない位置へ。
カインはそれを見てから続ける。
「ハートが救命用の補助器官なら、コアはその後期型、または改造型だ。エーテル共鳴を増幅する。外部の機構と接続する。そういう断片情報がある」
「外部の機構……」
「艦、兵器、動力炉、機械。ヴォルフが何を繋ごうとしたのかは、まだ分からん」
『ただし、ネスト内部データと照合した結果、無人艦製造施設、人類の夜明け計画、セラフィック系器官の間に関連がある可能性は高い』
アドミラルが言う。
アイリスは小さく息を吸った。
「私……兵器……なの?」
「違う」
カインは即答した。
食卓の上で、短い言葉が鋭く落ちる。
「お前はお前だ」
アイリスが顔を上げる。
「胸の中に何が入っていようと、それは変わらない」
「でも」
カインは、そこで少しだけ声を落とした。
「ただ、知らないままにはできない」
アイリスは目を伏せた。
スープの湯気が、ゆっくり薄れていく。
「検査、するの?」
「出来ればしたい」
カインは正直に言った。
「簡易的なデータはある。クレイドル脱出後の医療記録。艦内生活中の生体ログ。ネスト戦での共鳴反応。だが、それだけでは足りない」
『従来の走査では、胸部人工器官の外形、周辺組織への影響、通常生体反応の把握が限界だった』
アドミラルが補足する。
『内部構造の詳細、外部反応との相関は不明瞭』
「けど、今は違うの?」
アイリスが訊く。
ミラが頷いた。
「はい。三部材の解析データを応用します」
「三部材……」
ミラは、卓上に小さな模型表示を出した。
三つの箱の中身。隔離解析区画に封印されている危険部材。自由港で入手した、ただの部品ではないもの。出所は恐らくネスト。
「これらは、エーテリアン由来技術を人類側の制御で動かすための橋渡し部材です。完全には分かっていません。でも、信号がどう変換されるか、共鳴がどう記録されるか、少しずつ見えてきました」
『三部材解析モデルを応用すれば、副艦長の胸部器官を以前より精密に走査できる』
アドミラルが言う。
『物理接続は行わない。隔離解析データを参照し、医療区画の非侵襲スキャナーを再構成する』
「…切ったりはしない?」
アイリスの声は小さい。
「しない」
カインが答える。
「痛いこともさせない」
「…苦しくなったら?」
「止める」
「…嫌って言ったら?」
「やらない」
即答だった。
アイリスはカインを見る。
カインは誤魔化さない。
「…だがお前を守るために、知るために検査は必要だと思っている」
食堂は静かだった。
外ではまだ自由港の作業音がしている。
工具の響き。誘導灯の警告音。
遠い怒号。
アイリスは、しばらく考えた。
胸元の手を下ろし、膝の上で握る。
「……ネストで、私が分かったことが、誰かを助けれるなら……」
カインは黙って聞く。
「無理にそう思う必要はない」
「無理じゃない」
アイリスは首を振った。
「怖いけど、知らないままの方がもっと怖い」
そして、少しだけ視線を上げる。
「それに……私だけじゃなかったんだよね」
カインの表情がわずかに変わる。
アイリスは続けた。
「クレイドルに、他にもいたんだよね」
「ああ」
「なら、私のことが分かれば、その人達のことも、少し分かるかもしれない」
「可能性はある」
「だったら、調べて欲しい」
アイリスはそう言った。
震えてはいた。
だが、自分で選んだ声だった。
「私が知りたいから」
カインは頷いた。
「分かった」
ミラが静かに立ち上がる。
「医療区画を準備します」
『精密走査プロトコルを構築。三部材解析モデルを適用。物理接続なし。出力制限、医療安全閾値を設定』
「アドミラル」
カインが言う。
『何だ』
「少しでも危険があれば止めろ」
『当然だ』
アイリスが小さく笑う。
「提督、怒った?」
『私に感情はない。安全基準だ』
「うん」
その返事は、少しだけ柔らかかった。
医療区画は、いつもより少し暗く調整されていた。白すぎる光は、人を落ち着かせない。
それを判断したのがアドミラルなのか、ミラなのか、あるいは二人のどちらでもあるのかは分からない。ただ、アイリスが診察台に座った時、その光は彼女の顔を強く照らしすぎなかった。
三重のリング状スキャナーが、診察台の周囲に展開している。通常の医療走査装置。
その外側に、アドミラルが再構成した精密観測フレーム。さらにもう一層。隔離解析区画に保管された三部材――結晶制御ユニット、共鳴導体、ハイブリッド補助コア――の解析結果を反映した共鳴観測層。実物の三部材は、ここにはない。
隔離解析区画の中で、今も遮断層に包まれている。ここにあるのは、解析によって得た仮の辞書だけだ。信号が、変換される時、どこで歪み、どこで増幅し、どこで意味を持つのか。
アドミラルはそれを完全に理解したわけではない。だが、ネスト戦でアイリスの反応を読み取るには十分だった。そして今は、その逆を試す。
アイリスの中にあるものを、読むために。
「痛くなったら言ってください」
ミラが、アイリスの手首に薄いセンサーバンドを巻きながら言った。
「苦しくなっても、気分が悪くなっても、すぐです」
「うん」
アイリスは小さく頷く。
けれど、その手はカインの袖を掴んでいた。
強くはない。ただ、離さない程度に。
カインは診察台の横に立っている。
離れた場所ではない。
アイリスが望んだ場所だ。
『精密走査を開始する』
アドミラルの声が落ちる。
『物理接触なし。侵襲なし。出力制限、医療安全閾値内』
「もし閾値を越えたらー」
『止める』
カインが言うより先に、アドミラルが答えた。
『当然だ』
その短いやり取りで、医療区画の空気がわずかに緩む。だが、リングが回り始めると、誰も余計なことは言わなくなった。
淡い光が、アイリスの身体をなぞる。
皮膚を切らない。血を取らない。
胸の中にあるものへ、直接触れない。
ただ、周囲の反応を見る。
『生体反応、安定』
『胸部人工器官外郭、確認』
『既存人工臓器データベースとの一致なし』
『ハート断片資料との部分一致』
アイリスの指が、カインの袖を少し強く掴む。
カインは動かない。
『コア断片資料との照合を開始』
壁面表示に、複数の波形が重なった。
心拍。神経活動。エーテル微弱変動。
ネスト戦時の共鳴ログ。
三部材の変換モデル。
アドミラルが組み上げた、仮の対応表。
ミラが別の表示を開く。
「共鳴導体モデルと、アイリスさんの胸部器官反応に同期点があります」
『確認している』
「ネスト戦時と比較。反応微弱」
『環境反応が異なる。今回は外部巨大構造体との相関ではない』
『だが一部、近似する』
カインの目が細くなる。
「続けろ」
『第二層走査へ移行』
リングの回転が遅くなる。
医療区画の空調音が、一段低く聞こえた。
アイリスは目を閉じる。
最初は何もなかった。
ただ、胸の奥にあるものが、静かに見られている感覚。それは怖い。
けれど、クレイドルの時とは違う。
あの時のように、勝手に読まれているわけではない。カインがいる。ミラがいる。提督がいる。
自分で、受けると決めた。
だから大丈夫。そう思おうとした瞬間。
胸の奥が鳴った。
「……待って…」
アイリスの声が落ちた。
『走査減衰』
リングの光が弱まる。
それでも、壁面表示の細い波形は消えなかった。
むしろ外から来るように、一本の線がアイリスの反応へ重なっている。
『…艦外由来の微弱共鳴を検出。発生源、特定不能』
「港内か」
『否定不能』
アイリスは胸元へ手を当てた。
その目は閉じている。だが、何かを見ていた。
アイリスは閉た瞼に人影を幻視していた。
「…見え…る…人?…」
医療区画ではない。
エーテル・ガイストの外。
ドライドックの外。
自由港の喧騒のどこか。
「……顔は、…見え…ない…」
アイリスが呟く。
「…ぼやけてる。男か女かも、よく分からない。…でも…」
ミラが記録を開始する。
「何か分かりますか?」
「暗い色。上に、何か羽織ってる。自由港の人みたいに見せてる……でも、違う」
アイリスの呼吸が、少し乱れる。
「…胸に、…ある…」
カインの目が細くなった。
「何が」
「…光ってる…」
「…服の下に隠してる。でも、隠しきれてない。皮膚の下なのか、外なのか分からない。機械みたいで、心臓みたいで……剥き出しみたいに見える」
カインの脳裏に、クレイドルの白い通路が蘇る。
警報。血と薬品の匂い。
アイリスを抱えた重さ。
そして、立ちはだかった人型。
胸元に、皮膚と装甲の境目を無視して埋め込まれた、光る機械的なもの。人間の形をした、未完成の兵器。
「……試作体か?」
カインの声は低かった。
アイリスが目を開ける。
「…知ってるの?…」
「…クレイドルで、似たのと戦った」
「…私が見てる人…同じ?…」
「断定はできん」
カインは答えた。
「だが、恐らく…」
アイリスの表情が強張る。
だが、共鳴はまだ終わっていなかった。
彼女はもう一度目を閉じる。
「……あれ……」
「どうした」
「…胸だけ…じゃない」
アイリスの声がさらに細くなる。
「…その人の周りに、何かある。細いの…」
ミラの手が止まった。
アドミラルも、即座には言葉を返さない。
アイリスは、言葉を探す。
「……でも、私の知ってるの…じゃない」
カインは黙って待つ。
「でも、…似てる」
「何に」
「…スティ…レット…」
カインの視線が鋭くなる。
「針か」
アイリスは小さく頷いた。
「…うん。…多分…」
『資料照合を開始』
アドミラルがライナから共有された断片資料を開いた。
《STILETTO》
《試作共鳴誘導兵装》
《適合個体の共鳴波形を入力基準とし、小型飛翔兵装群を誘導》
《意思反応/視線反応/恐怖応答/反射信号を統合》
アイリスの頭の中に、古い光が浮かんだ。
白い部屋。
水の中にいるような音。
透明な壁。
隣のポッド。
ぼんやりとした影。
小さな誰かの手。
誰かが泣いていた気がする。
名前ではなく、番号で呼ばれる声。
怖いと思う。
視線を向ける。
すると、細い何かが動いた。
それが自分のものだったのか。
隣にいた誰かのものだったのか。
ただ見せられていただけなのか。
……分からない。分からないのに、胸の奥が覚えている。
「……ポッド……一つじゃ……なかった……」
アイリスがかすれた声で言った。
カインの表情が変わる。
「何か思い出したのか」
「…はっきりじゃない」
アイリスは首を振った。
「…でも、隣に誰かいた。声もあった気がする。スティレットって言葉も、ルミナスポッドの時に…」
カインは言った。
「無理するな」
「止めろ見なくて良い」
アイリスはゆっくり息を吸う。震えはまだ残っている。けれど、少しだけ呼吸が戻った。
カインは短く判断する。
「検査はここまでだ」
『同意する。心理負荷上昇。共鳴反応も不安定化している』
『走査停止』
三重のリングから光が消えた。
医療区画に、静けさが戻る。
ミラがすぐにアイリスのセンサーバンドを外し、柔らかい布を肩にかけた。
「アイリスさん、ゆっくり呼吸してください」
「…うん」
アイリスは頷く。
けれど、目はまだ少し遠くを見ていた。
「…カイン」
「何だ」
「…あれ、私を探してるの?」
カインは、すぐには答えなかった。
嘘をつくには、近すぎる問いだった。
「その可能性がある」
「私が、呼んだ?」
「違う」
カインは即座に否定した。
「お前が呼んだんじゃない」
「でも」
「お前は感じとっただけだ」
アイリスの目が揺れる。アイリスは唇を結んだ。
ミラがそっと肩に布をかける。
「アイリスさん。今分かったのは、あなたが相手の反応を拾ったということです。あなたが相手を呼んだ証拠はありません」
『同意する。副艦長側からの能動発信は検出されていない』
カインはアドミラルへ視線を上げた。
「自由港内の監視ログを洗え。ドック群、クロンワークス、ホバーバイクの移動経路、人も、アンドロイドも、全部だ」
『了解』
カインは医療区画の壁面に残った細い波形を見た。針のような反応。スティレットに近いもの。
そして、胸に光る機械を抱えた試作体。
「長居は無理だな」
『同一結論』
カインの右目が、薄く赤く灯る。
同じ頃、自由港の別の場所では、歓声が上がっていた。
オールベッド。
賭け台の上で小さな球が止まり、誰かが勝ち、誰かが呻き、誰かが笑う。金が動けば、情報も動く。情報が動けば、人も動く。
ティルザ・レーヴェンは、負けた顔で席を立った。実際には負けていない。
負けたように見える額だけを置いて、勝った分は別の経路へ逃がしてある。
「今日は荒れますね」
隣にいた男が言った。
顔見知りではない。
少なくとも、表向きは。
「昨日も荒れていましたよ」
ティルザは笑う。
「ネスト帰りの人達が、みんな金の使い方を忘れているみたいです」
「忘れているのは金だけならいいんですがね」
男は賭け札を弄びながら、声を落とした。
「七人、呼ばれました」
ティルザの表情は変わらない。
「何の話です?」
「以前、沈めたはずの線です」
賭け台の周囲で、また歓声が上がる。
その音に紛れて、男は続けた。
「全員戻っています。死体はなし。ただ、一人の服が裂けていた」
「喧嘩?」
「壁に縫われたらしい」
ティルザの指が、賭け札の上で止まる。
「詳細は?」
「そこまでは」
「…他には」
「女が一人。男が一人。若い男が一人。作業アンドロイドが一体」
ティルザは笑ったまま、次の台へ視線を移した。
「ここでは珍しくない組み合わせですね」
「はい」
「珍しくないのに、わざわざ私へ?」
「…クロンワークスの名前が出ました」
今度は、ティルザの笑みが少しだけ薄くなった。
男は続ける。
「ホバーバイク。男と少女。女性型アンドロイド。大型船の噂。そこまで拾われています」
「船名は」
「まだ」
「ドックは」
「まだ」
「なら、まだ仕事の範囲です」
「どうしますか」
ティルザは賭け場の奥を見る。
そこでは、誰かが大きく勝ち、周囲から拍手を浴びていた。
あの時の自分と同じように。
ラーベに賭けた日。
動きだけで先輩を見抜き、勝つと分かっていた試合に金を乗せた。その金で、何人かの目を閉じさせた。だが、閉じた目を、誰かが力ずくで開け始めている。
「追わないでください」
ティルザは言った。
男がわずかに眉を上げる。
「よろしいので?」
「尾行は駄目です。接触も駄目。相手に、こちらの線を見せない」
「では」
「誰と会ったか。何を買ったか。どの区画へ入ったか。それだけを見てください」
「了解」
「それから」
ティルザは、負けた客の顔で、何気なく賭け札を一枚弾いた。
「副官へ、細線で」
「文面は」
「消した線が、繋ぎ直されています」
男は小さく頷いた。
「緊急度は」
「高めで」
「あなたは」
ティルザは、少しだけ笑った。
「私は休暇中ですので」
男はそれ以上、何も聞かなかった。
自由港の喧騒の中で、ティルザは一人、出口へ向かう。背後でまた金が動く。勝者が笑い、敗者が叫ぶ。その音の中で、彼女の携行端末が一度だけ震えた。
ライナからの返信は短い。
《受信》
《現状確認中》
《任務変更の可能性あり》
ティルザは足を止めなかった。
だが、眉だけがわずかに動く。
「……休暇、終わりですかね」
小さく呟いた言葉は、誰にも拾われない。
数分後、彼女はオールベッドの裏手にある整備用通路へ入った。表の喧騒は一枚隔壁を挟むだけで鈍くなる。賭け台の歓声も、金属壁を通すとただの低い振動に変わる。
ティルザは人通りのない場所で、端末を開いた。
今度は文字だけではない。
ライナの秘匿回線。
短い認証の後、画面に副官の名が浮かぶ。
《状況を報告》
ティルザは壁に背を預けた。
「自由港内のヴォルフ側の情報線が再構築されつつあります。以前こちらで沈めた七人が、まとめて呼び戻されました」
《先ほど確認しました》
「早いですね」
《早くなければ、副官は務まりません》
「嫌味を言う余裕はあるようで安心しました」
《余裕ではありません。習慣です》
ティルザは小さく笑う。
だが、すぐに表情を戻した。
「四人組です。女性一人、男性二人、作業型アンドロイド。若い男は、通常の兵ではない可能性があります」
《根拠は》
「服を壁に縫われた情報屋がいます。弾痕ではありません。刃物とも違う。細い何かです」
《スティレット》
ライナの返答は、ほとんど間を置かなかった。
ティルザの目がわずかに鋭くなる。
「把握済みですか」
《可能性として》
「なら、先輩達に伝えるべきです」
《伝えます》
「私が動きます」
《いいえ》
即答だった。
ティルザは沈黙する。
「ライナ副官?」
《あなたの任務を変更します》
「…今ですか」
《今です》
「自由港の線は」
《別班が引き継ぎます》
ティルザは、壁から背を離した。
「先輩達を置いてですか」
《彼らを置くのではありません》
ライナの文字が、淡々と表示される。
《彼らが向かう場所を、先に開けます》
ティルザの表情が変わる。
「……向かう場所?」
《アトリー元帥の保険です》
「嫌な予感しかしませんね」
次の瞬間、端末に座標データの一部が送られてきた。完全な位置情報ではない。
分割暗号化された航路断片。
古い管理番号。
廃棄済み施設の登録痕。
ティルザはそれを見て、目を細めた。
「これは……移動基地ですか?」
《記録上は》
「記録上は?」
《現物確認が必要です》
「副官」
《何でしょう》
「私は休暇中だったはずですが」
《継続中です》
「休暇で旧時代の秘匿基地へ?」
《宿泊先の変更です》
ティルザは天を仰いだ。
「…アトリー閣下の言い回しですね」
《否定しません》
少しだけ間が空いた。
そして、ライナの次の文面が届く。
《英雄ティルザ・レーヴェン。あなたは先行してください》
《自由港支援任務を、移動基地再稼働準備任務へ変更します》
《詳細は追って送ります》
ティルザは端末を閉じなかった。
数秒だけ、その文字を見つめる。
それから、短く息を吐いた。
「……了解しました」
表のオールベッドでは、まだ歓声が上がっている。誰かが勝ち、誰かが負け、誰かが金を動かしている。自由港は今日も騒がしい。
だが、その喧騒の裏で、ティルザの休暇は少しずつ別の形へ変わり始めていた。
作者のモチベになりますので、
★評価よろしくお願いします。
_| ̄|○何卒。




