↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
トリニティ・ガイスト:亡霊と少女と軍神の航跡  作者: ベルシア


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
69/93

第63話:重なる鼓動

自由港の朝は、静かではなかった。

外では、ネスト帰りの船がまだ修理順を待っている。外殻を焦がした傭兵船。推進器を半分失った曳航船。残骸を積んだ回収艇。ギアハンドの作業員達は、眠気を怒号と工具音で叩き潰しながら、次の船、次の部材、次の苦情へと向かっていた。


しかし、エーテル・ガイストの食堂区画は、その喧騒から一枚隔てられていた。

古い大型貨物船の顔を被った亡霊艦。

その内側では、いつものように朝食が用意されている。

焼いたパン。温かいスープ。卵。小さく切られた野菜。薄く炙った保存肉。ミラが皿を並べ、カインは先に席についていた。

カインの前には黒いコーヒー。

ミラの前には、小さな確認用端末。

天井からは、アドミラルの声が落ちてくる。


『ノクス、アンブラの修理進捗を確認。クロンワークス側の作業は予定内』


「ヴェスパーは」


『格納区画の再調整中。カラス固定具の増設案を提示可能』


「後で見る」


『了解』


そこで、食堂区画の扉が開いた。

少し遅れて、アイリスが入ってくる。

まだ寝癖を直しきれていない髪。眠気の残る目。だが、足取りはしっかりしていた。


「……おはよう……」


「おはようございます、アイリスさん」


ミラが柔らかく返す。


『副艦長。睡眠時間は基準値を満たしている』


「…うん。おはよう、提督」


『おはよう』


アイリスはいつもの席に座った。


カインの向かい。

ミラの隣。

アドミラルの声が届きやすい、食卓の中央に近い場所。

ミラがスープを置く。


「熱いので、少し冷ましてください」


「ありがとう、ミラ」


アイリスは両手で器を包んだ。

湯気が頬に触れる。

それだけで、少しだけ表情が緩む。

カインはしばらく黙っていた。

アイリスがパンを一口食べ、スープを少し飲み、食卓の空気が落ち着いたところで、彼は口を開いた。


「アイリス」


「うん?」


「ネストの時の話だ」


アイリスの手が、器の上で止まる。

ミラも端末から視線を上げた。

カインは続ける。


「おかげで助かった」


「……私?」


「ああ」


アイリスは戸惑う。


「でも、私は……」


「中枢の位置を示した」


カインは短く言った。


「エーテル・ガイストの砲撃も、ハティやリレイの攻撃も、ただ撃てばよかったわけじゃない。あの時、撃つべき場所を間違えれば、ネストはもっと大きく崩れていた。あるいは、こちらを巻き込んでいた」


アイリスは視線を落とす。


「……私は、ただ、あそこが変だって思っただけ」


カインの声は低い。

だが、責めるものではない。


「アドミラルは、お前の反応とネスト内部の異常を照合した。ミラも記録を整理した。俺はそれを聞いて、撃つと決めた」


『副艦長の感覚報告は、戦術判断に有効だった』


アドミラルが淡々と言う。


『中枢破壊に必要な照準補正の一部は、副艦長の反応記録を基準とした』


アイリスは、困ったように瞬きをした。


「……褒められてる?」


「褒めてる」


カインは即答した。


アイリスは少しだけ頬を赤くする。


「でも、どうして分かったのかは、分からない」


「そこを聞きたかった」


「ごめんなさい」


「謝ることじゃない」


カインはカップを置いた。


「そこでだ。調べる必要がある」


アイリスの表情が少し硬くなる。

その変化を見て、カインは言葉を選ばなかった。

遠回しにすれば、かえって怖くなる。


「ライナ副官から情報が来た」


「ライナさんから?」


「ああ。お前の胸の中にあるものについてだ」


アイリスの手が、自然と胸元へ動いた。

服の上から、そっと触れる。


「……これ?」


「そうだ」


カインは天井へ目を向けた。


「表示しろ。名前だけでいい」


『了解』


食堂区画の壁面モニターに、表示が浮かぶ。

余計な資料は出ない。

黒塗りの文書も、被験体番号も、削られた実験記録も、今は出さない。


表示されたのは、二つの名称だけだった。


《SERAPHIC HEART》


《SERAPHIC CORE》


アイリスは、それをじっと見つめた。


「セラフィック……ハート」


声に出して読む。

次に、少し遅れて。


「…セラフィック、コア」


カインは頷いた。


「エーテリアンのエーテル技術を医療に使用する計画があった」


「前のモデルは、セラフィックハートと呼ばれていた」


「…前の?」


「救命補助器官に近いものだ。循環維持、心臓器代替、神経安定、資料上では、そういう目的が記されていた」


「治すためのもの?」


「本来は、そうだったらしい」


アイリスは、胸元に置いた指を少し強くした。


「じゃあ、私の…は?」


カインはわずかに間を置く。

それでも、目は逸らさなかった。


「恐らくセラフィックコアだ」


アイリスは黙った。

食堂の空気が、少しだけ重くなる。

ミラが何も言わず、アイリスの前のスープを少し端へ寄せた。手が震えた時に、こぼれない位置へ。


カインはそれを見てから続ける。


「ハートが救命用の補助器官なら、コアはその後期型、または改造型だ。エーテル共鳴を増幅する。外部の機構と接続する。そういう断片情報がある」


「外部の機構……」


「艦、兵器、動力炉、機械。ヴォルフが何を繋ごうとしたのかは、まだ分からん」


『ただし、ネスト内部データと照合した結果、無人艦製造施設、人類の夜明け計画、セラフィック系器官の間に関連がある可能性は高い』


アドミラルが言う。

アイリスは小さく息を吸った。


「私……兵器……なの?」


「違う」


カインは即答した。

食卓の上で、短い言葉が鋭く落ちる。


「お前はお前だ」


アイリスが顔を上げる。


「胸の中に何が入っていようと、それは変わらない」


「でも」


カインは、そこで少しだけ声を落とした。


「ただ、知らないままにはできない」


アイリスは目を伏せた。

スープの湯気が、ゆっくり薄れていく。


「検査、するの?」


「出来ればしたい」


カインは正直に言った。


「簡易的なデータはある。クレイドル脱出後の医療記録。艦内生活中の生体ログ。ネスト戦での共鳴反応。だが、それだけでは足りない」


『従来の走査では、胸部人工器官の外形、周辺組織への影響、通常生体反応の把握が限界だった』


アドミラルが補足する。


『内部構造の詳細、外部反応との相関は不明瞭』


「けど、今は違うの?」


アイリスが訊く。

ミラが頷いた。


「はい。三部材の解析データを応用します」


「三部材……」


ミラは、卓上に小さな模型表示を出した。

三つの箱の中身。隔離解析区画に封印されている危険部材。自由港で入手した、ただの部品ではないもの。出所は恐らくネスト。


「これらは、エーテリアン由来技術を人類側の制御で動かすための橋渡し部材です。完全には分かっていません。でも、信号がどう変換されるか、共鳴がどう記録されるか、少しずつ見えてきました」


『三部材解析モデルを応用すれば、副艦長の胸部器官を以前より精密に走査できる』


アドミラルが言う。


『物理接続は行わない。隔離解析データを参照し、医療区画の非侵襲スキャナーを再構成する』


「…切ったりはしない?」


アイリスの声は小さい。


「しない」


カインが答える。


「痛いこともさせない」


「…苦しくなったら?」


「止める」


「…嫌って言ったら?」


「やらない」


即答だった。

アイリスはカインを見る。

カインは誤魔化さない。


「…だがお前を守るために、知るために検査は必要だと思っている」


食堂は静かだった。

外ではまだ自由港の作業音がしている。

工具の響き。誘導灯の警告音。

遠い怒号。


アイリスは、しばらく考えた。

胸元の手を下ろし、膝の上で握る。


「……ネストで、私が分かったことが、誰かを助けれるなら……」


カインは黙って聞く。


「無理にそう思う必要はない」


「無理じゃない」


アイリスは首を振った。


「怖いけど、知らないままの方がもっと怖い」


そして、少しだけ視線を上げる。


「それに……私だけじゃなかったんだよね」


カインの表情がわずかに変わる。

アイリスは続けた。


「クレイドルに、他にもいたんだよね」


「ああ」


「なら、私のことが分かれば、その人達のことも、少し分かるかもしれない」


「可能性はある」


「だったら、調べて欲しい」


アイリスはそう言った。

震えてはいた。

だが、自分で選んだ声だった。


「私が知りたいから」


カインは頷いた。


「分かった」


ミラが静かに立ち上がる。


「医療区画を準備します」


『精密走査プロトコルを構築。三部材解析モデルを適用。物理接続なし。出力制限、医療安全閾値を設定』


「アドミラル」


カインが言う。


『何だ』


「少しでも危険があれば止めろ」


『当然だ』


アイリスが小さく笑う。


「提督、怒った?」


『私に感情はない。安全基準だ』


「うん」


その返事は、少しだけ柔らかかった。

医療区画は、いつもより少し暗く調整されていた。白すぎる光は、人を落ち着かせない。

それを判断したのがアドミラルなのか、ミラなのか、あるいは二人のどちらでもあるのかは分からない。ただ、アイリスが診察台に座った時、その光は彼女の顔を強く照らしすぎなかった。


 三重のリング状スキャナーが、診察台の周囲に展開している。通常の医療走査装置。

その外側に、アドミラルが再構成した精密観測フレーム。さらにもう一層。隔離解析区画に保管された三部材――結晶制御ユニット、共鳴導体、ハイブリッド補助コア――の解析結果を反映した共鳴観測層。実物の三部材は、ここにはない。

隔離解析区画の中で、今も遮断層に包まれている。ここにあるのは、解析によって得た仮の辞書だけだ。信号が、変換される時、どこで歪み、どこで増幅し、どこで意味を持つのか。

アドミラルはそれを完全に理解したわけではない。だが、ネスト戦でアイリスの反応を読み取るには十分だった。そして今は、その逆を試す。

アイリスの中にあるものを、読むために。


「痛くなったら言ってください」


 ミラが、アイリスの手首に薄いセンサーバンドを巻きながら言った。


「苦しくなっても、気分が悪くなっても、すぐです」


「うん」


 アイリスは小さく頷く。

けれど、その手はカインの袖を掴んでいた。

強くはない。ただ、離さない程度に。

カインは診察台の横に立っている。

離れた場所ではない。

アイリスが望んだ場所だ。


『精密走査を開始する』


アドミラルの声が落ちる。


『物理接触なし。侵襲なし。出力制限、医療安全閾値内』


「もし閾値を越えたらー」


『止める』


カインが言うより先に、アドミラルが答えた。


『当然だ』


 その短いやり取りで、医療区画の空気がわずかに緩む。だが、リングが回り始めると、誰も余計なことは言わなくなった。


淡い光が、アイリスの身体をなぞる。

皮膚を切らない。血を取らない。

胸の中にあるものへ、直接触れない。

ただ、周囲の反応を見る。


『生体反応、安定』


『胸部人工器官外郭、確認』


『既存人工臓器データベースとの一致なし』


『ハート断片資料との部分一致』


アイリスの指が、カインの袖を少し強く掴む。

カインは動かない。


『コア断片資料との照合を開始』


壁面表示に、複数の波形が重なった。

心拍。神経活動。エーテル微弱変動。

ネスト戦時の共鳴ログ。

三部材の変換モデル。

アドミラルが組み上げた、仮の対応表。

ミラが別の表示を開く。


「共鳴導体モデルと、アイリスさんの胸部器官反応に同期点があります」


『確認している』


「ネスト戦時と比較。反応微弱」


『環境反応が異なる。今回は外部巨大構造体との相関ではない』


『だが一部、近似する』


カインの目が細くなる。


「続けろ」


『第二層走査へ移行』


リングの回転が遅くなる。

医療区画の空調音が、一段低く聞こえた。

アイリスは目を閉じる。

最初は何もなかった。

ただ、胸の奥にあるものが、静かに見られている感覚。それは怖い。

けれど、クレイドルの時とは違う。

あの時のように、勝手に読まれているわけではない。カインがいる。ミラがいる。提督がいる。

自分で、受けると決めた。

だから大丈夫。そう思おうとした瞬間。


胸の奥が鳴った。


「……待って…」


アイリスの声が落ちた。


『走査減衰』


リングの光が弱まる。

それでも、壁面表示の細い波形は消えなかった。

むしろ外から来るように、一本の線がアイリスの反応へ重なっている。


『…艦外由来の微弱共鳴を検出。発生源、特定不能』


「港内か」


『否定不能』


アイリスは胸元へ手を当てた。


その目は閉じている。だが、何かを見ていた。

アイリスは閉た瞼に人影を幻視していた。


「…見え…る…人?…」


医療区画ではない。

エーテル・ガイストの外。

ドライドックの外。

自由港の喧騒のどこか。


「……顔は、…見え…ない…」


アイリスが呟く。


「…ぼやけてる。男か女かも、よく分からない。…でも…」


ミラが記録を開始する。


「何か分かりますか?」


「暗い色。上に、何か羽織ってる。自由港の人みたいに見せてる……でも、違う」


アイリスの呼吸が、少し乱れる。


「…胸に、…ある…」


カインの目が細くなった。


「何が」


「…光ってる…」


「…服の下に隠してる。でも、隠しきれてない。皮膚の下なのか、外なのか分からない。機械みたいで、心臓みたいで……剥き出しみたいに見える」


カインの脳裏に、クレイドルの白い通路が蘇る。

警報。血と薬品の匂い。

アイリスを抱えた重さ。

そして、立ちはだかった人型。

胸元に、皮膚と装甲の境目を無視して埋め込まれた、光る機械的なもの。人間の形をした、未完成の兵器。


「……試作体か?」


カインの声は低かった。

アイリスが目を開ける。


「…知ってるの?…」


「…クレイドルで、似たのと戦った」


「…私が見てる人…同じ?…」


「断定はできん」


カインは答えた。


「だが、恐らく…」


アイリスの表情が強張る。

だが、共鳴はまだ終わっていなかった。

彼女はもう一度目を閉じる。


「……あれ……」


「どうした」


「…胸だけ…じゃない」


アイリスの声がさらに細くなる。


「…その人の周りに、何かある。細いの…」


ミラの手が止まった。

アドミラルも、即座には言葉を返さない。

アイリスは、言葉を探す。


「……でも、私の知ってるの…じゃない」


カインは黙って待つ。


「でも、…似てる」


「何に」


「…スティ…レット…」


カインの視線が鋭くなる。


「針か」


アイリスは小さく頷いた。


「…うん。…多分…」


『資料照合を開始』


アドミラルがライナから共有された断片資料を開いた。


《STILETTO》


《試作共鳴誘導兵装》


《適合個体の共鳴波形を入力基準とし、小型飛翔兵装群を誘導》


《意思反応/視線反応/恐怖応答/反射信号を統合》


アイリスの頭の中に、古い光が浮かんだ。

白い部屋。

水の中にいるような音。

透明な壁。

隣のポッド。

ぼんやりとした影。

小さな誰かの手。

誰かが泣いていた気がする。

名前ではなく、番号で呼ばれる声。

怖いと思う。

視線を向ける。

すると、細い何かが動いた。

それが自分のものだったのか。

隣にいた誰かのものだったのか。

ただ見せられていただけなのか。

……分からない。分からないのに、胸の奥が覚えている。


「……ポッド……一つじゃ……なかった……」


アイリスがかすれた声で言った。

カインの表情が変わる。


「何か思い出したのか」


「…はっきりじゃない」


アイリスは首を振った。


「…でも、隣に誰かいた。声もあった気がする。スティレットって言葉も、ルミナスポッドの時に…」


カインは言った。


「無理するな」


「止めろ見なくて良い」


アイリスはゆっくり息を吸う。震えはまだ残っている。けれど、少しだけ呼吸が戻った。

カインは短く判断する。


「検査はここまでだ」


『同意する。心理負荷上昇。共鳴反応も不安定化している』


『走査停止』


三重のリングから光が消えた。

医療区画に、静けさが戻る。


ミラがすぐにアイリスのセンサーバンドを外し、柔らかい布を肩にかけた。


「アイリスさん、ゆっくり呼吸してください」


「…うん」


アイリスは頷く。

けれど、目はまだ少し遠くを見ていた。


「…カイン」


「何だ」


「…あれ、私を探してるの?」


カインは、すぐには答えなかった。

嘘をつくには、近すぎる問いだった。


「その可能性がある」


「私が、呼んだ?」


「違う」


カインは即座に否定した。


「お前が呼んだんじゃない」


「でも」


「お前は感じとっただけだ」


アイリスの目が揺れる。アイリスは唇を結んだ。

ミラがそっと肩に布をかける。


「アイリスさん。今分かったのは、あなたが相手の反応を拾ったということです。あなたが相手を呼んだ証拠はありません」


『同意する。副艦長側からの能動発信は検出されていない』


カインはアドミラルへ視線を上げた。


「自由港内の監視ログを洗え。ドック群、クロンワークス、ホバーバイクの移動経路、人も、アンドロイドも、全部だ」


『了解』


カインは医療区画の壁面に残った細い波形を見た。針のような反応。スティレットに近いもの。

そして、胸に光る機械を抱えた試作体。


「長居は無理だな」


『同一結論』


カインの右目が、薄く赤く灯る。

同じ頃、自由港の別の場所では、歓声が上がっていた。


オールベッド。


賭け台の上で小さな球が止まり、誰かが勝ち、誰かが呻き、誰かが笑う。金が動けば、情報も動く。情報が動けば、人も動く。


ティルザ・レーヴェンは、負けた顔で席を立った。実際には負けていない。


負けたように見える額だけを置いて、勝った分は別の経路へ逃がしてある。


「今日は荒れますね」


隣にいた男が言った。

顔見知りではない。

少なくとも、表向きは。


「昨日も荒れていましたよ」


ティルザは笑う。


「ネスト帰りの人達が、みんな金の使い方を忘れているみたいです」


「忘れているのは金だけならいいんですがね」


男は賭け札を弄びながら、声を落とした。


「七人、呼ばれました」


ティルザの表情は変わらない。


「何の話です?」


「以前、沈めたはずの線です」


賭け台の周囲で、また歓声が上がる。

その音に紛れて、男は続けた。


「全員戻っています。死体はなし。ただ、一人の服が裂けていた」


「喧嘩?」


「壁に縫われたらしい」


ティルザの指が、賭け札の上で止まる。


「詳細は?」


「そこまでは」


「…他には」


「女が一人。男が一人。若い男が一人。作業アンドロイドが一体」


ティルザは笑ったまま、次の台へ視線を移した。


「ここでは珍しくない組み合わせですね」


「はい」


「珍しくないのに、わざわざ私へ?」


「…クロンワークスの名前が出ました」


今度は、ティルザの笑みが少しだけ薄くなった。

男は続ける。


「ホバーバイク。男と少女。女性型アンドロイド。大型船の噂。そこまで拾われています」


「船名は」


「まだ」


「ドックは」


「まだ」


「なら、まだ仕事の範囲です」


「どうしますか」


ティルザは賭け場の奥を見る。

そこでは、誰かが大きく勝ち、周囲から拍手を浴びていた。

あの時の自分と同じように。

ラーベに賭けた日。

動きだけで先輩を見抜き、勝つと分かっていた試合に金を乗せた。その金で、何人かの目を閉じさせた。だが、閉じた目を、誰かが力ずくで開け始めている。


「追わないでください」


ティルザは言った。

男がわずかに眉を上げる。


「よろしいので?」


「尾行は駄目です。接触も駄目。相手に、こちらの線を見せない」


「では」


「誰と会ったか。何を買ったか。どの区画へ入ったか。それだけを見てください」


「了解」


「それから」


ティルザは、負けた客の顔で、何気なく賭け札を一枚弾いた。


「副官へ、細線で」


「文面は」


「消した線が、繋ぎ直されています」


男は小さく頷いた。


「緊急度は」


「高めで」


「あなたは」


ティルザは、少しだけ笑った。


「私は休暇中ですので」


男はそれ以上、何も聞かなかった。

自由港の喧騒の中で、ティルザは一人、出口へ向かう。背後でまた金が動く。勝者が笑い、敗者が叫ぶ。その音の中で、彼女の携行端末が一度だけ震えた。


ライナからの返信は短い。


《受信》


《現状確認中》


《任務変更の可能性あり》


ティルザは足を止めなかった。

だが、眉だけがわずかに動く。


「……休暇、終わりですかね」


小さく呟いた言葉は、誰にも拾われない。

数分後、彼女はオールベッドの裏手にある整備用通路へ入った。表の喧騒は一枚隔壁を挟むだけで鈍くなる。賭け台の歓声も、金属壁を通すとただの低い振動に変わる。

ティルザは人通りのない場所で、端末を開いた。

今度は文字だけではない。

ライナの秘匿回線。

短い認証の後、画面に副官の名が浮かぶ。


《状況を報告》


ティルザは壁に背を預けた。


「自由港内のヴォルフ側の情報線が再構築されつつあります。以前こちらで沈めた七人が、まとめて呼び戻されました」


《先ほど確認しました》


「早いですね」


《早くなければ、副官は務まりません》


「嫌味を言う余裕はあるようで安心しました」


《余裕ではありません。習慣です》


ティルザは小さく笑う。

だが、すぐに表情を戻した。


「四人組です。女性一人、男性二人、作業型アンドロイド。若い男は、通常の兵ではない可能性があります」


《根拠は》


「服を壁に縫われた情報屋がいます。弾痕ではありません。刃物とも違う。細い何かです」


《スティレット》


ライナの返答は、ほとんど間を置かなかった。

ティルザの目がわずかに鋭くなる。


「把握済みですか」


《可能性として》


「なら、先輩達に伝えるべきです」


《伝えます》


「私が動きます」


《いいえ》


即答だった。

ティルザは沈黙する。


「ライナ副官?」


《あなたの任務を変更します》


「…今ですか」


《今です》


「自由港の線は」


《別班が引き継ぎます》


ティルザは、壁から背を離した。


「先輩達を置いてですか」


《彼らを置くのではありません》


ライナの文字が、淡々と表示される。


《彼らが向かう場所を、先に開けます》


ティルザの表情が変わる。


「……向かう場所?」


《アトリー元帥の保険です》


「嫌な予感しかしませんね」


次の瞬間、端末に座標データの一部が送られてきた。完全な位置情報ではない。

分割暗号化された航路断片。

古い管理番号。

廃棄済み施設の登録痕。

ティルザはそれを見て、目を細めた。


「これは……移動基地ですか?」


《記録上は》


「記録上は?」


《現物確認が必要です》


「副官」


《何でしょう》


「私は休暇中だったはずですが」


《継続中です》


「休暇で旧時代の秘匿基地へ?」


《宿泊先の変更です》


ティルザは天を仰いだ。


「…アトリー閣下の言い回しですね」


《否定しません》


少しだけ間が空いた。

そして、ライナの次の文面が届く。


《英雄ティルザ・レーヴェン。あなたは先行してください》


《自由港支援任務を、移動基地再稼働準備任務へ変更します》


《詳細は追って送ります》


ティルザは端末を閉じなかった。

数秒だけ、その文字を見つめる。

それから、短く息を吐いた。


「……了解しました」


表のオールベッドでは、まだ歓声が上がっている。誰かが勝ち、誰かが負け、誰かが金を動かしている。自由港は今日も騒がしい。

だが、その喧騒の裏で、ティルザの休暇は少しずつ別の形へ変わり始めていた。

作者のモチベになりますので、

★評価よろしくお願いします。

_| ̄|○何卒。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。