49話:追走
連合軍特務戦艦スコル
その艦橋は、通常の戦闘艦よりも静かだった。
無駄な会話はなく、警告音すら必要最低限に抑えられている。壁面に浮かぶ星図には、木星圏、外縁航路、旧航路帯、そしていくつもの非公開識別点が重ねられていた。
その一角。旧外縁航路K-9。
通称、ノクターン・デブリ帯。
通常の航路図では、危険宙域として薄く塗られているだけの場所だった。デブリ密度が高く、通信反射が乱れ、船舶事故と行方不明が多い暗い帯。
だが、スコルの作戦表示には、その奥にもう一つの層があった。
秘匿中継施設。無人艦試験管制域。
混成炉制御研究区画。外縁研究防衛管区、特別封鎖対象。そこは、ヴォルフ元帥の宇宙艦隊総軍が抱える、表に出ない研究網の一部だった。
「ノクターン外縁監視群、第三哨戒単位より定時応答なし」
参謀士官が淡々と告げた。
「最終通信は、標準ビーコン確認任務を装った小型船一隻の接近を捉えた直後です」
艦橋中央の椅子に座るヴォルフ元帥は、すぐには答えなかった。
彼の前に、映像断片が開く。デブリの影。
揺らぐエーテル反応。小型船の輪郭。
そして、次の瞬間には画面が大きく乱れた。
映像はそこで切れている。
「小型船の所属は」
「不明です」
「民間作業船を装っていた可能性があります。出力は低く、熱源も民間貨物艇級に偽装されていました」
「自由港由来か」
「可能性は高いかと」
ヴォルフは星図を見たまま、静かに言った。
「第三哨戒単位は」
「無人艇三、有人艇二。いずれも応答なし」
その言葉で、艦橋の空気がわずかに硬くなった。
ただの事故ではない。ノクターン・デブリ帯の外縁では、通信が乱れることも、機体が漂流物と衝突することもある。だが、有人艇を含む哨戒単位が丸ごと沈黙するのは別だ。
「施設側の反応は」
「大規模エーテル反応を一度だけ検出しています」
別の士官が報告する。
「ただし、施設中枢からの緊急信号ではありません。外縁防衛線の一部が短時間だけ高出力稼働し、その直後に通信途絶」
「施設本体の秘匿状態は維持されています」
「今のところ、深部への侵入反応は確認されていません」
ヴォルフは、そこでようやくわずかに目を細めた。
「外縁を撫でられたか」
低い声だった。
ノクターン・デブリ帯の奥にある施設は、クレイドルのように表の研究施設としてすら登録されていない。宇宙艦隊総軍の外縁研究防衛管区、その中でもさらに一部の者だけが知る秘匿拠点。
外宇宙適応技術、無人艦制御、混成炉、そして人類の夜明け計画に必要な兵装接続系の一部を扱う場所だった。クレイドルは、地球本部や元帥会議に提出する名目が必要だった。
だから、試作エーテル炉研究施設という皮を被せた。だがノクターンは違う。
最初から、地図に載せるつもりのない場所だった。
「接近した小型船の映像を再構成しろ」
「不鮮明です」
「構わん」
映像が再度、艦橋中央に拡大される。
粗い外装。溶接跡。塗装の剥げ。
民間貨物船風の熱源。完全な遮蔽ではないが、探査距離を削る簡易ステルス。
見る者が見れば、それがただの作業艇ではないと分かる。
「偽装船か」
ヴォルフは言った。
「自由港の船なら不思議ではありません」
参謀士官が答える。
「ただし、第三哨戒単位が沈黙するほどの戦力とは考えにくい」
「増援反応は」
「一瞬だけ、別反応がありました」
士官は言葉を選ぶように続けた。
「高機動戦闘翼機に近い加速痕です」
艦橋がさらに静かになった。
ヴォルフの視線だけが、わずかに動く。
「型は」
「断定不能です」
「ですが旧式、連合軍規格の高機動翼機に似ています」
別の表示が開く。ノイズだらけの機動痕。
急加速。急制動。
デブリ帯の中での異常な旋回。
その軌跡は、現行制式機よりも古く、癖が強い。
「カラスか」
誰かが小さく言った。
ヴォルフはその名を聞いても、表情を変えなかった。
旧式高機動戦闘翼機。
アトリー元帥側の英雄、カイン・ウォーカーがかつて使用していた機体。そして、クレイドル崩壊時に喪失したとされる機体。
「カラスはクレイドルに残されたはずだ」
ヴォルフは静かに言った。
「脱出時、機体反応は確認されていない」
「はい」
参謀士官が答える。
「クレイドル放棄プログラム作動後、地表側ハンガーは封鎖。続いて試作エーテル炉事故を偽装するため、炉心暴走処理が実行されました」
「公式記録上は、クレイドルは試作エーテル炉事故により崩壊」
「カイン・ウォーカーも、その事故に巻き込まれた可能性が高いと処理されています」
「可能性が高い、か」
ヴォルフはその言葉を、どこか冷たく反復した。
クレイドルの放棄は、事故ではない。
必要な研究者、必要なデータ、必要な資材はすでに退避させた。
失敗作、証拠、不要な記録、そして取り込めなかった英雄を、まとめて埋めるための処理だった。
試作エーテル炉の事故。
それは、崩壊後に外へ出すための名前に過ぎない。ヴォルフは、カインが少女を抱えて逃げていた姿を見ている。あの男は、計画の中枢を見た。
人類の夜明け計画という名の下で行われていた、人体改変、適合率実験、生体部品化、強化兵運用。そして、その被験体の少女を連れて逃げた。
生きていれば、危険だ。
ただの反逆者ではない。ただの脱走兵でもない。
アトリー側の英雄であり、クレイドルの真実を見た証人だ。
「カラスで逃げたなら」
ヴォルフは静かに言った。
「脱出時に機体反応が残るはずだ」
「ありません」
士官が答える。
「少なくとも、こちらが回収した崩壊前後のログには」
「脱出艇は」
「主要退避艇はヴォルフ閣下側の指定人員で使用済み」
「未指定職員および残存被験体の退避は、放棄プログラム上、優先対象外でした」
「カイン・ウォーカーが脱出艇で出た記録もありません」
「では、どうやって出た」
問いは、艦橋の誰にも向けられていないようで、全員へ向いていた。
沈黙。
その沈黙の中で、参謀の一人がためらいながら口を開いた。
「可能性としては……」
「言え」
「創世級試作艦、エーテルガイスト」
その名が出た瞬間、空気が少しだけ変わった。
「クレイドル地下で建造凍結状態にあった未完成艦です」
「ですが、あれは予算を削られ、建造も半ば停止していました」
「主機は未調整。外装も未完成。兵装も大半が未接続」
「とても発艦可能な状態ではなかったはずです」
ヴォルフは何も言わなかった。
その通りだ。エーテルガイストは、もはや優先順位の低い器だった。人類の夜明け計画に必要なのは、艦ではなく、中身。
新人類。適応個体。兵装接続系。意識移植。統制可能な未来。
未完成の戦艦など、後でどうにでもなる。
だからこそ、予算を削り、建造を凍結し、必要な技術だけを別へ回した。
だが。
クレイドル崩壊で、すべての内部記録が完全に残ったわけではない。
施設放棄プログラム。炉心事故偽装。データ焼却。地盤崩落。混乱の中で、何が起きたか分からない空白がある。
「アドミラル」
ヴォルフは低く呟いた。
創世級試作艦に搭載されていた艦載知性。
無慈悲なる殲滅と兵站のための自律的意思決定知能。設計上は、戦闘判断と兵站管理を担う軍用AI。だが、クレイドルの主任技術者が最後に何をしたのか、ヴォルフは完全には知らない。
事故死扱いにした。処理した。記録も削った。
それでも、すべてを消せたとは限らない。
「仮に、エーテルガイストが飛んだとして」
ヴォルフが言う。
「今どこにいる」
誰も即答できなかった。
「未登録艦です」
参謀士官が答える。
「正式な艦籍も、艦番号も、識別登録もありません」
「もし発艦していたとしても、通常の軍港には入れません」
「大型で、軍艦に近い艦影です。隠すには不向きです」
ヴォルフが静かに続きを引き取る。
「だから自由港か」
沈黙。
その推測は、あまりに嫌な形で噛み合っていた。
自由港。軍の網から外れ、船も人間も記録も埋もれる場所。壊れた船を直し、偽装し、別名で流す場所。未登録の大型艦が潜るなら、正規港ではなく、ああいう場所しかない。
「ノクターン外縁で確認された小型船」
「自由港由来の偽装船の可能性」
「高機動戦闘翼機に近い反応」
「第三哨戒単位の沈黙」
ヴォルフは淡々と並べた。
「カイン・ウォーカーが生きている可能性は、どの程度だ」
参謀はすぐには答えなかった。
数字にできる材料は少ない。
だが、ゼロではない。
「……排除できません」
ようやく、そう答えた。
ヴォルフはゆっくりと椅子の肘掛けに指を置いた。
「排除できない、では足りない」
声は低く、平坦だった。
「あの男が生きている場合、何を知っている」
艦橋に、答えは必要なかった。
クレイドル。人類の夜明け計画。
被験体の少女。適合率。生体部品。強化兵。
放棄プログラム。試作エーテル炉事故の偽装。
それらすべてが、カインの口からアトリー側へ届けばどうなるか。
地球本部。中央統合司令部。アトリー元帥。
監察。軍法。元帥会議。
証拠が足りなければ、ただの疑惑で済む。
だがカインは英雄だ。ただの兵士ではない。
しかも、アトリーの懐刀だった男。
生きて証言すれば、疑惑は政治問題へ変わる。
政治問題は、元帥会議を割る。
元帥会議が割れれば、人類の夜明け計画は予定より早く表面化する。それは、まだ早い。
「第三哨戒単位の沈黙は、事故として処理しろ」
ヴォルフは言った。
「ノクターン・デブリ帯外縁におけるデブリ衝突、通信途絶、機体喪失」
「有人艇については」
「任務秘匿規定により、詳細非公開」
参謀士官が即座に記録する。
「了解しました」
「施設側には」
「防衛線を再構成」
ヴォルフは続けた。
「外縁を撫でられただけなら、深部はまだ知られていない」
「だが、次は来る」
その言葉に、艦橋の士官たちが一斉に息を詰めた。
「来ますか」
「来る」
ヴォルフは断言した。
「あの男なら、線を見つけた時点で追う」
静かな確信だった。
カイン・ウォーカーという兵士を、ヴォルフは評価している。だからこそ、危険だと分かる。
あの男は、見なかったことにできない。
少女を抱えて逃げた時点で、もう選んでいる。
「自由港方面の監視を強めろ」
「ただし、表立って軍を動かすな」
「アトリー側に気取られる」
「民間委託、外縁保安名目、サルベージ監視、どれでもいい」
「カイン・ウォーカーの名は出すな」
「了解」
「それと」
ヴォルフは星図のノクターン・デブリ帯を見た。
「カインが被験体の少女を連れている可能性がある」
その場の空気が、さらに沈んだ。
「クレイドルからカインが連れ出した被験体、識別名アイリス」
「セラフィック系統の試作器官を有する個体」
「生存しているなら、回収価値は高い」
参謀士官が問う。
「回収命令ですか」
「状況次第だ」
ヴォルフは答えた。
「回収できるなら回収」
「不可能なら処分」
「カイン・ウォーカーは」
短い沈黙。
「処分を優先する」
明確な命令だった。
「生存を確認した時点で、計画露見の危険度を最大に引き上げる」
「アトリーに渡る前に消せ」
艦橋中央の星図で、ノクターン・デブリ帯が静かに赤く縁取られた。暗い帯。
船が消え、残骸だけが戻る場所。
その奥に、ヴォルフ元帥の施設が眠っている。
そして今、その闇の端に、亡霊の影が触れた。
「まだ早い」
ヴォルフは低く言った。
「夜明けは、まだ表に出す段階ではない」
誰も返事をしなかった。返事は必要なかった。
命令はすでに下っている。
ノクターン・デブリ帯の沈黙は、事故として処理される。自由港には、別の目が差し向けられる。
そして、カイン・ウォーカーが本当に生きているなら。次は、確実に殺しに来る。




