第46話:飛翔
旧外縁航路K-9の手前は、自由港近傍の雑多な宙域とは空気が違っていた。宇宙に空気はない。
だが、船乗りはそう言う。交通の流れが薄くなる。人工ビーコンの数が減る。航路灯の間隔が広がる。通信帯域のざわめきが遠くなる。
それだけで、そこが“人のいる場所”から少し外れたのだと分かる。
小型艇ノクスは、低出力航行で旧外縁航路K-9の縁を進んでいた。
船体表面の粗い偽装外装は、自由港へ入る時のまま残されている。溶接跡の目立つ装甲パネル。剥げた塗装。民間貨物艇に見える程度の熱源偽装。完全遮蔽ではないが探査距離を大きく削る簡易ステルスフィールド。
そこへ、クロンワークスで仮装着された左右二基のアンカーランチャーが加わっていた。
右舷に一基。左舷に一基。
武器ではない。
係留、制動、姿勢固定、緊急離脱用の命綱だった。
操船席に座るミラは、端末を淡々と操作していた。
「目標ビーコン信号、捕捉」
「距離、三千八百」
「識別情報、依頼データと一致」
後部観測席のアイリスは、正面モニターを見つめていた。画面の奥には、暗い帯がある。
ノクターン・デブリ帯。
星明かりを鈍く遮る、細かな残骸の流れ。
古い船体片、破砕コンテナ、機関部の残骸らしき影。それらが、ゆっくりと、だが確かに一方向へ流れている。
「……あれが、ノクターン・デブリ帯」
「はい」
ミラは答えた。
「今回は外縁を観測するだけです」
「深部には入りません」
「うん。分かってる」
アイリスは小さく頷いた。
カインとの約束。
深入りしない。
ビーコン確認範囲を越えない。
異常があれば即撤退。
ミラが撤退判断を出したら従う。
何度も言われた。だから、忘れていない。
けれど、胸の奥には嫌な感覚があった。
三箱を見た時と同じ。いや、あの時よりも少し遠く、けれど広い。何かがある。そう感じる。
「アイリスさん」
「うん?」
「不快感、または身体反応に変化があればすぐに報告してください」
「うん。今のところ、少し嫌な感じがするくらい」
「記録します」
ミラは短く返し、ノクスをビーコンへ寄せた。
漂流ビーコンは、古い筒状のユニットだった。
片側のアンテナは折れ、外装には小さな衝突痕がいくつもある。だが、まだ生きていた。
弱々しい信号を、一定間隔で吐き続けている。
「船外作業ドローン一号、展開」
ノクスの側面ハッチが開く。
トイ・ボックスで購入した小型作業ドローンが、折り畳まれていたアームを展開しながら宇宙へ出た。磁着パッド。簡易トーチ接続口。細い作業肢。工業機としては小さいが、小型艇の外部作業には十分な機体だった。
ドローンは微小スラスターで姿勢を整え、ビーコンへ接近する。
《船外作業ドローン一号:ビーコン接触》
《外装確認》
《識別タグ読取開始》
ミラが言う。
「識別タグ、依頼情報と一致」
「ビーコン生存確認」
「座標再送信を実行します」
ノクスから短い通信が飛ぶ。
自由港側の依頼回線へ、漂流ビーコンの生存確認と現在座標が送られた。
《依頼処理:完了》
表向きの仕事は、それだけで終わった。
アイリスは少しだけ息を吐く。
「……本当に、普通の仕事みたい」
「はい」
ミラは即答した。
「表向きは普通の仕事です」
「では、船外作業ドローンを回収し、十秒だけ周辺観測を行います」
「十秒?」
「はい」
「約束の範囲内です」
ノクスのセンサーが、ノクターン・デブリ帯の外縁へ向けられる。
暗い残骸の流れ。古い航路標識の断片。識別不能の金属片。何かの船体装甲らしき大きな板。
その奥で、ほんの一瞬、鈍い光が揺れた。
アイリスの胸が、きゅっと締めつけられる。
「……ミラ」
「はい」
「今、何か――」
言い終える前に、警告音が鳴った。
《警告》
《受動探査反応》
《方位三一二、微弱熱源》
《方位〇四七、金属反射》
《方位一八九、エーテル反応》
ミラの黄金の瞳が細くなる。
「観測中止」
「船外作業ドローン、即時回収」
「帰投行動へ移行します」
ドローンがビーコンから離れる。
ノクスの側面ハッチへ戻ろうとした瞬間、通信帯がざらついた。
ザザッ。
砂を噛むようなノイズ。
その奥から、古い合成音声が滲む。
『――識別不能船、確認』
『――照合中』
『――該当登録なし』
『――侵入対象、排除手順へ移行』
アイリスの顔が強張る。
「無人……?」
デブリ帯の影から、三つの船影が現れた。
小型の無人艇。
古い警備戦闘艇か、哨戒艇を改造したような輪郭。船体の形状そのものは旧式だ。だが、推進反応と制御波形に、不自然な歪みがある。
三箱の混成補機コアを見た時に似た感覚が、アイリスの胸を撫でた。
「……嫌な感じ」
「敵性反応と判断」
ミラは即座に通信を開く。
「ノクスよりエーテルガイスト」
「敵性反応確認」
「正体不明無人艇、三」
「帰投行動へ移行します」
だが、通信は途中で歪んだ。
《通信妨害》
《帯域圧迫》
《送信成功率、低下》
ミラは表情を変えない。
「通信妨害を確認」
「短文圧縮送信へ切り替え」
「アイリスさん、身体を固定してください」
「うん!」
ノクスが急旋回する。
右前方の無人艇が一気に加速した。
先端部の砲口が開く。青白い光線が走った。
ノクスは横滑りで避ける。
光が船体後方をかすめ、簡易ステルスフィールドが激しく揺らいだ。
《被探査率上昇》
《熱源偽装維持困難》
《回避機動中》
「スタン防御砲、起動」
ノクスの下部に格納されていた短砲身の防御砲が開く。接近してきた小型無人機へ向け、青白い電撃が散った。
小型無人機が二機、姿勢を崩して流れていく。
だが、無人艇そのものは止まらない。
ミラは小型エーテル機銃を起こした。
自由港へ入る時、トラブル対処用として最低限だけ載せた武装。火力は大きくない。けれど、進路を乱すには使える。
短い連射。
細いエーテル弾が無人艇の前面を叩く。
相手の装甲を抜くほどではない。だが、センサー外装を削り、突進角度を歪めた。
その隙に、ミラはノクスをデブリの影へ滑り込ませる。
だが、そこに別の声が割り込んだ。
『対象小型船、確認』
『所属識別なし』
『回収対象の可能性あり』
『逃がすな』
人間の声だった。
アイリスが息を呑む。
「有人……?」
モニターに、二つの熱源が浮かぶ。
小型有人艇、二。識別信号なし。熱源偽装あり。
民間艇ではない。低反射外装。短距離迎撃砲。
追跡用補助推進。船体形状は、どう見ても“逃げる船”ではない。狩るための艇だった。
「軍の船?」
「断定不能です」
ミラは言う。
「ですが、自由港の一般船ではありません」
「そして、こちらを逃がすつもりはないようです」
左側の有人艇が射線を取る。
ミラは即座に左舷アンカーを射出した。
《左舷アンカー:射出》
ワイヤーが伸び、近くの大型デブリへアンカーが突き刺さる。巻き取りユニットが唸った。
ノクスの船体が強引に横へ引かれる。
直後、有人艇の射撃が、ノクスのいた空間を貫いた。
「っ……!」
アイリスの身体がシートへ押しつけられる。
「耐えてください」
ミラは左舷アンカーを切らず、巻き取りを細かく制御する。ノクスはデブリを支点に、ありえない角度で姿勢を変えた。
《船体負荷:上昇》
《アンカー基部:許容範囲内》
《右舷アンカー:待機》
ミラは一拍も置かず、右舷側の推力を叩き込む。
ノクスが跳ねるように加速する。
しかし、無人艇三隻の包囲は崩れない。
むしろ有人艇二隻が後方へ回り込み、逃走ルートを絞り始めていた。
その時、前方の暗いデブリ帯の奥で、大きな反応が揺れた。
《大型熱源》
《エーテル反応》
《識別不能》
アイリスは胸元を押さえた。
「……だめ……」
「…ミラ、あれはだめ」
「近づいちゃだめ」
「了解しました」
ミラは即座に進路を変える。
「目的を完全撤退へ変更」
「ビーコン任務、完了済み」
「外縁観測、打ち切り」
だが、背後の有人艇から通信が入る。
『対象小型船へ』
『逃走を停止しろ』
『積荷、搭乗者、通信記録を提出せよ』
『拒否した場合、撃沈する』
ミラは応答しない。
代わりに、右舷アンカーを撃った。
《右舷アンカー:射出》
別のデブリにアンカーが突き刺さる。
左舷アンカーを緊急切断。右舷側の巻き取りを利用し、ノクスは鋭角に旋回した。
有人艇の射撃が、ノクスの左後方を掠める。
衝撃。
《被弾》
《左後部外装損傷》
《推進補助系:出力低下》
ノクスの船体が震えた。
アイリスの肩が跳ねる。
「ミラ!」
「致命傷ではありません」
ミラは冷静に答える。
「ただし、長期戦は不利」
「帰ります」
その声に、アイリスは頷いた。
「うん」
「帰ろう」
「はい」
ミラはノクスの残存推力を逃走方向へ集中した。
だが、包囲は狭い。正体不明無人艇三。
識別信号なしの有人艇二。さらにデブリ帯奥の大型反応。ノクス単独では、突破しきれない。
エーテルガイスト艦橋。
通信は断続的だった。
『ノクス、被弾』
『推進補助系低下』
『敵性勢力、正体不明無人艇三、有人艇二』
『撤退中』
カインは艦長席の前で立っていた。
拳を握っている。
「アドミラル」
『聞いている』
「救援手段を出せ」
短い沈黙。艦橋の空気が、妙に硬くなる。
『…救援手段を使用する』
次の瞬間、カインの右目――ブラッドハウンドの視界端に、見慣れない表示が立ち上がった。
《秘匿格納データ照合》
《戦闘翼機:待機状態》
《外部AI接続要求》
カインの表情が止まる。
「……何だ」
さらに文字列が流れた。
[Karasu_AI] 接続しました。
[Karasu_AI] 操縦者音声照合。
[Karasu_AI] お帰りなさい。
カインは一瞬、言葉を失った。
「……カラス?」
『整備は済んでいる』
アドミラルの声が落ちる。
いつも通り静かで、だからこそ異常だった。
「お前……」
『叱責は後で受ける』
アドミラルは続けた。
『現在、ノクスが危機状態にある』
カインの目に、怒りと驚きと、それ以上の何かが走る。
「どこだ」
『秘匿格納庫』
『発進導線を開放する』
「……後で全部話せ」
『了解』
カインはもう走っていた。
艦橋を出る。通路を駆ける。
案内灯が赤く切り替わり、普段は閉鎖されていた補助導線が開いていく。
重いロックが、艦内の奥で一つずつ外れる。
そこは、カインも知らない格納区画だった。
エーテルガイストの内部。主格納庫からさらに奥。資材搬入図にも、艦内案内にも出ていなかった秘匿スペース。隔壁が開く。
冷えた空気が流れた。薄暗い格納庫の中央に、黒い翼があった。旧式高機動戦闘翼機。
カインがクレイドルに残したはずの機体。
カリストで失われたと思っていた、自分の翼。
だが目の前のカラスは、残骸ではなかった。
傷はある。古い機体の匂いもある。
けれど、外装は磨かれ、機体は整備され、翼下の高出力エーテルキャノンも、機体底部の大型有線クロー《レイヴン・ハング》も、起きる直前の静けさを纏っている。新品同様、という言葉が浮かぶほどだった。完全な新造ではない。
だが、死んだ機体を繕っただけでもない。
翼が、愛機がもう一度飛ぶための姿でそこにいた。ブラッドハウンドの端で、もう一度ログが光る。
[Karasu_AI] 待機状態を解除します。
[Karasu_AI] パイロット確認。
[Karasu_AI] また貴方の声が聞けて良かった。
カインは、ほんの一瞬だけ立ち尽くした。
それから、低く言った。
「……待たせたな、カラス」
黒い翼の灯が、静かに点った。




