第45話:出発
翌朝。自由港の朝は、やはり音で始まった。
荷役アームの駆動音。工房街から響く金属音。ドライドック六番の外壁を伝ってくる低い振動。そして、エーテルガイスト艦内で続く補修ドローンの足音。食堂区画の照明は朝用に調整されていた。卓の上には、温かい朝食が並んでいる。
アイリスはいつもより少しだけ口数が少なかった。眠れていないわけではない。けれど、今日自分がノクスで外へ出ることを、ずっと意識しているのが分かった。カインはそれを見ながら、コーヒーを一口飲む。
「最終確認は」
『クロンワークスで実施する』
アドミラルの声が天井から落ちた。
『ノクスの左右アンカーランチャー、船外作業ドローン二機、外装補強、既存武装系の再調整を確認する』
「既存武装も見るのか」
『当然だ』
ミラが静かに頷いた。
「ノクスは小型船です。正面戦闘用ではありません」
「ですが、最低限の自衛能力は維持します」
アイリスが顔を上げる。
「……戦うためじゃなくて、帰るため?」
「そうだ」
カインが答えた。
「撃ち勝つ船じゃない」
「逃げ切る船だ」
その言い方で、アイリスの表情が少しだけ引き締まった。
「うん」
「分かってる」
朝食を終えると、三人はエーテルガイストを出た。ドライドック六番からクロンワークスへ向かう通路は、朝からすでに騒がしい。搬送ドローンがB-17から抜いた部材を運び、工房街の作業員たちが短く声を交わしながら動いている。
クロンワークスの係留ドックでは、ノクスが作業灯の下に据えられていた。
昨日までのノクスとは、少し違って見えた。
元々、ノクスは自由港へ潜り込むために急造された小型船だった。船体表面には、粗い装甲パネルが貼られている。溶接跡はあえて残され、塗装もわざと剥げたように処理されていた。遠目には、古い小型貨物船を無理やり延命したように見える。以前、アイリスはそれを見て、少し困った顔で言ったことがある。
「……ボロボロにするの?」
その時、カインは短く返した。
「本当にボロ船に見えるほど安全だ」
その方針は、今も変わっていない。
ノクスの外装は、綺麗な装甲ではない。むしろ、何度も補修され、何度も誤魔化され、何度も使い回されたような顔をしている。
だが、今朝のノクスには、その“ボロさ”の内側に、もう少し硬い芯が通っていた。
右舷と左舷に、多用途アンカーランチャーが一基ずつ取り付けられている。TOYBOXで買ったキットを、クロンワークスがB-17由来の補助フレームで補強し、ノクスの船体へ半ば埋め込む形で固定したものだ。射出筒は外装に沿うように低く据えられ、巻き取りユニットは内側へ逃がされている。外から見れば、ただの作業用係留装備に見える。だが、実際には制動、固定、緊急旋回、曳航補助に使える命綱だった。
クロンは船体脇で工具義肢を鳴らした。
「見た目は作業船寄りにしてある」
「アンカーは、掴んで止まる。引いて逃げる。姿勢を立て直す」
「そういう使い方をしろ」
ミラが端末を開く。
「ノクス側の姿勢制御にも、アンカー負荷予測を追加済みです」
「片側射出時の姿勢補正」
「巻き取り中の推力補助」
「緊急切断時の反動抑制」
「いずれも簡易試験では正常です」
『同時最大負荷射出は禁止制御にしている』
アドミラルが続ける。
『左右同時射出は、低負荷時のみ限定許可』
『緊急時は自動切断を優先する』
「よし」
カインは短く頷いた。
その横では、二機の小型船外作業ドローンがケースの中で待機していた。TOYBOXで購入した二機セット。折り畳まれたアーム、磁着パッド、簡易トーチ接続口、小型作業肢。
ラッチやヒンジほど愛玩機寄りの外見ではない。こちらはもっと実務的な顔をしている。だが、同じ店の空気は少しだけあった。小さく、丸みがあり、それでいて無駄がない。
アイリスがケースを覗き込む。
「……これも連れていくんだよね」
「はい」
ミラが答えた。
「船外点検、アンカー固定確認、ビーコン接近時の外部観測、軽作業に使用します」
「危険域へ人が出る前に、この二機を出します」
「私が外へ出ることは?」
「原則ありません」
ミラはすぐに答えた。
「ノクスの外へ出る判断は、撤退より優先されません」
アイリスは少しだけ安心したように頷く。
「うん」
クロンは今度はノクスの船体下面を示した。
「それと、元からある密輸区画も確認しといた」
アイリスがわずかに目を瞬かせる。
「密輸区画……」
床下に追加された空洞。自由港へ入る前、ノクスを“それらしく”見せるために作った隠し区画だ。
『物資、武器、回収物の隠匿用区画』
アドミラルが平然と言う。
アイリスは以前と同じように、少し呆れた顔になった。
「……ほんとに密輸船だね……」
「使うの?」
「可能性はある」
カインは答えた。
「ビーコン確認だけなら使わん」
「だが、何か物を拾うなら、そこへ入れる」
ミラが補足する。
「今回は危険物回収を目的にしていません」
「ただし、記録媒体、小型部品、ビーコンコアなど、軽量回収物が出た場合に備えます」
次に、クロンは船尾側のユニットを叩いた。
「熱源偽装装置も再調整済みだ」
『民間貨物船相当の出力に偽装する』
アドミラルが言う。
『軍用小型艇としての熱源輪郭を消し、古い貨物船の不安定な出力波形へ寄せる』
「……わざと調子悪そうに見せるってこと?」
アイリスが聞く。
『そうだ』
『整備不良気味の民間船として認識される方が、ノクスには都合が良い』
クロンが鼻を鳴らす。
「実際には整備不良じゃねえからな」
「そこは間違えるなよ」
「分かってる」
カインが返す。
さらにノクスには、簡易型ステルスフィールドが載っている。
完全遮蔽ではない。大型艦や軍用ステルスのように姿を消すものではない。だが、探査距離を大きく減らし、古いセンサーや遠距離走査から輪郭をぼかすには十分だった。
『簡易ステルスフィールドは、アンカーランチャー追加後の船体輪郭に合わせて再調整済み』
アドミラルが報告する。
『ただし、アンカー射出中、巻き取り中、または高出力機動中は探査反射が増加する』
武装は、元々最小限だった。
小型エーテル機銃。スタン防御砲。
自由港へ入る為、トラブル対処用として積んだものだ。正面戦闘を想定した火力ではない。接近してきたドローンや小型艇を牽制し、距離を作るための装備だった。
だが今回は、そこにも少し手が入っていた。
小型エーテル機銃は、射角がわずかに広げられている。前方固定寄りだったものを、左右斜めまで追えるように調整したらしい。弾倉部も簡易整備され、連射時の熱逃がしにB-17由来の小型放熱板が追加されていた。
スタン防御砲は、出力を二段階に分けてある。
低出力は警告と妨害。高出力は接近ドローンや小型無人機の制圧。ミラが端末に表示を出す。
「小型エーテル機銃は、主に進路妨害と軽装ドローン対処」
「スタン防御砲は、接近された場合の非破壊制圧」
「どちらも、長時間交戦には向きません」
「向かなくていい」
カインは言った。
「撃ち合うな」
「撃って距離を取れ」
ミラは静かに頷いた。
「了解しています」
その時、アイリスがノクスの船体側面に視線を止めた。
「……あれ?」
そこには、新しいマークが入っていた。
大きくはない。むしろ目立たない位置だ。船体側面の補修パネルの一角に、工具と歯車を組み合わせた簡素な印。クロンワークスのエンブレムだった。
「これ……クロンワークスの?」
「おう」
クロンが当然のように言う。
「工房で手を入れた船だって印だ」
「付けていいのか」
カインが聞くと、クロンは肩をすくめた。
「付ける意味があるから付けた」
「自由港の外で見られても、“ああ、自由港の工房船か”で済む」
「中途半端な密輸船より、どこかの工房が直した作業船の顔をしてた方が自然だ」
『同意する』
アドミラルが言う。
『整備履歴の偽装としても有効』
アイリスはエンブレムを見つめて、少しだけ笑った。
「……なんか、仲間の印みたい」
クロンはぶっきらぼうに言った。
「うちで直した証だ」
少し間を置いてから、付け足す。
「戻ってきたら、続きを見る為の証でもある」
アイリスは小さく頷いた。
「うん」
カインはそれを聞いてから、もう一度ノクス全体を見た。
外装。熱源偽装。簡易ステルスフィールド。
密輸区画。小型エーテル機銃。
スタン防御砲。左右アンカーランチャー。
船外作業ドローン二機。クロンワークスのエンブレム。
自由港へ入るための急造小型船だったノクスは、今は少しだけ違うものになっていた。
ただ隠れる船ではない。外縁を覗き、危なければ逃げ、必要なら拾い、必ず帰ってくるための船だ。
クロンは鼻を鳴らす。
「仕事は十分にした」
「それ以上は、乗る奴次第だ」
ミラは静かに一礼する。
「責任を持って運用します」
アイリスも、少し緊張した顔で言った。
「私も、ちゃんと約束守る」
カインはアイリスを見る。
「もう一度言う」
「深追いするな」
「異常を見たら記録して戻れ」
「近づくな」
「ミラの判断に従え」
アイリスは真っ直ぐ頷いた。
「うん」
「分かってる」
「私は、見に行く」
「戦いに行くんじゃない」
その答えに、カインは一度だけ目を細めた。
「それでいい」
ミラがノクスの乗降ハッチへ向かう。
「出発前チェックを開始します」
『外部通信、内部通信、熱源偽装、簡易ステルス、アンカー制御、武装安全装置、船外ドローン待機状態を順次確認する』
アドミラルの声が続いた。
ノクスの内部灯が順に点いていく。
低い駆動音。補機の起動。
船体側面のアンカーランチャーに、淡いステータスランプが灯る。右舷、緑。左舷、緑。
船外作業ドローン二機のケースも、内部で小さく自己診断音を鳴らした。アイリスは乗り込む前に、カインの方を見た。
「…行ってくるね」
カインは短く答える。
「ああ」
「無事帰ってこい」
アイリスは少しだけ笑った。
「うん」
ミラが操船席へ入り、アイリスが後部の観測席へ座る。シートベルトが自動で身体を固定し、周囲のモニターに外部映像と簡易観測データが表示される。
カインはハッチの外に立ったまま、最後にミラへ言った。
「撤退判断は早くていい」
「はい」
「通信が不安定になったら戻れ」
「はい」
「アイリスに何かあったら」
「即時帰投します」
ミラは最後まで言わせなかった。
「それが本任務の最優先事項です」
カインは少しだけ黙ったあと、頷いた。
「ならいい」
ハッチが閉じる。
厚い音がして、ノクスは外と切り離された。
クロンが管制端末の横に立つ。
「係留解除準備」
工房の作業員が短く返す。
「ノクス、外部固定解除」
「右舷アンカー、安全」
「左舷アンカー、安全」
「推進系、低出力待機」
ミラの声が通信で入る。
『ノクス、出航準備完了』
アドミラルが低く答えた。
『本艦側、監視開始』
『任務名、旧外縁航路K-9手前漂流ビーコン確認』
『実任務、ノクターン・デブリ帯外縁偵察』
クロンが小さく呟く。
「長ぇな」
カインはノクスを見たまま言う。
「戻ってくれば何でもいい」
「違いねえ」
係留ドックの外扉が開き始めた。
自由港の内側の光が、ノクスの船体を照らす。
粗い装甲パネル。剥げた塗装。
クロンワークスの小さなエンブレム。
左右に付いたアンカーランチャー。
ボロ船に見える。だが、今はそのボロさが頼もしかった。
『ノクス、発進します』
ミラの声。次の瞬間、ノクスの推進音が低く立ち上がった。船体がゆっくりと浮き、係留ドックを離れる。左右のアンカーランチャーがわずかに揺れ、姿勢制御がすぐに補正した。
アイリスの声が通信に入る。
『……行ってきます』
カインは短く返した。
「行ってこい」
ノクスはクロンワークスの係留ドックを抜け、自由港の外縁航路へ向けて滑り出した。
表向きは、漂流ビーコン確認任務。
だがその先にあるのは、旧外縁航路K-9。
船が消え、残骸だけが戻る暗い帯。
ノクターン・デブリ帯。
カインは工房の白い作業灯の下で、ノクスの後ろ姿を見送った。今はまだ、闇の中へ踏み込むわけではない。ただ、その縁を覗く。だが、縁に立つだけでも、闇はこちらを見る。
ノクスの熱源は、やがて民間貨物船の粗い出力に偽装され、簡易ステルスフィールドが薄く展開した。そして小さな密輸船めいた影は、自由港の光を背にして、ノクターン・デブリ帯の方角へ消えていった。




