第33話:擦り合わせ①
男湯の方は、女湯よりも少しだけ静かだった。
湯が流れる音。配管の奥で鳴る低い唸り。白い湯気。広さは同じくらいでも、こちらの空気は少しだけ硬い。カインは湯へ背を預け、しばらく何も言わずにいた。試射の熱はもう引いている。
火薬の匂いも薄れた。だが、頭の中に残っている話の方はまだ重いままだった。
『心拍、体温、筋緊張、いずれも安定』
頭上のスピーカーから、アドミラルの声が静かに降る。
「風呂の中でもそれを言うのか」
『言う』
短い返答だった。
カインは小さく鼻を鳴らした。
「好きにしろ」
それから、今度は自分の方から口を開いた。
「…定期的に、俺達の生体スキャンをしているよな」
『兵站の一端として妥当な行為だ』
カインは小さく鼻を鳴らした。
「言うと思った」
湯気の向こう、白い天井を見たまま続ける。
「なぁアイリスの体内に、不可解な所があるだろ」
短い沈黙。
『なぜそう判断した』
「クレイドルを出た後だったか」
カインの声は低いままだった。
「俺の左腕を治療する前に、お前は俺より先にアイリスをスキャンしたよな」
「……あの時から気づいてただろ」
『観測はしていた』
「その時は“異常なし”と言ったな」
『生存上、即時危険を示す異常はなかった』
カインはそこで少しだけ目を細める。
「言い方を変えるな」
「今すぐ死ぬ異常はない。だが、気になる点はある」
「そうだろ?」
アドミラルは一拍置いてから答えた。
『否定しない』
湯の流れる音だけが少しの間を埋める。
「……まあ、あの時はそれでよかった」
カインが言う。
「脱出直後だったし、こっちも余裕がなかった」
「だが今は違う」
「アイリスも、俺も、今の環境に少しは慣れてきた」
「そろそろ話すか?」
『妥当だ』
『現時点での共有は、今後の判断に資する』
カインは短く息を吐いた。
「まず、これから先の話だ」
『聞こう』
「今日、後を付けていた連中の正体だか」
アドミラルは少しだけ間を置く。
『自由港で接触した追跡者か』
「ああ」
カインは頷いた。
「ライナ副官の依頼で動いてる連中だった」
『……なるほど』
アドミラルの声は変わらない。
だが、理解のための間がそこにあった。
『本艦の軍系データベース上、エドワード・アトリー元帥およびライナ・ヴェルグ副官の記録は保持している』
『だが、艦長個人との実際の関係性までは把握していない』
「そうか」
カインは湯の表面へ視線を落とした。
「アトリー閣下は俺をカリストへ送った人だ」
「ライナは、アトリーの秘書みたいなもんだ」
『信頼できるのか』
一瞬だけ、カインの視線が上がる。
「少なくとも、ヴォルフよりはな」
「いや、比べるまでもないか」
湯気の中で、配管が小さく鳴った。
「一応、向こうにはもう通してある」
『どこまでだ』
「生きてること」
「表立っては動けんこと」
「自由港にいること」
「そこまでは流したはずだ」
『位置を明かしたのか』
「居場所そのものじゃない」
『妥当だ』
カインは短く言った。
「今すぐそこへ戻る気もない」
アドミラルが静かに問う。
『理由を聞こう』
「いくつかある」
カインは指を湯の縁へ軽く置いた。
「まず、ヴォルフは、俺をクレイドルごと消そうとした」
「生きてると分かると、次を打ってくるはず」
「今は死んだままにする」
「仮に軍へ戻れてたとしても、そこで終わらん」
声は淡々としていた。
だが、その中身は重い。
「クレイドルで何を見たか」
「なぜアイリスを連れてるか」
「なぜこの艦に乗ってるか」
「全部説明しろって話になる」
『妥当な推測だ』
「ああ」
「それで済めばまだいい」
「騒ぎになれば、閣下やライナまで引っ張られる」
「ヴォルフの手が、俺だけで止まる保証はない」
アドミラルが短く返す。
『自身が戻ることでアトリー元帥側へ危険を引き寄せると見ているのだな』
「そうだ」
カインははっきり言った。
「信用してるから、今は寄せない方がいい」
「それに、この艦もある」
その一言で、話の重さがもう一段変わった。
「エーテルガイストをヴォルフにバレずに秘密裏に軍の基地へ持っていく?」
カインは小さく笑いもしないまま続ける。
「無理だな」
「今は自由港へ入るための偽装で、少なくとも軍艦じゃなく大型輸送船に見える程度にはなった」
「だが、今のままでも目立ちすぎる」
「軍港に寄せるにも、アトリー側の施設に隠すにも、でかすぎるし、説明が多すぎる」
『同意する』
アドミラルが言う。
『現状の本艦は、一時的偽装により軍艦識別性を下げている』
『だが、厳密な識別や近接観測を受ければ危うい』
『よって現在進めている追加装甲化と艦影偽装の恒久化は、単なる防御強化ではなく、今後の行動半径を広げるための処置でもある訳だ』
「そうだ」
カインは頷いた。
「だからこそ今は戻らん」
「戻れないんじゃない。戻らない方がましだ」
湯気が薄く揺れる。
『では、アトリー元帥とライナ副官にはどう接触する』
「接触ルートは有る」
「バーに行けば連絡手段が確保出来るはずだ」
カインは答えた。
「まずは、クレイドルで見た事を」
「最後に、ヴォルフの話を」
『人類の夜明け計画か』
その言葉に、カインの表情が少しだけ硬くなる。
「ああ」
「アイリスの心臓の話も、そこに繋がってる」
『アイリスの循環器官には説明しきれない構造がある』
『外見上は心臓だ。だが内部構造は通常人体と一致しない』
『既存人工臓器とも、生体部品とも、完全一致する分類がない』
カインは低く息を吐いた。
「……やっぱりか」
『心当たりがあるようだな』
「心臓だけにな」
すぐに、カインは片手で額を押さえた。
「……すまん今のは無しだ」
『聞かなかったことにする』
「助かる」
短い軽口だった。
だが、その一往復だけで、張り詰めていた空気がほんの少し緩む。
それでも次に続く話は、やはり重い。
「それで」
カインは改めて言った。
「人類の夜明け計画は見て知った」
「全部じゃない。だがクレイドルで見た範囲だけでも十分だった」
「適合率、生体部品、強化兵、被験体」
「言葉だけ整えてたが、中でやってたのは人体実験だ」
「アイリスも、その一つだった」
アドミラルはすぐには返さなかった。
その沈黙は理解のためのものだった。
『本艦は、ヴォルフ元帥が現在進めている“人類の夜明け計画”の詳細を深くは保持していない』
「だろうな」
『だが、“元になった計画”は知っている』
カインの視線が少しだけ上がる。
「元になった?」
『そうだ』
『人類の夜明け計画は、本来そのような形だけのものではなかったはずだ』
「……どういう意味だ」
アドミラルの声は変わらず静かだった。
『記録によると当初の計画は、エーテリアンのエーテル技術を利用する流れの中にあった』
『目的は既存人類の技術底上げだ』
『医療、補助、生存、環境適応』
カインは、そこで初めて少しだけ黙った。
「ヴォルフが途中から変えたってことか」
『その可能性は高い』
「可能性じゃなく、そうだろうな」
カインの声は低かった。
「クレイドルで見たものは、そんな綺麗な計画の延長じゃない」
『同意する』
『少なくとも、貴様の証言とアイリスの身体所見は、元の理念とは一致しない』
「その元の計画、誰が中心にいた?」
『記録上、中心人物の一人としてアーデルハイド・ローゼンという名がある』
カインは眉をわずかに動かした。
「……知らんな」
『不自然ではない』
『現在の軍系記録では、薄められている、あるいは意図的に消されている可能性がある』
「ライナに掘らせるか……」
カインが低く言う。
「俺はヴォルフの今の計画を渡す」
「クレイドルで見たこと、アイリスのこと、施設の実験、それを報告する」
「その代わり、ライナと閣下には内部から探ってもらう」
『何を』
「元の人類の夜明け計画だ」
「そのアーデルハイド・ローゼンって奴の側をな」
「ヴォルフが乗っ取る前の形が分かれば、今どこを歪めたかも見える」
『妥当だ』
アドミラルが即答する。
『外側から拾えるのは現場の痕跡だ』
『内部記録、失われた名前、改竄された系譜は軍内部の人間に探らせる方が早い』
「それと、ヴォルフの計画はクレイドルだけじゃない」
カインは続けた。
「他でもやってるはずだ」
「同じような施設か、似たような拠点がどこかにある」
「俺は外からそれを探る」
「自由港の裏、物流、噂、流れてくる物」
「必要なら宇宙へ出て拾う」
『アトリー元帥側には内から探らせ、こちらは外から探る』
「そうだ」
「今はその形が一番いい」
アドミラルの声が少しだけ低くなる。
『最終的に何を見ている』
カインは、しばらく答えなかった。
湯気の向こう。白い天井。
未完成の艦の中。一日の終わりの湯。
その静かな場所で、声だけが落ちる。
「ヴォルフは、何かしらやるつもりだ」
「最終的には軍ごと割るつもりだろうな」
『クーデターか』
「かもな」
カインは短く答えた。
「連合軍から別れるか、連合軍ごと奪うか」
「どっちにしろ、放っておけば戦になる」
「その時は止める」
『誰と』
カインはわずかに目を細めた。
「こっちはこっちで動く」
「閣下とライナには内側を動いてもらう」
「そのうち、他の連中も巻き込むことになるだろうな」
「俺だけじゃ足りん」
『理解した』
アドミラルの返答は静かだった。
『では本艦は、その時までに戦える形へ持っていく』
「頼む」
『当然だ』
『なお、アイリス本人にどこまで共有する』
カインはすぐには答えなかった。
「全部はまだ早い」
「だが、何も知らんままにもできん」
「少しずつだな」
『妥当だ』
配管の奥で、また小さく音が鳴る。
男湯の空気は変わらない。湯は熱いままだ。
だが、会話の中で、これから先の輪郭だけは少しずつ固まっていく。
「……まずは、ライナに情報を渡す」
カインが言った。
「元の計画と、そのアーデルハイド・ローゼンの方は、向こうに掘らせる」
『了解した』
「俺達は外から拾う」
「艦を仕上げる」
「動けるだけの部材を集める」
「その先だ」
アドミラルは短く返した。
『本艦はその前提で動く』
カインはようやく、少しだけ身体の力を抜いた。
試射の疲れ。街を回った疲れ。
一日の終わりの疲れ。それらに混じって、これから先の重さがまだ残っている。
だが、方針は決まった。今はまだ亡霊のままでいい。外側から動く。内側には、届く者にだけ届かせる。
『なお』
アドミラルが最後に言う。
『アイリスの現時点のバイタルは安定している』
『少なくとも、今この瞬間に危険が顕在化している兆候はない』
「それならいい」
カインは短く返した。
今は、それで十分だった。




