第29話:バンカーボート
食事を終えるころには、皿の上の熱もだいぶ落ち着いていた。店の中は相変わらず昼のざわめきに満ちている。さっきまでの裏通りの空気が嘘みたいに、ここには焼けた油の匂いと、人の話し声と、食器の触れ合う音があるだけだった。
アイリスは水を一口飲んでから、向かいのカインを見た。
「……それで、この後どうするの?」
カインはすぐには答えなかった。
「戻ってもいい」
カインは答える。
「ただ、まだ日の高いうちに艦へ引っ込むのも少し早い」
「じゃあ……街を歩く?」
「歩くだけでもいいが、それだけだと少し弱いな」
アイリスが瞬く。
「弱い?」
「自由港でうろつくなら、理由があった方がいいな」
カインはそう言って、水を飲み干した。
「傭兵の依頼でも見に行くか」
アイリスの顔が少しだけ上がる。
「依頼?」
「ああ」
「受けるかどうかは別だ」
「仕事を探しに来た顔をしておくのは、ここじゃそれなりに意味がある」
アイリスは少し考えてから頷く。
「……なるほど」
「何もしないで歩いてるより自然だもんね」
「そういうことだ」
カインは短く返した。
「軽い運搬、護衛、回収、その辺を見るだけでも街の空気は拾える」
「危ない仕事は?」
「受けん」
カインは即答した。
「やるとしても半日で切れるような軽いものだけだ」
アイリスはそこで少しだけ安心したように息をついた。
「……じゃあ、依頼を見に行くのはありだね」
「ああ」
カインは椅子を引いた。
「場所は聞いてる」
「ロイが言ってた」
アイリスも立ち上がる。
「どこ?」
「バンカーボートだ」
その名に、アイリスは少しだけ目を瞬かせた。
「……船なの?」
「そうらしい」
カインが店の外へ向かいながら言う。
「仕事板と食堂と待合所をまとめて浮かべたような場所だ」
「傭兵や運び屋が仕事を拾う」
二人は勘定を済ませて店を出た。
外へ出ると、自由港の昼のざわめきがまた身体を包む。工房街の金属音。荷運びの駆動音。遠くで鳴る短い警告音。人の流れは止まらない。店の脇に止めていたホバーバイクへ向かい、カインは前席へ跨がった。
「出すぞ」
「うん」
アイリスが後ろへ乗る。背中へ軽く触れる手の感触を確かめてから、カインは低く浮上音を鳴らした。機体が床からわずかに浮く。そのまま、通路を滑るように走り出した。
飯屋を離れ、工房街の灯りの下を抜ける。両脇を流れるのは、継ぎ足しだらけの外壁、雑に組まれた配管、荷役用の昇降機、半ば露店のように開いた部品屋。人と船と機械が、ごちゃついたまま一つの街になっている。
「バンカーボートって、遠いの?」
走り出してすぐ、後ろからアイリスが聞いた。
「いや」
カインは前を見たまま答える。
「たしか工房街と荷役区画の境だ。ロイの話じゃ、軽い依頼は大体そこで見られる」
「へえ……」
ホバーバイクは人の流れを縫うように進む。継ぎ足しの通路。古い梁。補修板だらけの壁。港らしくも、自由港らしくもある雑多な景色が横へ流れていく。カインは操縦しながら、前方だけでなく反射面にも目を配っていた。通路脇の曇った金属板。店の窓。荷運び機の外装。
ブラッドハウンドが、ごく薄い補助表示を流す。
《追尾継続傾向:低》
《固定監視:未成立》
今のところ、飯屋を出てから新しく付いてくる気配はない。少なくとも、露骨に続けるつもりの目は切れている。
「……何か見てる?」
アイリスが小さく聞く。
「念のためだ」
カインは短く返した。
「今日はそういう日だ」
「……そっか」
それ以上、アイリスは聞かなかった。
ホバーバイクは通路を一つ折れ、荷役区画へ近い広めの通りへ出る。行き交う作業機が増え、搬送コンテナの列も目立ってきた。その先で空気が少し変わる。油と鉄の匂いに、荷役区画らしい乾いた埃っぽさが混じった。前方に、古い中型船が見えてくる。継ぎ足しだらけの外板。雑に塗り潰された船腹文字。開け放たれたハッチから漏れる、人の声と安酒と油の匂い。カインはその脇へホバーバイクを寄せ、静かに減速させた。
「着いたぞ」
「……あれが?」
「みたいだ」
機体を止め、カインは先に降りる。アイリスも後ろから降りて、目の前の船体を見上げた。
「バンカーボートだ」
自由港でその日その場の仕事を拾う人間たちが集まる場所。軽い依頼を探すにも、人の流れを見るにも都合のいい仕事場だった。二人は降り、傭兵たちの仕事場へ足を向けた。
バンカーボートの中は、外から見た時より広く感じた。船体そのものは中型級だ。だが内部は何度も壁を抜かれ、継ぎ足され、用途ごとに雑に広げられている。だから食堂のようでもあり、待合所のようでもあり、仕事場のようでもある。油の匂い。安い酒の残り香。溶接焼けの混じる空気。人が長く居座る場所特有の、熱のこもった気配があった。入ってすぐ右手は簡単な食堂になっている。左手には壁一面の仕事板。その横に、同じ内容を映す簡易端末が二台。奥には荷運び用の小型台車や、使い込まれたロッカー、工具箱、武器預け用らしい金属棚まで見えた。
アイリスが小さく息をつく。
「……本当に一緒になってるんだ……」
「自由港らしい」
カインは短く言って、仕事板へ目を向けた。樹脂板の依頼札が何列も並んでいる。色も形も揃っていない。手書きのもの。印字されたもの。切り離し式の札。端末番号だけ記された簡素な札。内容は大きく分かれていた。
運搬。
港内護衛。
倉庫番。
失せ物探し。
回収。
短距離曳航補助。
小型ドローンの捕獲。
店の揉め事の仲裁。
どれも、表に出して問題ない仕事ばかりだ。
アイリスも隣へ寄って、札を上から追っていく。
「……こんなにあるんだ」
「報酬はそれなりか」
カインはそう答えながら、文字より先に空気を読んでいた。
仕事札の前に立つ人間の数。足の止まり方。依頼そのものより、周囲を見ている目。壁際で酒を飲みながら、掲示板の方だけを時々見る連中。ただの暇つぶしではない。誰がどんな札に手を伸ばすかを見ている目が混じっている。
ブラッドハウンドの補助表示が、ごく薄く立ち上がる。
《視線滞留:四》
《仕事板ではなく来訪者観察》
《左奥卓、継続》
《直接敵対性:未確定》
カインは視線を動かさずに、周囲だけを拾う。クロンの言葉を思い出す。
自由港の傭兵には緩い派閥がある。
軽い仕事は表で流れる。だが、荒れる仕事、血を見る仕事は別だ。その辺をかなり握ってるのがブラックバナーだ。
その話を聞いた時は、名前と輪郭だけだった。だが今、ここに立つと分かる。掲示されている仕事は、どれも“まだ表の顔をしている”ものばかりだった。危険度がないわけじゃない。だが、最初から流血を前提にしている札ではない。死地へ行く話なら、もっと別の匂いがする。その匂いは、札ではなく人間の方に出る。
左奥の卓。壁を背にして座る男が一人。服装は地味だ。帳面と端末を前に置き、たまに札の更新をしているようにも見える。だが、ただの掲示係なら人の腰や手元や歩き方まで見ない。男は仕事を見ていない。仕事を見る人間を見ている。
「……何かある?」
アイリスが小さく聞いた。
「あると言えばある」
カインは依頼札から目を離さず答える。
「無いと言えば無い」
「どっち……」
「今のところは、人目だけ」
「クロンの言ってた通りかもしれん」
「ブラックバナー?」
「そう」
アイリスは少しだけ声を潜めた。
「……あの人?」
「多分な」
カインは露骨には見ない。代わりに簡易端末の反射と壁際の金属板を使って、相手の視線の戻り方だけを見る。確かに見ている。だが敵意で測っているわけではない。値踏みに近い。“使えるかどうか”を見る類いの目だ。仕事板の前に立つ人間が、どの札にどれだけ足を止めるか。報酬を見るか、危険度を見るか、拘束時間を見るか。それだけで、ある程度の質は分かる。
「表の仕事はここ」
カインが言う。
「軽護衛、回収、運搬、見回り、その辺」
「……もっと荒れるのは?」
「多分、ここには最初から出ない」
アイリスが札を見上げる。
「……血を見るような仕事、ってこと?」
「そういうのは別の筋だ」
「ブラックバナーが?」
カインは短く答えた。
「こういう場所に目を置いて、斡旋しているらしい」
アイリスは小さく息を飲む。
「……でも、仕事ならブラックネビュラバーでも受けられるんじゃないの?」
カインは依頼札を一枚見たまま答えた。
「受けられる」
「ただ、空気が違う」
「空気?」
「ブラックネビュラバーは、どっちかと言えば依頼に近い」
アイリスが少しだけ目を瞬かせる。
「…依頼……」
「ただの運搬だの護衛だのって話じゃ済まんことが多い」
カインは言った。
「依頼そのものの質が、こっちより一段重い」
「自由港の派閥絡みだったり、軍や企業の息がかかった依頼だったりな」
「裏仕事とまでは言わん」
「だが、人目に付かん方が助かる依頼や、受ける側の技能がそのまま生きる仕事が多いらしい」
「技能?」
「情報集め。人探し。物探し。機械修理。製作依頼。護衛でも、ただ立ってりゃいいって類いじゃない」
アイリスは少し考えてから頷いた。
「……なるほど」
「…ただ仕事を並べる場所じゃなくて、誰に回すかを見てる感じなんだ…」
「そういうことだ」
カインは短く返した。
「ブラックネビュラバーは仕事場ってより、斡旋場に近い」
「頼みたい側と、受ける側を顔ごと繋ぐ場所だ」
一方で、とカインは仕事板の方を顎で示した。
「バンカーボートは違う」
「こっちはもっと緩い」
「自由港で日々を生きるための仕事だ」
運搬。
軽護衛。
回収。
見回り。
倉庫番。
その日を繋ぐための札が、壁一面に貼られている。
ブラッドハウンドの表示が流れる。
《左奥卓:選別傾向》
《関心対象:来訪者全体》
《即時敵対性なし》
問題はない。少なくとも今は。カインは端末側へ視線を移した。投影一覧には、札より少しだけ整理された情報が出ている。危険度。拘束時間。報酬。依頼主匿名識別。仲介手数料。
その中から、指で軽く一覧を送る。
小型搬送コンテナ護衛。半日。港内限定。
補修材運搬補助。日没まで。工房街経由。
迷走ドローン回収。生死不問。軽武装可。
倉庫番。短時間。現金払い。
悪くない。どれも受けられない仕事じゃない。だが今は、仕事そのものより“ここに来て、仕事を見ている”事実の方が大きい。
「……受けるの?」
アイリスが聞く。
「いや」
「じゃあ、見に来ただけ?」
カインは言った。
「今日は顔を出すだけでも意味がある」
「ここに来て、どういう依頼が出てて、誰が見てるか、それが分かっただけで十分だ」
アイリスは少しだけ笑った。
「……やっぱり、ただ依頼内容を見るだけじゃないんだね」
「依頼を見つつ、回りの流れを読む」
アイリスはそれ以上は言わず、自分も端末へ目を向ける。さっきより少しだけ、見方が変わっていた。依頼札。報酬。危険度。そして、それを見る人間たち。カインは最後にもう一度、左奥の男を見た。今度は男も、一瞬だけこちらを見返した。ほんの一瞬。それで十分だった。
クロンの言っていた通りだ。ブラックバナーは、使えそうな人間を静かに拾っていく。
「行くぞ」
カインが言う。
「うん」
アイリスが隣へ並ぶ。
二人は仕事板を離れた。依頼はまだ取らない。だが、無駄足ではない。この港では、掲示板を見ることもまた一つの挨拶だ。そして、その挨拶に目を返してくる相手がいるなら、それだけで次に繋がる。
カインは歩きながら、視界の端に流れていたブラッドハウンドの補助表示を静かに落とした。今はまだ、読むだけでいい。




