第3話:目覚めた場所
最初に聞こえたのは、一定の間隔で続く低い駆動音だった。
機械が動いている。
けれど、クレイドルで聞いていたものとは違う。もっと遠く、もっと静かで、何か大きなものが自分の周囲を包んだまま動いているような音だった。
アイリスは、ゆっくりと目を開いた。
白い天井。
知らない照明。
壁際に並ぶ診療用の機械と、腕に取り付けられた小さなセンサー。
そこまで見て、少し前の記憶が断片的に浮かんだ。
赤い光。
揺れる通路。
身体を抱き上げられた感覚。
警告音と銃声。
何かが閉じる、ひどく重い音。
その直後、自分の身体だけが前へ押し出された。
「……っ」
胸の奥が強く鳴った。
《心拍数上昇》
すぐ近くの端末へ文字が浮かぶ。
『覚醒を確認』
声に、アイリスの身体が僅かに強張った。
けれど、その声も知っている。
「……アドミラル……?」
『認識に問題なし』
天井の一角に、黄金色の単眼が浮かび上がった。
実体のある眼ではない。ただの光学表示。
それでも、こちらを見ていることだけは分かる。
「……ここ……」
『エーテル・ガイスト第一医療区画』
その名前を聞いて、記憶がもう少しだけ繋がった。
船。
クレイドルではない場所。
そして――。
「……カインは?」
『生存している』
アイリスは息を止め、それから少しだけ肩の力を抜いた。
『治療終了後、休養区画へ移動した』
「……ひとりで?」
『自力歩行』
一拍置いて。
『推奨はしていない』
「……言うこと、聞かなかった?」
『その認識で正しい』
「……そっか」
なぜか、少しだけ想像できた。
あの時もそうだった。
止まれと言われても走った。
自分を置いていけば助かると言われても、置いていかなかった。
そして。
左腕。
途中から先のなくなった軍服。
血。
自分が何かを言おうとした時、カインは短く言った。
――違う。
――俺が決めた。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、自分で選んだことだと言うように。
アイリスは布団の上へ視線を落とした。
細い指。
クレイドルでは、何度も機械へ繋がれた手。
検査。
採血。
投薬。
説明されない処置。
嫌だと言っても止まらなかった。
痛いと言っても、それが理由になることはなかった。
目を閉じれば、白い部屋と冷たい台が浮かんでくる。顔の見えない人たちが、自分の身体を数字や適合率で呼んでいた。
その記憶の中へ、今までなかったものが混ざっている。
黒い軍服。
右眼の赤い光。
自分を抱えて走った男。
そして、なくなった左腕。
「……わたしが……」
『アイリス』
声に引き戻された。
「……なに?」
『心拍数が再上昇している』
アイリスは胸元へ手を当てた。
そこには、自分の心臓とは少し違うものがある。
ずっとそうだった。
身体の中にあるのに、自分のものとして扱われたことはほとんどない。
『胸部に不快感があるか』
「……違う」
『では、どこだ』
少し考える。
「……頭の中」
『記憶に起因するストレス反応と推測する』
「……ストレス?」
『嫌なことを思い出した際、身体が危険だと判断している』
「……忘れた方がいい?」
アドミラルは少しだけ沈黙した。
『判断できない』
意外だった。
「……分からないの?」
『分からない』
淡々とした返答。
『私は人間の記憶が人格へ与える影響を完全には理解していない』
「じゃあ……どうしたらいい?」
『現時点では、無理に思い出す必要はない』
「……思い出さなくてもいいの?」
『今は不要だ』
それだけだった。
クレイドルでは、必要だから、確認のため、計画のため、適合率のため――そんな言葉で、いつも何かをさせられてきた。
けれど今は。
必要がない。
だから、しなくていい。
それが少し不思議だった。
『身体状態は改善している』
表示が切り替わる。
《体温――正常範囲》
《循環状態――改善》
《栄養補給――継続》
《自力歩行――短距離のみ許可》
最後の項目で、アイリスの目が止まった。
「……歩いていいの?」
『短距離に限る』
「外に?」
『医療区画外という意味なら可能だ』
アイリスは扉を見る。
「……見たい」
『何を』
すぐには答えられなかった。
何が見たいのか、自分でもよく分からない。
「……ここ」
『ここ』
「この船」
少し迷って続ける。
「……本当に、クレイドルじゃないって見たい」
数秒の沈黙。
『許可する』
診療台の横から補助フレームが展開した。
アイリスはゆっくり身体を起こす。
少し眩暈がした。
『急ぐな』
「……うん」
脚を床へ下ろす。
冷たい。
そう思った直後、足元の温度が僅かに上がった。
「……いま」
『床面温度を調整した』
「わたしが寒いから?」
『末梢体温の低下を確認した』
「……そっか」
理由は、どこまでも機械的だった。
それでも、寒ければ温かくなる。
ただそれだけのことが、妙に不思議だった。
アイリスは立ち上がった。
一歩。
脚が少し震える。
二歩。
三歩。
自分の足で進む。
医療区画の扉が開くと、その向こうには薄暗い通路が伸びていた。
クレイドルとは違う。
白く整えられた通路ではない。壁の一部はまだ完成しておらず、配線が露出し、扉だけ設置されてその先が封鎖された区画もある。
照明は、アイリスの進む先から順に点灯していった。
「……暗いね」
『未使用区画への電力供給を制限している』
「必要なところだけ?」
『そうだ』
少し進んだところで、小さな機械が通路の角から現れた。
丸い胴体に複数の細い作業腕。
修復用らしい機械はアイリスの前で止まる。
「……?」
『修復作業ドローン』
アイリスが右へ動く。
ドローンも右へ。
左へ動けば、そちらへ動いた。
「……通りたいの?」
『君を障害物として認識している』
「あ……」
壁際へ寄る。
ドローンは何事もなかったように通り過ぎていった。
アイリスはその後ろ姿を見る。
「……お礼、言わないんだ」
『必要ない』
「アドミラルと似てる」
『異なる』
「……そう?」
『私は会話機能を持つ』
「そこ?」
『重要な差異だ』
思わず、アイリスの口元が少し動いた。
『表情変化を確認』
「……なに?」
『笑顔と推測』
自分の頬へ触れる。
「……笑ってた?」
『そう判断した』
「……分からなかった」
『身体状態の記録へ追加する』
「笑ったことも?」
『必要に応じて』
アイリスの指が止まった。
「……わたしのこと、ずっと見てるの?」
『必要な範囲で』
「……どうして?」
『搭乗者の生存維持に必要だからだ』
クレイドルでも、ずっと見られていた。
眠っている時も。
食べている時も。
身体の中まで。
けれど。
同じではない。
少なくとも、今は何かを試すためではない。
『不快か』
「……まだ、分からない」
『了解』
「怒らないの?」
『理由がない』
「分からないって言っても?」
『不明なものを不明と回答することに問題はない』
アイリスは少しだけ黙った。
「……そっか」
『歩行を継続するか』
「うん」
一人と一つの知性は、再び通路を進んだ。
通路を抜けると、小さな共用区画へ出た。
まだ家具は少なく、壁際に固定されたテーブルと数脚の椅子、簡素な設備と壁面端末があるだけだった。
その一角に、カインがいた。
椅子へ深く座り、右手だけで端末を操作している。
血に汚れた軍服ではなく、医療区画で用意された簡素な治療衣を着ていた。
左肩から先は、やはりない。
血は止まっている。
傷も処置されている。
それでも、なくなったものが戻っているわけではない。
カインが顔を上げた。
「起きたか」
「……うん」
「歩けるんだな」
「……少しだけ」
『短距離のみだ』
「聞いた」
アイリスは少し迷ってから声を出した。
「……カイン」
「ん?」
「……痛くない?」
カインが自分の左側を見る。
「痛い」
あっさりした答えだった。
「……」
「薬は効いてる」
「……でも」
「治療もした」
そこでアイリスを見る。
「生きてる」
「……うん」
「なら今はいい」
それ以上、自分を責めるなとも言わなかった。
アイリスには、その方が少しだけ楽だった。
カインが空いている椅子を示す。
「座るか」
「……うん」
途中で身体が僅かに揺れた。
カインの右手が動きかける。
けれどアイリスは自分で机へ手をついた。
「……大丈夫」
カインはそこで止まった。
「そうか」
手を出さない。
ただ見ている。
アイリスは、自分の力で椅子へ座った。
小さなことなのに、少し嬉しかった。
「……何してるの?」
「船を見てた」
端末には、エーテル・ガイストの簡易図が表示されていた。
赤や黄色で示された部分が多く、正常らしい場所より、そうでない場所の方が目立つ。
《建造進捗――72%》
《使用可能区画――限定》
《長期航行能力――暫定》
「……壊れてるの?」
「まだ出来てない」
『より正確には――』
「長くなるか?」
『説明内容による』
「じゃあ後でいい」
『了解』
アイリスは艦の図を見る。
「……でも、飛んでる」
「ああ」
「完成してないのに?」
「飛べたから飛ばした」
『強制抜錨を実行した』
「それだ」
「……無理やり?」
「まあな」
完成していない。
足りない場所がたくさんある。
それでも飛んでいる。
「……変なの」
「俺もそう思う」
『評価としては不適切だ』
「ほらな」
アイリスは少しだけ笑った。
今度は、自分でも分かった。
「……この船は」
「ん?」
「どこに行くの?」
「決まってない」
アイリスが顔を上げる。
「……決まってない?」
「ああ」
『目的地――未設定』
「行く場所がないのに……飛んでるの?」
「今はな」
「……いいの?」
「止まってたら見つかる」
短い答えだった。
「だから飛ぶ」
「……そのあと?」
「そのあと考える」
「……決めてないの?」
「まだな」
クレイドルでは、何もかも決まっていた。
起きる時間。
眠る時間。
食事。
検査。
投薬。
どこへ行くか。
何をするか。
自分が何のためにいるのかまで。
いつも誰かが決めていた。
だから何も決まっていないことは、怖いことだと思っていた。
けれど今は。
聞こえているのは、船の低い駆動音だけだった。
次の命令を出す声はない。
「……わたしも……」
カインがこちらを見る。
「何だ」
「……ここに、いていいの?」
口にした瞬間、胸の奥が強く鳴った。
カインは少しだけ黙る。
「船に?」
「……うん」
「行く場所は」
アイリスは首を横に振った。
「ない」
「なら、いればいい」
「……それだけ?」
「それだけだ」
あまりにも簡単だった。
条件も。
検査も。
役割もない。
「……わたし、何もできないよ」
「今はな」
カインは端末へ視線を戻す。
「まず治せ」
『同意する』
アドミラルも続ける。
『現在のアイリスに必要なのは身体機能の回復だ』
「……それだけ?」
『それだけだ』
アイリスは机の上の自分の手を見る。
震えてはいなかった。
「……そっか」
小さな声だった。
けれど、少しだけ軽かった。
しばらくして。
アイリスはもう一つ、ずっと頭に残っていたことを口にした。
「……カイン」
「ん?」
「……どうして、クレイドルにいたの?」
カインの手が止まる。
「俺が?」
「……うん」
アイリスは自分の手を見る。
「わたしを助けに来たんじゃ……ないんだよね?」
「ああ」
即答だった。
「視察だ」
「……視察?」
「仕事」
それだけ答えて、少しだけ視線を落とす。
「元帥に行ってこいって言われた」
「……ヴォルフ?」
「違う」
カインの声が僅かに変わった。
「アトリーだ」
「……アトリー……」
「ああ」
アイリスにとっては知らない名前だった。
「クレイドルを見てこいってな」
「……知ってたの?」
「知らなかった」
「だから行った」
そして。
見つけた。
その先だけは、言われなくても分かった。
「……わたしを?」
「ああ」
カインはそれ以上説明しなかった。
アイリスも、それ以上は聞かなかった。
けれど。
アトリー。
視察。
知らなかった。
その言葉だけは、頭の中へ残った。
《搭乗者状態――安定》
《航路――継続》
《目的地――未設定》
エーテル・ガイストは、まだ行き先を持たない。
完成すらしていない艦の中で、少女は初めて自分の足で歩き、自分から問い、自分がここにいてもいいのかを確かめた。
まだ、この場所を何と呼べばいいのかは分からない。
それでも。
クレイドルとは違う。
それだけは、もう分かっていた。




