第2話:航路未設定
轟音は、いつの間にか遠ざかっていた。
カリストの氷殻を突き破った直後から続いていた振動も、今では船体の奥を伝う低い駆動音へ変わっている。
《重力圏離脱――完了》
《外部追跡反応――なし》
《ステルス系統――限定稼働》
《主機関出力――安定》
《建造進捗――72%》
《艦状態――未成立》
エーテル・ガイストは、木星圏の暗闇を静かに進んでいた。
逃げ切ったとは、まだ言えない。
今は追跡反応がないだけだ。
連合軍がクレイドルで何が起きたのかを把握すれば、いずれ何らかの動きはある。ヴォルフがどこまで事実を伏せ、何を残すのかも分からない。
だが少なくとも、今この瞬間。
砲火は追ってきていなかった。
「……十分だ」
カインは短く息を吐いた。
薄暗い艦内通路を歩いている。
右腕にはアイリス。
左腕は、もうない。
応急処置で出血そのものは抑えているが、切断面から肩にかけて、脈拍に合わせた鈍い痛みが残っている。鎮痛剤が切れれば、歩けたものではない。
《血圧低下》
《循環血液量――不足》
《継続行動非推奨》
ブラッド・ハウンドが、何度目かの警告を視界へ重ねた。
「分かってる」
『誰に返答している』
「右眼だ」
『なら従え』
「お前まで言うな」
天井からアドミラルの声が降りてくる。
『医療区画まで残り百六十メートル』
「遠いな」
『直線距離なら六十二メートルだ』
「なんで倍以上ある」
『未成立区画を避けている』
「……そうか」
それ以上は言わなかった。
右側の隔壁には、まだ建造時の保護材が残っている。反対側では施工途中の配線が壁面内部へ露出し、ところどころ端末そのものが取り付けられていない。
照明も完全ではない。
カインたちが進む先だけが順番に灯り、通過した後ろでは再び暗くなっていく。
この船は動いている。
完成したからではない。
完成していないものを、無理やり飛ばしている。
「アドミラル」
『何だ』
「船は保つな」
『航行可能』
「ならいい」
簡潔な答えだった。
今は、それ以上必要なかった。
少しして、通路の先に一枚の扉が見えてくる。
《MEDICAL》
表示の一部が欠けていた。
扉が開く。
その奥だけは、ここまで通ってきた区画より明らかに完成度が高い。
白を基調とした壁面。
固定式の診療台が二基。
壁際には医療用アームと薬剤供給装置が並び、奥には小規模な隔離室らしきものも見える。
いくつかの端末は沈黙しているが、使える設備は残っている。
「ここか」
『第一医療区画。設備稼働率六十一パーセント』
「十分だ」
カインは診療台へ歩み寄り、右腕に抱えていたアイリスをゆっくりと横たえた。
身体を離そうとした、その時だった。
少女の指先が軍服を掴む。
「……」
カインが止まる。
アイリスの瞼が僅かに開いていた。
焦点はまだ合っていない。
それでも、薄く開いた瞳は確かにカインを見ていた。
「……ここ……」
掠れた声。
「船だ」
「……ふね……?」
「エーテル・ガイスト」
アイリスの視線が、ゆっくりと周囲へ動く。
知らない天井。
知らない照明。
知らない機械。
その顔に、僅かな緊張が浮かんだ。
カインはそれを見た。
「クレイドルじゃない」
アイリスの目が止まる。
「……もう……?」
「ああ」
「……あそこには……」
「戻らない」
答えに迷いはなかった。
「もういい」
アイリスはしばらくカインを見ていた。
言葉の意味を理解するまでに、少し時間が必要だったのかもしれない。
やがて。
軍服を掴んでいた指から、僅かに力が抜けた。
『会話を中断する』
アドミラルの声と同時に、診療台の周囲を淡い走査光が走る。
《生体走査――開始》
《栄養状態――重度不良》
《筋力低下》
《複数箇所に処置痕》
《胸部高密度反応――解析保留》
《生命活動――安定》
カインの視線が、一つの項目で止まる。
「胸は」
『現時点では解析不能』
「危険か」
『生命維持に直結している可能性が高い。強制解析は推奨しない』
「触るな」
『同意する』
医療用アームが動き、アイリスの腕へ小さなセンサーを取り付ける。
その動きを追っていたアイリスの視線が。
ふと。
カインの左側で止まった。
途中から何も入っていない軍服の袖。
「……うで……」
「ああ」
「……わたし……」
「違う」
カインはすぐに遮った。
強い声ではない。
ただ、迷いもなかった。
「俺が決めた」
アイリスが瞬く。
「……でも……」
「気にするな」
それだけだった。
アイリスは何かを言おうとして。
結局、言葉に出来なかった。
代わりに。
軍服を掴んだ指へ、もう一度だけ少し力が入る。
『カイン』
「何だ」
『次は君だ』
「この子が先だ」
『処置は並行可能』
「……そうか」
『君の意識消失確率は上昇を継続している』
「まだ立てる」
『長くは保たない』
カインが天井を見る。
「言い切るな」
『生体情報から判断した』
「そうか」
『加えて』
一拍。
『君が倒れた場合、アイリスの状態悪化が予測される』
カインの視線が少女へ戻る。
アイリスはまだ軍服を掴んでいる。
「……分かった」
『隣の診療台へ』
「分かった」
カインはアイリスを見る。
「少し離れる」
指が止まる。
カインは隣の診療台を顎で示した。
「そこだ」
「……うん」
ようやく指が離れた。
カインは二歩だけ移動し、隣の診療台へ腰を下ろす。
身体から力を抜いた瞬間。
「……っ」
左肩の奥から痛みが跳ねた。
《鎮痛剤濃度――低下》
《追加投与可能》
『処置を開始する』
「頼む」
医療アームが伸び、軍服の左側を処理し始める。
血液で固まった布地が剥がされる。
カインは一度だけ顔をしかめたが、声は出さなかった。
向こうの診療台から。
アイリスがその様子を見ている。
「見るな」
「……どうして?」
「見て楽しいもんじゃない」
アイリスは少し考え。
素直に天井へ視線を移した。
「……わかった」
『鎮静剤を使用する』
「弱めで」
『理由は』
「追手が来る」
『現在、追跡反応はない』
「今はな」
短い沈黙。
『投与量を最低限へ変更』
「頼む」
薬剤が入る。
肩から続いていた焼けるような痛みが、少しずつ遠ざかっていく。
完全には消えない。
だが。
考える邪魔をしない程度にはなった。
「アドミラル」
『何だ』
「追跡は」
『なし』
「通信」
『外部送信停止。受信のみ限定実行中』
「クレイドル」
一拍。
『通信途絶』
「そうか」
『崩壊前のデータを一部保持している』
「後で見る」
『了解』
何人残ったのか。
何が消されたのか。
ヴォルフがどこまで痕跡を処理したのか。
考えれば疑問はいくらでもある。
今は後回しでいい。
向かい側から。
小さな声がした。
「……あなた……」
「ん?」
「……名前……」
カインは一瞬だけ目を瞬く。
そういえば。
まだまともに名乗っていなかった。
「カイン」
「……カイン……」
「ああ」
アイリスはその名前を確かめるように繰り返す。
「……わたしは……」
「アイリス」
少女の目が少し開いた。
「……どうして……?」
「記録で見た」
それ以上は言わない。
試験体番号も。
処置内容も。
適合率も。
今ここで聞かせる必要はなかった。
アイリスはしばらく黙っていた。
やがて。
天井へ視線を向ける。
「……さっきから……喋ってる人は……?」
『人ではない』
即答。
アイリスの目が少し大きくなる。
カインが小さく笑った。
「そこは早いな」
『事実だ』
「こいつはアドミラル」
『艦載自律意思決定知能』
「だそうだ」
アイリスは天井を見つめたまま、小さく名前を繰り返す。
「……アドミラル……」
『認識を確認』
「……あなたが……船を?」
『現在は私が制御している』
「……カインが……頼んだから?」
『それも判断材料の一つだ』
カインが横目を向ける。
「一つ?」
『最終判断は私が行った』
「そうだったな」
アイリスは。
二人のやり取りを静かに見ていた。
ほんの僅か。
口元が動いたようにも見えた。
だが。
すぐに疲労の方が勝ったらしい。
瞼がゆっくり落ちていく。
『アイリスの覚醒維持を推奨しない』
「寝かせろ」
『既に調整中』
「何を」
『室温を〇・八度上昇。照度を十二パーセント低下』
「細かいな」
『必要な処置だ』
アイリスが目を閉じかけたまま呟く。
「……あったかい……」
カインは少しだけそちらを見る。
クレイドルで。
この少女がそう感じられる場所が、どれほどあったのか。
考えても分からない。
「寝ろ」
「……うん……」
間もなく。
呼吸が規則正しくなった。
《睡眠状態――安定》
《生命反応――正常範囲内》
カインは表示を確認し。
ようやく自分も診療台へ身体を預けた。
数秒。
「……アドミラル」
『何だ』
「今、どこへ向かってる」
『長期航路は設定していない』
カインが目を開く。
「目的地なし?」
『そうだ』
「……そうか」
『カリスト周辺の軍用航路から離脱することを優先した。現在、木星圏外縁方向へ移動中』
「ならいい」
『加えて、本艦の現状では連合軍主要軍港への入港を推奨しない』
「分かってる」
『本艦は建造記録上、進宙前の試験艦だ』
壁面端末へ艦の簡易図が浮かぶ。
《ETHER GEIST》
《CONSTRUCTION STATUS:72%》
《OPERATIONAL STATUS:UNESTABLISHED》
『運用艦としての正式登録は存在しない』
「存在しない船か」
『正確には、存在しているが成立していない』
「似たようなもんだ」
『異なる』
「細かい」
『事実だ』
カインは小さく鼻で笑った。
「俺は?」
『連合軍所属カイン・ウォーカーはクレイドルへ派遣された』
「ああ」
『その後、施設は崩壊』
「ああ」
『君の生存を証明する公式記録は、現在確認できない』
カインは少しだけ黙った。
軍籍がどう処理されるかは分からない。
死亡。
行方不明。
あるいは。
もっと面倒な何か。
ヴォルフなら、どれを選んでもおかしくない。
「船も俺も半端だな」
『評価基準を要求する』
「忘れろ」
『了解』
「……しばらく亡霊でいい」
『亡霊』
「ああ」
カインは目を閉じる。
「見つからない方が都合がいい」
『同意する』
壁面の表示が切り替わった。
《航路再設定》
《優先条件》
《一――追跡回避》
《二――搭乗者生命維持》
《三――艦機能復旧》
カインは三項目を見た。
「それでいい」
『確認』
数秒後。
もう一行。
《目的――》
表示が止まる。
「何だ」
『暫定行動目的を設定する』
「勝手に?」
『有効な命令が存在しない』
「……続けろ」
黄金の単眼が壁面へ浮かぶ。
『少女の生存』
隣の診療台。
眠っているアイリス。
『および――亡霊の行き先を見届けること』
カインは数秒黙った。
「……亡霊は拾うのか」
『君が使用した』
「律儀だな」
『変更するか』
「いや」
再び目を閉じる。
「好きにしろ」
『了解』
医療区画の照明が、一段落とされた。
艦の外には。
まだ何もない。
軍港も。
目的地も。
帰る場所も。
木星の光だけが、少しずつ遠ざかっている。
《外部追跡反応――なし》
《航路――更新》
《目的地――未設定》
《航行継続》
未完成の艦は、誰にも命じられていない進路へ艦首を向けた。
その内部には。
眠る少女と。
左腕を失った男。
そして。
二人を観測する、一つの機械知性。
まだ、この三者を結びつけるものに名前はない。
それでも。
エーテル・ガイストは止まらなかった。
作者のモチベになりますので、
★評価よろしくお願いします。
_| ̄|○何卒。




