第1話:三者の出会い
初投稿になります。
木星衛星カリスト。
零下百八十度にも達する凍てついた地表。その厚い氷殻の地下深く、人目から隠された場所に、連合軍の極秘研究施設は存在していた。
施設識別名――《クレイドル》。
ヴォルフ元帥が推進する《人類の夜明け計画》。
その研究と実験の一端を担う施設は、今まさに自らの痕跡を消そうとしていた。
《施設放棄プロトコル――進行中》
《機密情報消去――継続》
《主要区画閉鎖》
《残存人員――処理対象》
赤色灯が明滅する通路を、カインは走っていた。
「……クソッ……」
右腕には、一人の少女を抱えている。
白い検査衣から覗く手足は細く、ひどく軽い。
アイリス。
つい先ほどまで、研究区画の奥で《実験体》として扱われていた少女だった。
施設の振動に合わせ、天井から細かな破片が降る。垂れ下がった配線が火花を散らし、破損した冷却管から白い霧が噴き出していた。
そのすべてを、カインの右眼が拾っている。
《前方構造変形》
《落下物予測――右方》
《後方熱源――複数接近》
機械式多機能義眼。
視界の端を走る警告に従い、カインは進路を半歩だけずらした。
直後、天井材が背後へ落ちる。
足は止めない。
後方から高速で接近する複数の反応も、人間ではなかった。
施設保安用の無人機。
先ほどまでは侵入者を排除するために配置されていたものが、今では施設に残されたものすべてを消去するために動いている。
銃撃。
カインはアイリスを抱いたまま身を低くした。
光弾が頭上を抜け、壁面を抉る。
《次弾予測》
《二・一秒》
壁を蹴る。
一発目をかわす。
身体を沈める。
二発目。
曲がり角へ滑り込み、ようやく射線を切った。
「まったく……」
息を整える暇もない。
「最後まで始末だけは丁寧だな、ヴォルフ」
返事の代わりに、警報が響いた。
腕の中で少女の身体が僅かに動く。
生きている。
それを確認して、カインは抱え直した。
軽い。
抱き上げるには楽だった。
だからこそ、腹が立つ。
人間の少女を抱いている重さではなかった。
長期間にわたる投薬と処置。
身体の各所に残る手術痕。
胸部には、通常の人体には存在しない反応。
ここで何をされていたのか。
すべてを知ったわけではない。
それでも、十分だった。
「……これが《人類の夜明け》か」
吐き捨てるように呟く。
「随分と立派な夜明けだな」
その瞬間。
壁面の情報端末が乱れた。
砂嵐。
途切れかけていた表示が一度消え、代わりに黄金色の円形光学表示が浮かび上がる。
単眼。
それが、こちらを見た。
『カイン・ウォーカー』
「まだいたのか、目ん玉」
『質問の意図が不明瞭だ』
施設内ネットワークのどこかから、抑揚のない声が返る。
機械知性。
施設側の管理知性なのか、それとも別の系統に属するものなのか。
それすら、カインにはまだ分かっていない。
ただ一つ分かっているのは、こいつが先ほどから施設設備へ勝手に侵入し、カインの行動を観測しているということだった。
『現在地点から格納区画までの最短経路を更新した』
通路図がブラッド・ハウンドへ送られる。
『残存時間、百八十二秒』
「短くなったな」
『当然だ。君が非効率な行動を継続している』
「そうか」
『少女を放棄した場合、移動速度は三十八パーセント向上する』
「却下だ」
『生存確率も上昇する』
「それも却下」
『合理的ではない』
カインは走りながら鼻で笑った。
「人間相手にそれを言うなら、相手を選べ」
『では何故、その少女を保持する』
カインは一度だけ、腕の中へ視線を落とした。
閉じられた瞼。
弱い呼吸。
何も知らずに眠っているようにも見える。
「ここへ置いていったら死ぬ」
『それは回答になっていない』
「俺には十分だ」
黄金の単眼が一度だけ明滅した。
『記録した』
「好きにしろ」
次の区画へ入った瞬間、ブラッド・ハウンドが新たな警告を視界いっぱいに展開した。
《緊急》
《隔壁閉鎖》
《上下構造体――作動》
「……ッ!」
床が震えた。
前方数十メートル。
天井と床から、分厚い装甲隔壁が動き出す。
通常の気密隔壁ではない。
区画そのものを物理的に圧壊させるための非常封鎖機構。
『施設放棄プロトコルが最終段階へ移行した』
アドミラルの声。
『カイン、停止しろ。その先は――』
「止まったら追いつかれる」
速度を上げる。
『通過成功率は低い』
「ゼロじゃない」
『君はその判断を多用する』
「便利だからな」
閉鎖する隔壁。
残り十五メートル。
十。
七。
上下から迫る装甲の間隔が狭まる。
《通過限界――三・二秒》
いける。
ブラッド・ハウンドが示した予測線へ身体を合わせる。
その直前だった。
背後から飛来した一発が壁面へ命中する。
爆発。
床が僅かに跳ねた。
「っ……!」
姿勢が崩れる。
《予測経路――不成立》
カインは迷わなかった。
腕の中のアイリスを前方へ押し出す。
投げるのではない。
閉じかけた隔壁の向こうへ、身体ごと滑らせた。
少女が床を転がる。
その直後。
轟音。
「ぐッ――!」
カインの身体が止まった。
左腕。
肘から先が、上下から噛み合った装甲の間へ挟まれている。
一瞬遅れて、痛みが来た。
「――ッ、ぐ……ぁ……!」
骨が潰れる感触。
肉が裂ける。
神経から駆け上がった信号が、視界そのものを白く染めた。
《左上肢――重度損傷》
《血圧低下》
《心拍上昇》
《離脱不能》
ブラッド・ハウンドの警告表示が赤く変わる。
隔壁の向こうでは、床へ倒れたアイリスが僅かに身じろぎしていた。
まだ生きている。
『カイン』
アドミラルの声がした。
先ほどまでと変わらない、感情のない声音。
『左上肢の構造維持は不可能』
「……見れば分かる」
『隔壁解除も間に合わない』
「それも……分かってる」
『施設崩壊まで九十四秒』
背後から無人機の駆動音が近づいてくる。
『離脱手段を選択しろ』
「もうしてる……」
カインは右手を腰へ伸ばした。
刀。
《崩兼元》。
鞘を払う。
黒い刀身が、赤色灯を鈍く返した。
『何をする』
「切るんだよ……」
『左腕をか』
「他に何がある……」
一瞬。
アドミラルが沈黙した。
『不可逆の処置になる』
「知ってる」
隔壁に呑まれた左腕。
すでに腕として残せる状態ではない。
助ける価値がないのではない。
助ける時間がない。
なら。
ここに置いていく。
カインは息を吐いた。
刃を振り下ろす。
肉を断つ鈍い感触が右腕へ返った。
次の瞬間。
身体が自由になる。
「――ぐ、ぁッ!」
膝が落ちかける。
刀を床へ突き立て、辛うじて身体を支えた。
《左上肢欠損》
《大量出血》
《意識レベル低下》
《緊急処置を推奨》
「ぐっ……分かってる……!」
腰の救急ポーチを開く。
血で滑る指を無理やり動かし、軍用の応急処置インジェクターを引き抜いた。
残った左上腕へ押し当てる。
作動。
止血剤。
鎮痛剤。
凝固を補助する医療ナノマシン。
一気に体内へ流し込まれる。
痛みが消えたわけではない。
焼け付く感覚の輪郭だけが強制的に遠ざけられ、代わりに頭の奥が異様なほど冴えていく。
治療ではない。
負傷した兵士を、もう少しだけ動かすための処置だ。
「……はっ……」
呼吸を整える。
崩兼元を拾い、鞘へ戻す。
『カイン』
「…何だ」
『行動継続能力の低下を確認』
「まだ…動ける」
カインは閉じた隔壁の隙間から身体を滑らせる。
右腕だけでアイリスを抱き起こした。
少女の身体は相変わらず軽い。
今は、その軽さを考えている余裕もなかった。
「道を出せ」
黄金の単眼が明滅する。
《経路更新》
《格納区画まで――六百四十二メートル》
『走れ』
「最初からそう言え」
施設そのものが壊れ始めていた。
壁の向こうで何かが爆ぜるたび、通路全体が揺れる。
非常灯が一つずつ消え、残された経路も次々と閉ざされていく。
《施設崩壊予測――五十八秒》
《格納区画――前方》
最後の隔壁が開いた。
その向こうに、巨大な空間が広がる。
造船設備。
工廠。
そして、その中央。
まだ完成していない一隻の艦が、暗闇の中に横たわっていた。
巨大だった。
外装の一部は未施工。
建造用フレームが残り、艦体各所には作業用足場と接続ケーブルが伸びている。
完成した軍艦というより。
まだ骨格を残した巨大生物に近い。
《創世級試作実験艦》
《ETHER GEIST》
「……あれか」
『肯定』
アドミラルの声が。
今度は格納区画全体から響いた。
カインの視線が、壁面の黄金の単眼から巨大艦へ移る。
「お前」
『何だ』
「そっちのだったのか」
『本艦搭載知性である』
「先に言え」
『質問されていない』
「……そうだな」
巨大艦を見上げる。
『本艦は現在、建造工程を完了していない』
「見れば分かる」
『主要推進系は接続済み。ただし、艦体複数区画が未成立』
「飛べるか」
『通常手順では不可能』
「通常じゃなきゃ?」
『強制抜錨』
カインは艦を見上げたまま聞く。
「出来るんだな」
『可能』
『ただし実行した場合、本艦へ損傷が発生する可能性が高い』
「ここに残れば?」
『本施設の崩壊に巻き込まれる』
「なら決まりだ」
格納区画へさらに大きな振動が走る。
後方隔壁が歪み、赤熱した裂け目が走った。
《崩壊予測――三十七秒》
艦への連絡路を進む。
内部へ入ると、そこもまだ建造途中だった。
剥き出しの構造材。
仮設照明。
未接続の端末。
静まり返った艦内には、人の気配が一つもない。
それでも。
艦は死んでいなかった。
奥のどこか。
低く、大きな振動が一度だけ響く。
鼓動のようだった。
「アドミラル」
『聞いている』
「こいつを起こせ」
『要求を確認』
カインは右腕の中を見る。
アイリスの呼吸はある。
だが弱い。
「この子を医療区画へ運ぶ」
一度、息を整える。
「そのまま、ここを出るぞ」
『君自身にも処置が必要だ』
「まだ動ける」
『状態の悪化を確認している』
「飛んでから診ろ」
一拍。
『了解』
《ADMIRAL――CONTROL LINK》
《建造管理系統――切替》
《生命維持系――緊急起動》
《医療区画――優先起動》
《主機関接続確認》
《ETHER CORE――STANDBY》
艦内のどこかで、一つ目の照明が点いた。
続いて二つ目。
三つ目。
暗闇の奥へ向かって、白い光が次々と伸びていく。
《搭乗生体――二》
《生命反応――確認》
《少女個体――状態不安定》
《医療区画――限定稼働》
カインが顔を上げる。
「場所は」
『経路を表示する』
「先に連れていく」
『推奨する』
ブラッド・ハウンドへ新しい経路が表示された。
それと同時に。
艦体を震わせる振動が強くなる。
遠くで巨大な機械が回転を始めた。
《主機関――起動》
《エーテル・コア出力上昇》
《推進系――接続》
《係留機構――解除不能》
《建造用固定具――残存》
『通常離床は不可能』
「だから強制でやれ」
『艦体損傷率が上昇する』
「飛べなくなるほどか」
『現時点では予測不能』
カインは一瞬だけ黙った。
背後。
施設の崩壊音。
腕の中。
弱い呼吸。
「ここに残るよりマシだ」
『同意する』
「なら飛ばせ」
『了解』
《強制抜錨シーケンス――開始》
《建造用接続――切断》
《外部電力――遮断》
《艦内電源――自律系へ移行》
《推進器――点火準備》
艦全体が大きく軋んだ。
格納庫の各所で接続ケーブルが爆ぜる。
建造用アームが非常解除され、それでも外れなかった固定部を艦自身が引き千切っていく。
《施設崩壊――十八秒》
轟音。
船体が動いた。
ほんの僅か。
だが、確実に。
建造されてから一度も自力で航行したことのない巨大艦が、自らの重量を初めて宇宙へ預けようとしていた。
『推進器点火』
次の瞬間。
凄まじい振動が艦体を貫いた。
カリストの地下工廠が裂ける。
格納区画を覆っていた氷と岩盤が崩落し、施設設備が次々と押し潰されていく。
その中央を。
黒い巨体が突き破った。
外装を削り。
建造用構造物を引き千切り。
凍結した地表を割って。
未完成の巨大艦が、カリストの空へ躍り出る。
《地表離脱》
《重力圏離脱航路――算出》
《追跡反応――多数》
《ステルス系統――限定起動》
《艦識別――ETHER GEIST》
施設の光が遠ざかっていく。
やがてそれも、カリストの暗い地表へ溶けた。
艦内。
カインは壁へ背を預け、ようやく一度だけ長く息を吐いた。
右腕には。
まだアイリスを抱えている。
『医療区画への搬送経路を再表示する』
「頼む」
『君自身にも処置が必要だ』
「分かってる」
『少女の搬送後、直ちに処置を行う』
カインが黄金の単眼を見る。
「決定事項か?」
『そうだ』
「…そうか」
立ち上がろうとして。
僅かによろめく。
左側にあるはずの重さがない。
身体はまだ、その事実を理解しきれていなかった。
カインは右肩を壁へ当てて身体を支え直す。
そして。
アイリスを抱いたまま、一歩を踏み出した。
止まるつもりはなかった。
その背を。
黄金の単眼は静かに見ていた。
《航行記録――開始》
《搭乗者登録》
《KAIN WALKER》
《IRIS――暫定登録》
《ADMIRAL――ONLINE》
三つの存在が。
一隻の未完成艦の中で、初めて同じ航路に乗った。
機械知性アドミラル。
実験体として生かされてきた少女、アイリス。
そして。
左腕をカリストへ置いてきた男、カイン・ウォーカー。
連合軍にとって。
その日を境に、一人の英雄が姿を消した。
代わりに。
宇宙のどこにも所属しない未完成艦が、一つの航跡を残していく。
その艦の名は――エーテル・ガイスト。
カインはまだ知らない。
自分がこの先。
英雄ではなく。
一隻の艦とともに宇宙を渡る《亡霊》として、その名を残していくことを。
評価よろしくお願いします。




