第三話アイリスの記憶①
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カインは走っていた。腕の中に、軽すぎるほどの体重。少女を抱いて
アイリスは、完全には意識が戻っていない。
だが、音だけが――
言葉だけが、断片的に染み込んでくる。
ザザッ。
『――不合理だ…ザ――無駄な咆哮だな』
低く、金属の擦れるような声。
『カイン、残存生命活動可能時間は残り180秒だ。
その少女を捨てれば、生存率は80%まで回復する。
次の通路を左だ』
「……チッ……誰だ、てめぇ……!」
息を切らしながら、カインが吐き捨てる。
「施設のAIか?それともヴォルフの犬か!」
ザザッ。
一瞬、ノイズが走る。
『否定する』
『私は、この施設の管理AIではない』
『また、ヴォルフ元帥の指揮系統にも属していない』
崩落音。金属が歪む轟音。
アイリスの意識が、わずかに浮上する。
――だれ……?
『私は艦載知性だ』
声は、冷たい。
だが、妙に落ち着いている。
『宇宙戦艦搭載』
『呼称は――アドミラル』
「……提督……艦の、AI……?」
カインは走りながら、鼻で笑った。
「冗談だろ。こんな氷の牢獄に、艦があるってのかよ」
『事実だ』
『そして現在、貴様の生存確率を最も高く維持できる存在でもある』
爆炎。
熱風。
カインは歯を食いしばる。
「……だったら、今すぐ出しやがれ。その艦を!」
ザザッ。
『可能だ』
『ただし条件がある。この艦は未完成――』
その言葉の続きを、アイリスは聞き取れなかった。
衝撃。
重力が、ひっくり返る。 床が揺れ、
天井の向こうで何かが――壊れた。
ピピッ
《警告!》《構造材崩落!》《酸素濃度低下!》
右目の義眼が、 無慈悲なほど冷静に情報を吐き出す。
「チッ……!」
カインは舌打ちし、アイリスを抱え直した。
その動きで、彼女の頬が、彼の胸に触れる。
***
――あたたかい。 その感覚だけが、
アイリスの意識を、現実に繋ぎ止めていた。
耳鳴り。視界が白く滲む。
次に来たのは、 重さだった。 身体が、強く引き寄せられる。 抱えられている感覚。
――あたたかい。
胸に、固い鼓動が伝わってくる。
それが、誰のものかは分からない。
ただ、落ちていかない。
ザザッ。
遠くで、ノイズ混じりの声が続く。
意味は、理解できない。でも、急いでいることだけは分かる。走る振動。息の荒さ。そのたびに、
抱く腕に、力が込められる。
――行かなきゃ。
理由は分からない。
でも、その必死さだけが、伝わる。
突然、身体が大きく揺れた。
ズゥゥゥン――。
何かが、落ちる音。
次の瞬間、胸の温もりが、一瞬だけ、遠ざかった。
――いや。
強い力が、身体が、前へ押し出される。冷たい床。衝撃。
その直後。音が、壊れた。
ギチ、 ゴキン。
金属が、何かを噛み砕く音。
それは、 扉が閉じる音ではない。
「――――ッ」
声。
悲鳴。
胸の奥が、 きゅっと縮む。
ザザッ。ピピッ。
機械的な音。
――ひだり、うで。
なぜか、それが、自分のせいだと思った。
理由はない。ただ、そう感じた。次に見えたのは、背中。片側だけ、少し傾いた背中。それでも、立っている。
――先に。
そう言われた気がした。声ではなく、動きで…その瞬間、
アイリスの意識は、静かに切れた。
あの言葉。――選択しろ。
誰かが、誰かに向けて投げた問い。
最後に聞こえた言葉だけは、なぜか胸の奥に沈んだ。
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時系列は脱出後アイリスが目を覚ました後
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「……ただの亡霊だ」
彼女は、その言葉を否定しなかった。
代わりに、ぎこちなく――それでも確かに、
彼の軍服の裾を掴んだ。
力は、弱い。指先は、冷たい。
それでも、「離れない」という意思だけは、はっきりしていた。カインは、何も言えなかった。
言葉を返せば、その重さで、何かが崩れる気がした。黄金の目が、静かに瞬く。
ザザッ。
『――覚醒レベル、安定』
『――外傷以外の異常なし』
無機質な報告。
だが、その声は、先ほどよりも少しだけ低い。
アイリスは、その音に、わずかに反応した。
視線が、カインの背後へ向く。
「……さっきの……声……」
掠れた問い。カインは、肩越しに振り返る。
モニターに映る単眼の黄金色に輝く、静かな“視線”。
「……ああ」
短く、息を吐く。
「こいつが……この艦のAIだ」
少し間を置いてから、付け足す。
「名前は……アドミラル、らしい」
アイリスは、その名を、心の中でなぞる。
――アドミラル。
でも。口から出たのは、違う言葉だった。
「……提督……?」
カインが、驚いたように彼女を見る。
「……なんで、それを……」
アイリスは、首を小さく振った。
「……わからない……」
分からない。でも、それだけは、残っていた。
ザザッ。
『――呼称を確認した』
アドミラルの声が、わずかに遅れて響く。
『――許容範囲内。好きに呼んでくれて構わない。』
それだけ言って、それ以上は、何も説明しない。
アイリスは、もう一度、カインの裾を掴んだ。
今度は、少しだけ、強く。
「……行くの……?」
問い。カインは、
失った左腕の痛みを、奥へ押し込める。
そして、立ち上がろうともしないまま、答えた。
「ああ」
「……逃げる」
それは、撤退でも、敗走でもない。
生きるための、ただひとつの進路。
黄金の目が、静かに瞬く。
『――進路、設定完了』
『――次の選択点まで、航行を継続する』
アイリスは、その言葉の意味を、まだ知らない。
ただ。この場所で、この人と、この“声”と一緒にいる限り――
自分は、“部品”ではない。
その確信だけが、彼女の胸に、静かに灯っていた。




