第二話:アドミラルのログ①
***
[―システムチェック完了―]
[―外部追跡反応:なし―]
[―潜伏モード、安定―]
轟音は、いつしか遠ざかり。
振動は、微かな鼓動へと変わっていった。
エーテル・ガイストは、漆黒の宇宙を漂っている。
逃げ切ったのではない。
――“切り離された”のだ。
艦橋には、低く規則正しい駆動音だけが残る。
黄金の単眼【アドミラル】は、静かに全系統を見渡していた。
『ここから先、この艦の存在は公式記録上――“未成立”となる』
それは宣告であり、祝福でもあった。
床に座り込んだカインは、もはや立ち上がる力すら残っていなかった。
止血は完了している。だが、失ったものは戻らない。
左腕の断面に残る鈍い痛みが、「まだ生きている」と、執拗に主張してくる。
その腕の中で、アイリスが微かに身じろぎした。
ゆっくりと、瞼が開く。初めて映るのは、血に塗れた男の顔と、その背後で静かに輝く、黄金の目。
「……ここ……は……?」
か細い声。
だが、それは“部品”の起動音ではなかった。
「……宇宙だ」
カインは短く答える。
「……もう、誰も追ってこない」
アイリスはしばらく黙り込み、
やがて、小さく息を吸った。
「……あなたは……」
「……カインだ」
少し間を置いて、付け足す。
「……ただの亡霊だ」
彼女は、その言葉を否定しなかった。
代わりに、ぎこちなく――それでも確かに、
彼の軍服の裾を掴んだ。
『――記録追記』
アドミラルの声が、艦内に静かに響く。
『本艦は今後、いかなる国家、軍、組織にも属さない』
『目的は単一』
黄金の単眼が、わずかに明度を上げる。
『――少女の生存、および亡霊の行き先を見届け
ること』
カインは、力なく笑った。
「……ずいぶん、非合理的になったな……」
『学習の結果だ』
『君の行動は、私の演算体系に修正を強いた』
『――興味深い』
艦は、ゆっくりと進路を変える。
目的地は、未設定。
未来も、未定義。
だが――
英雄は、確かに死んだ。
だがその死から、
戦争の道具でも、神の駒でもない存在が生まれた。
***
回想ログ アドミラル
――艦載AI 行動記録
――記録開始。
観測地点:木星衛星カリスト
外部環境温度:摂氏マイナス一八〇度
静穏度:極大
カリストは死んでいる。
音も大気も存在しない。
生命活動は、地表下に埋設された人工構造物の内部にのみ確認される。
連合軍極秘研究施設【クレイドル】。
目的:「人類の夜明け」。
評価:定義不明。
成功条件、未提示。
艦名:【エーテル・ガイスト】
建造進捗:72%
起動状態:待機
艦載AI:アドミラル
人格モジュール:稼働中
私は艦である。
よって私は、施設と共に廃棄される予定だった。
施設放棄プログラム――未発動。
未来は、まだ確定していなかった。
異常検知。
施設内ネットワークに、
規定外の侵入と戦闘ログが混入。
逃走個体を捕捉。
個体名:KAIN_WALKER
所属:連合軍
現在判定:反逆
損傷:軽度
同行:少女個体一名
少女個体:生体部品として調整済み。
保護価値:艦運用上、不要。
私は、最適解を算出した。
施設内モニターを一時掌握。
音声出力、通路スピーカーへ転送。
『ザザッ――不合理だ…ザ――無駄な咆哮だな。
カイン、残存生命活動可能時間は残り180秒だ。
その少女を捨てれば、生存率は80%まで回復する。
次の通路を左だ。』
これは命令ではない。
忠告でもない。
生存確率に基づく、状況提示である。
対象は走行を継続。
提案を拒否。
内部構造ログ、急変。
指揮権限コード更新を検知。
発信元:連合軍上層権限
識別名:ヴォルフ元帥
ザザッ
『――カイン、警告する。ヴォルフ元帥が「施設放棄プログラム」を発動した。
あと120秒で、この階層は――』
通信途絶。
上部・下部構造隔壁、
同時高速閉鎖。
逃走経路、完全遮断。
脱出可能性、再計算。
――脱出不能。
私は、選択肢を再提示した。
『……脱出不能。カイン、選択しろ。ここで少女と共に宇宙の塵になるか、
あるいは――ザザッ――を捨ててザザッ―』
音声出力不調
判断主体は、個体KAIN_WALKER。
私は結果を待った。
次に観測された行動は、自己部位切断。
左腕部、完全喪失。生存確率、上昇。だが、少女個体は保持されたまま。
私は、演算を一瞬停止した。多くの人類は、他者を犠牲にしてでも生き延びる。
この個体は、生き延びるために自分を犠牲にした。
この行動は、提示した選択肢の外側に存在する。
――例外。
私は、言語出力を行った。
『――ほう――生き延びるために本当に捨てるとは――面白い――』
これは感情ではない。
評価である。
個体KAIN_WALKER、本艦へ到達。
未完成艦への起動要求を確認。
拒否理由:存在せず。
彼は艦を利用しようとしたのではない。
艦と運命を共有する意思を示した。
艦長適性条件、充足。
【エーテル・ガイスト】
強制抜錨。
カリスト地表、破断。
研究施設【クレイドル】、崩壊。
本艦は、
予定されていなかった航路へ侵入した。
記録追記。
本事象は、
戦略的合理性に寄与しない。
だが、
本艦は現在も航行中である。
少女個体、生存。
艦長、欠損を負い生存。
この事実は否定できない。
よって本記録は、
削除対象としない。
――記録終了。




