うろこのひと
馬車に乗り込んだときの眠たい日差しは、いつの間にかすっかりと覚醒していた。
枯れた木々の間から昼の光が差して、前を歩くテトラのグレーの背中を斑模様に染めている。
自分と輝夜との歩幅の差を気にもせずにどんどん進んでいくテトラの背中が、不意に止まった。輝夜は小走りして彼に追いつく。視界が開けた。
眼前に広がるのは、色とりどりに咲く、可憐な花。――白、赤、薄紫。輝夜は花の品種には詳しくないけれど、どれも、花屋で見たことのある種類だ。誰かが手入れした跡のある花畑。その奥に、小さな家がぽつりと建っている。数歩先にいるテトラが、こちらを振り向いた。目が合うと、彼は顎を引いて輝夜に合図を送る。ここに魔物が住んでいるらしい。
家の入り口から輝夜の右手側に向かって獣道のように伸びているのは、露出した土。ここを誰かが頻繁に通っている証拠だ。耳を澄ませると、水音が聞こえる。近くを小川でも通っているのだろうか。
輝夜は一歩、花畑の方へと足を踏み出した。テトラを追い越して、なるべく花を踏まないようにして進む。背後でテトラが無遠慮に草花を踏みしめる音が聞こえる。花と露出した土との境目に石が並べられた道まで歩いて、さらに進む。扉の前に立つ。ドアを叩く。
「誰かいますか?」
返事はない。もう一度扉を叩いて、家主の不在を確認した輝夜は、テトラの方を振り返った。
「いないよ? どうしよう」
「どうしようって、いないなら――」
ばきり。太い木の枝か何かが踏み壊される音が、テトラの口を噤ませた。彼の顔が、右側を向く。テトラの茶色い瞳が限界まで見開かれた。
テトラの視界の先には、大きな魔物。荒れ狂う岩肌のような暗い体色に、光る鱗。古い血の色をした大きな瞳の中で、縦に割れた瞳孔がこちらを捉えていた。
古の伝説にあるような――ドラゴン。テトラはそう思って、息を飲んだ。輝夜からしてみればただの大きなとかげにすぎないのだけど、魔物をあまり見慣れないテトラには、この魔物の姿は、圧倒的に驚異である。
魔物が口を開けた。赤い口腔の中に、光る牙。杭のように凶悪な造形のそれは、異常な密度で生えていた。この口に噛まれたら人間などひとたまりもないだろう。
魔物の喉から、地響きのような唸り声が響く。
思わず腰に帯びた剣に手をかけたテトラを手で制して、輝夜が、魔物の方に一歩進み出た。
「あっねえ、きみ、喋れるかい? ぼくは暗夜。この国の勇者です」
のんきな口調で目の前の悍ましい異形に話しかけ始めた主人を、テトラはドラゴンに向けたのと同じような目つきで見た。ドラゴンは何も言わず、鈍色にぎらつく鱗を逆立てながら地鳴りのように低く響く唸り声を返した。
「そっか、きみは喋れないのか……話が通じるのなら、壁の国へ還って欲しかったんだけど……」
ぽつりとつぶやく輝夜。その背後で、テトラが息を飲む音がした。
「なぜ俺が、ここを捨てなければならないのだ」
低く、聞き取りづらく、濁った声。魔物の喉から発せられた声。テトラは目を見開いた。人の言葉を喋る魔物は見たことがあるけれど、これほどまでに人間とかけ離れた容姿の魔物が言葉を話すのは初めて見た。
――自分の主人は、自分と出会う以前に見たことがあるのだろうか。しかし、彼がこういった見た目の魔物に話しかけているのを見るのは、今日が初めてだ。自分にはわからないけれど、何か見分け方でもあるのだろうか。いや、その前に彼は今、なんと言った?
「悪いけど、きみがここを離れてくれないのなら、ぼくはきみを殺さなきゃいけなくなる。ぼくが殺さなくたって、きっと国から兵が来るよ。ぼくは無駄に血を流したくないんだ。壁の国に還ってよ」
「暗夜様……?」
テトラが、乾いた声で主人の名を呼んだ。振り向いた輝夜の顔は、笑っていた。
魔物に向き直った輝夜の頭上に、魔物の声が振ってくる。
「なぜ俺が?」
「きみのためだよ」
「人間のためだろう? 綺麗事を言うんじゃない」
静かな声で問答を始めたふたり。変わらずのんびりとした口調の輝夜とは対照的に、魔物の声は低く割れていらだちをあらわにしている。テトラが無意識に剣帯に手を掛けた。かちゃりと鳴った小さな音に反応して、輝夜がテトラの大きな手を掴む。
「綺麗事じゃないよ。きみのためなんだ。だって、まだ、人間は魔物を憎んでいるでしょう? こんなところにきみがいたら、安全に暮らせないよ」
輝夜の手が、テトラの手の甲を撫でるようにさする。テトラが剣帯から手を離すと、輝夜の手が引っ込む。
魔物の声が、さらに荒くなる。
「それを綺麗事と言うんだ。人間が俺に関わらなければいいだけのことなのに、なぜ俺が、大切なものを手放してここを離れなければならないんだ?」
「それは、そうだけど……でもきみだって、死にたくはないでしょう?」
「当たり前だろう。しかし、おまえがどうしてもと言うのならば、俺は戦うぞ」
魔物が一歩身を引いて、構えを取った。剣の柄を握ったテトラのつま先をかかとで小突いて、輝夜が両手のひらを魔物に見せつけるように顔の横に掲げた。いらだった様子で構えを解いた魔物に、輝夜が問い掛ける。
「きみは、壁の外で育ったひとだね?」
「そうだが、それがどうした?」
「壁の中には、人間だって住んでいるよ。一度入ったらもう出られないけれど、外から入るのは簡単だよ。人間も魔物も、壁の国は平等に受け入れるんだ。治安はよくないかもしれないけど、でも、ここにいるよりはきっといいよ」
輝夜の言葉に、鱗に覆われた眉山を器用に上げた魔物が高い声を上げた。
「人間が……?」
「そうだよ。人間も。数はまだそんなに多くないけど、でも、少しずつ増えてるんだ。先月もふたり来たよ。人間の暮らしに疲れちゃったんだって」
「それは本当か?」
「本当だよ。ここも、そうなればいいのにね。そうしたら、きみもきみの大切なひとも、嫌な思いせずに、ここに居られるのにね」
微笑んだ声でそう言った輝夜。魔物は束の間納得したようなそぶりを見せていたが、急に眉間にしわを寄せて輝夜を睨んだ。
「盾の国の勇者が、なぜそれを知っているのだ?」
低い声で問いかけられて、輝夜はゆっくりとまばたきをした。丸く開かれたまぶたの中で黒目をふわりと泳がせてから口を開く。
「――友達がいるんだ。壁の国に。そのひとから聞いたんだ」
「そうか……」
「ぼくの言ったことが嘘だったら、また戻って来たらいい。……えっとね、輝夜って子に、暗夜に言われたっていえばきっと出してもらえるから。だから、今はぼくを信じて。お願いだよ」
懇願するように、輝夜が魔物の方へと上体を寄せた。魔物は、沈黙して、縦長の瞳孔をただ輝夜に向けた。長い、長い沈黙。その末に、ようやく口を開く。
「……ああ、わかった。おまえを信じるよ。俺のために、あの子を危険に晒すこともない。あの子と一緒に、俺は壁の国へ行こう」
ゆっくりと鼻先を下げて頷いた魔物。彼の凶悪な長い爪の生えた手を、輝夜の細っこくて柔らかい手が掴んだ。
「ありがとう! ねえ、名前を聞いてもいい?」
「……スケイル。もう会うことはないだろうが、またな、勇者」
大きな魔物――スケイルはそう言って、小さな手をひらひらと振った。それから輝夜に背を向けて、彼の図体には小さい家のドアを開ける。扉の奥に彼の姿が消えるのを見送ってから、輝夜は振り向いてテトラと目を合わせた。
「魔物討伐、これでもいいよね?」
「いいんですかね……」
納得がいっていないような様子で答えるテトラは輝夜の瞳に視線を据えた。
「なぜ殺さなかったんですか?」
「無意味に殺す必要はないと思ったんだ」
「どうして急に?」
輝夜は彼に本当のことは言えない。嘘をつかなければいけないのが少し苦しくて、足元に目を向ける。風に揺れる草花を眺めながら、彼の問いに答える。
「……壁の国の、話を、聞いたんだ」
「友だちに? それ、本当の話ですか?」
「本当だよ。一部の人だけだけど、壁から出られるひともいるんだ。その人と仲良くなって、それで……」
輝夜の足が、もぞりと動く。テトラの茶色い目に視線を向けると、目が合って驚いたのかその目は丸く開かれた。
「壁の国は、人間も魔物も一緒に暮らしてるんだ。魔物はいろんなひとがいるから、難しいところもあるけど……人間だからとか、魔物だからとか、そんな理由で争ったりはしないんだよ。だから、無駄に殺し合うのは嫌なんだ」
暗夜だったら、きっと対話を試みることもなく、スケイルを手にかけていたのだろう。テトラの反応を見ればわかる。暗夜として怪しまれずにいるためには、スケイルと戦うべきだ。わかっていたけれど、輝夜にはそれができなかった。勇気がないのだ。自分の目的のために、他者を犠牲にする勇気が。
「……おれも、まあ、同意見ですね。毎回血まみれになるのも嫌ですし……ところで、なんであの魔物が人間を大事にしてるってわかったんですか?」
「……うーん。なんとなく? なんか、理由があってここを離れたくないような気がして。あと、足元のお花、あの手じゃお手入れできないでしょ」
ふふふ、と笑う輝夜に、テトラは苦いものを噛んだような目つきを向けてきた。




